7.意地を張り続けて凌いできた
どこをどう捜しても栗山の姿は見えない。
いきなり碓井の背後に現れたときはドキリとさせられたが、その正体がかつての小学校の担任だとわかったとき、こんなにも心強い味方はないと思ったものだ。
なのに、忽然と姿を消してしまった。
大粒の雪が舞い乱れ、ろくに視界も利かない。軍用ライトの光芒をもってして、道の向こうまで捉えられないのだ。
碓井に対し、裁きを与えるかのような仕打ちの降り方だった。
――裁き? あの夏の悲劇に対する罰か? やっぱり涼介を死なせ、おれだけが生き残ってしまったのは罪だったのか?
後戻りしてみた。
本格的にラッセル(深い雪を払いのけ、道を開きながら進むこと)しないと足があがらない。靴のなかの指先は脈拍とともに疼いた。
フラッシュライトの光を地面に当てた。
やはり、栗山の分の足跡すらついていなかった。酔っ払いのように蛇行した碓井自身のそれがついているだけだ。思わず両腕を広げ、空に向かって叫んだ。
「だったらさ! さっきまで、おれはバカみたいに独り言、くっちゃべってたって言うのかよ! はじめから先生は夢だったってか!」
山中の曲がりくねった道は、真っ白な死への回廊と様変わりしていた。前に行くのも地獄、引き返すのも遅すぎた。およそ故郷、北奈裳尻へ続く懐かしい道中の面影は微塵もない。
到底、たどり着けない道のりに思えた。
いつの間にかシバリングがとまっていた。そのかわり、碓井の思考も支離滅裂に乱れていた。
すべてがどうでもよくなった。せっかく栗山の【存在】が精神の均衡を保っていたのに、一気に崩れ去ってしまった。
しょせんは碓井が必死につなぎとめようとしていた意志など、大自然の真っ只中に放り出されたら砂上の楼閣にすぎないのだ。あまりにも脆く、ちっぽけすぎた。
人間は恒温動物である。環境変化の差こそありこそすれ、周囲の気温が多少上下しようが、一定の体温を保とうとする働きが備わっている。
人体は例えるなら具を閉じ込めた肉まんのような構造になっている――まず暖かい核があり、それより温度の低い殻で覆われているのだ。
核とはすなわち、頭蓋骨に包まれた脳や、胸と腹部につまった生命維持に不可欠な器官のことである。
殻は皮膚をはじめとする、脂肪、筋肉などの残りの部分をさす。殻が核と外側の世界との緩衝地帯と同じ役目となり、急激な気温の変化から体内の器官を守っている。
体内の温度を適切な範囲に保つことが、生命を維持するうえにおいて、もっとも重要なことだ。
極端な低温や高温でも、核の温度は摂氏三十六・八度から上下に二度ほどしか変化しない。殻の場合だとそれより数度低い。
核の温度が上限は摂氏四十二・七度以上、下は摂氏二十八・八度以下になれば、そのとき人間は死に至る。
周知のように、人体は燃料を燃やしてエネルギーと熱を発生させる。ふるえが来るのはすなわち、発生させる熱より失われる熱の方が多いことを身体が教えようとしているためである。
ふるえという反射反応は、燃料をさらに多く燃やして熱の発生を促す効果がある。
しかしながら、身体の核の温度が少しでも下がると危険域に入ってしまう。ふるえるだけでは、身体を温めることができなくなるのだ。
また、人間の身体にはサーモスタットの機能が備わっている。
脳みその付け根にある視床下部で、体温を一定に保つために身体のすべての部分を監視し、熱の発生と消滅をコントロールするとされているのだ。
したがって低体温症を引き起こせば、そのサーモスタットがすぐさま反応。熱を核に集中するよう命令するわけである。
低体温症になると以下の症状が表れる。
――まず手足が強ばりはじめる。核の温度が下がるにつれて、身体は頭からも熱を引き出そうとする。連動する形で次に循環機能が弱まり、脳が必要とする酸素と糖分が得られなくなる。
通常、脳がもらっている糖分が、熱を発生させるために燃焼される。すると脳の働きが鈍り、かえってふるえがとまり、尋常ではない反応を示すようになる。
こうなると危険な兆候である。低体温症が恐るべき効果を示すのは、人間の意志の力を削ぐことなのだ。ましてや症状の表れた当人が、それに気づかないケースが多い。
ふるえがとまると、不安も感じなくなる。死に瀕しているのに、投げやりな気分になる。
この段階に入ると、人体は自らを温める能力を損ねている。仮に寝袋に潜り込めたとしても、体温は下がり続ける負のスパイラルに陥ってしまうのだ。
脈拍が不規則になり、眠気に襲われて意識が混濁。いずれ気を失い、そのまま命を落とす。
この窮地から脱するには、外部から熱をもらうことしかない。
火、温かい飲み物、他人の身体――低体温症を引き起こした者を温めるもっともいい方法のひとつは、体温が正常な人間といっしょに寝袋に包むことなのだ。
「くそッ……こんなところでくたばってたまるかよ」
進退窮まった碓井は栗山を捜すのをやめ、開きなおって前を向いた。とぼとぼ歩きはじめた。もはやレインポンチョは雪まみれとなり、伝説のUMA・イエティもかくやと思われるほど雪男然とした姿になっていた。動きがぎこちないのは、低体温症が末期的になり、手足の硬直がはじまっているせいだ。
「だったら前進あるのみだ。いまさら引き返すもんか。ぜったい北奈裳尻にたどり着いてみせる」
北奈裳尻にたどり着いたところで、どうにでもなるものではない。
意地を張っていたのだ。
あの少年時代も、三十二になり、尖りすぎたがゆえに職場の広告代理店で孤立し、自らストレスをため込んでしまったいまでさえも――意地を張り続けて凌いできた。
「負けるもんか。そうさ。これまでたった独りでも生きてきたじゃないか。栗山先生の幻影にすがらなくったって、やっていける」
碓井は自身を鼓舞し、身体を丸めながら進んだ。フラッシュライトを逆手に持ち、前方を照らす。
が、ラッセルは思いのほか体力を消耗した。じっさい、なにほども雪をかき分けることなく、前のめりで倒れた。
雪のなかに半分埋没するほどだった。極上の羽毛布団のような、すばらしい寝心地にも思えた。
起きあがる気力すら湧かない。
瞼が強烈な重さとなってさがる。抗えない。魅惑のランジェリーを身につけた死の神が、碓井を虜にしようと手招きする。このまま眠りにつけたら、さぞかし楽に死ねるだろう。
全身の痛みと疲労も、感覚が麻痺していた。
もういい。もはやこれまでだ。
道半ばでぶざまな最期だが、おれらしいじゃないか、え?
折れるべきところで折れていれば、こんなふうにならずに済んだというのに。
来年の春になったとき、暢気な山菜採りの誰かが、フキノトウといっしょに、おれの惨めな骸を発見するのだろうか?
それもいい。ひっそりとテレビのニュースで報道されたとき――どうせ免許証ぐらいはポケットにあることだし、すぐに身元はわかる――、おれを見知った者どもよ、バカな男だと嘲笑うがいい。
追い込まれたとき、感傷にかられたのだ。子供のときの悔恨。いつまでも癒えぬ痛み。こんどこそ、奴の魂を救ってやりたいと思っただけだ。せめて死ぬ前に、奴に謝っておきたかっただけ――。
碓井の意識がフェードアウトしていく。顔半分が雪に没し、もはや冷たさすら感じない。
と、そのときだった。
聴覚を素通りして、脳に突き刺さる声が響いた。
『だらしないな、大輔。こんなところで寝てたら、風邪ひくどころじゃ済まないぞ』
ありえない――碓井は思った。
碓井の右前方だ。わずか二メートルと離れちゃいない。
雪の上に、海水パンツ一丁の少年が、あぐらをかいて座っていた。ほっそりとした身体だが、将来アスリートとして開花しそうな敏捷性を感じさせた。
――その将来の芽を摘んでしまったのは、みんなおれのせいだ。
『せっかくおまえの代わりに死んだっていうのに、長生きしてもらわなきゃ困るんだが。大輔、しっかりしろ』
花志 涼介だった。あの通過儀礼の夏、川で溺れ死んだ十一歳の少年――。