6.せめて花志の墓前に
一人息子である涼介を亡くした両親の悲しみは聞くにたえなかった。
父親は気丈にふるまった。
が、母の絶望は計り知れなかった。
夏から秋にかけて精神を病み、荒れに荒れた。その後、施設に入院させられた。
すぐに食事を摂ることを拒絶し、衰弱。――やがて餓死したのだ。
息子だけではなく、妻も失い、打ちのめされた父もまた急降下した。その直後、行方をくらませた。
書置きには、捜さないでくれ、とだけ残されていた。
山中へ入ったという目撃証言から山狩りがはじまった。一週間後、ブナの巨木で縊死しているのが発見されたのだった。
栗山 柚葉としては、いくら碓井が上級生に焚きつけられたとはいえ、間接的に花志を死なせたことに責任を感じていた。
もしかしたらあのとき、碓井ではなく、花志の応急救護を先にすべきではなかったのか。
碓井は持ち前のバイタリティがあった。それに賭け、花志の命を優先していれば二人の教え子を助けられたのではないかと悔いた。
誰にとっても、空虚な時間がすぎ去っていった。
栗山に輝きはなくなった。生徒たちも声をかけにくくなってしまった。そっとしておこうと、他の教師たちも囁き合った。
栗山によって助けられた碓井だけが、曇りガラスを透かすように、そんな沈んだ女教師を見守っていた。
碓井は、せっかく助けにきてくれた花志を死なせた罪の意識に悩まされた。それ以上に命を救ってくれた栗山の恩に支えられていた。
だから、どんなことがあっても栗山の苦しみを取り払ってやりたいと思っていた。
栗山 柚葉はその後も村の小学校教員として勤めた。
碓井が中学を卒業すると同時に、他校に転勤となった。内地へ戻ったという。
釧路の高校にあがるまで年賀状のやり取りぐらいは続いたが、やがてそれも途絶えた。
風のうわさで白血病にかかり、この世を去ったと耳にしたこともあったが、どこまで信憑性があるのか怪しかった。
八年前、碓井が二十四のときだ。北奈裳尻がダム建設とともに、墓地もろとも湖の底に沈んだ。
おおかたの一族は、前もって先祖の骨を掘り起こし、移住先へ移したが、花志家だけは忘れ去られた。いかんせん家系が絶えてから十三年の月日が流れていた。人間関係ですら希薄になっていた。
碓井にとってそれが気がかりだった。
命の恩人でありながら、自らのせいで死なせてしまった良心の呵責に苦しめられた。
せめて碓井が北奈裳尻を立ち去るまえに彼の骨を拾い、どこかに墓を移してやるべきだったのだと、いまさらながら悔いた。
もう遅い。水底にあってはどうにもならなかった。
今回、碓井が人生に疲れ、思いついたように故郷をめざしたのは、花志の魂を弔うために足が向いたからではなかったか。
ダム湖に沈んだいまとなっては墓前に花は添えられないが、せめて湖岸から手だけでも合わせたい――そんな思いにかられ、消滅集落を遡ろうとしていたのだ。
音もなく牡丹雪が降りしきる山道。LEDミリタリーライトの光芒だけが命綱だ。
レインポンチョを羽織った碓井は、息を弾ませながら歩き続けた。肩やフードにも白いものが積もっていた。
右後方には栗山 柚葉とおぼしい人物が、さも碓井を励まそうとついてくる。
栗山はこの世の者なのか、幻覚の産物なのか判別しかねた。
少なくとも、おたがいの足跡が縷々と続いていた。これがなによりの証拠ではあるまいか。
「花志 涼介――。そうだ。あのとき、せっかく助けにきてくれた奴を代わりに死なせ、おれが生き延びた。生き延びてしまった。もとはと言えば六年生の連中が悪かったんだが、おれも意地を張ってた。橋から飛び降りなかったら、あんなことにならずに済んだはずだ。素直にあいつらに屈服してたら、あんな事故にならなかった。おれがいまでも抱え続ける悔恨――」
碓井は我が身を抱いた恰好で歩いた。フラッシュライトを逆手に持ち、前方を照らす。
何度も雪で足を取られたが、ぶざまに倒れたりはしない。ジャングルブーツの履き口ギリギリまで没してしまうほど積もっていた。
『起こってしまったことはどうにもなりません。いまさら悔やんでも彼は戻ってこない。あなた自身が助かったことを前向きに捉えるべきです』
右後方に付き従うポンチョ姿の栗山が言葉を発した。碓井の心中を察して慰める調子ではなく、ありのままの事象を述べたにすぎない平坦な口調だった。
「そうだな。あんた――いや、栗山先生がおれの命を救ってくれた。あの夏、現場にはあんなに大人たちがいたのに、使えないったらない。あんたには感謝しっぱなしだ」と言い、うしろをふり返った。白い息を吐きながら、「先生は命の恩人だ。あんたのおかげで生かせてもらってる」
『ならその意気。この雪道も負けずに進んでいきなさい。あなたならできます。独りになったとしてもやり遂げるのです』
碓井はふたたび前を向いて前進し続けた。ポンチョのなかに左手を入れ、右肩の止血帯をきつく締め直しながら、
「独りになったとしても? そんなこと言ってくれるな。ちゃんと先生がいてくれるじゃないか。ずっと見守ってくれてるんだろ? なんだか途中で去っちまうみたいな言い方するんじゃない」
真上から舞い降りいた牡丹雪が、いつしか斜めに降り注ぐようになった。それも密度が濃くなった。
はるか上空で、吹きすさんでいた風の音が一段と耳を劈くようになった。さながらこの世ならざる獣の吠え声のようだ。さもなくば北欧神話に登場する、戦と死の神・オーディンの鬨の声か。
北海道における冬型の気圧配置がもたらす大雪の事例は大きく三つある。
その日にかぎって、太平洋側東部で湿った東の風が日高山脈で強制上昇し、地表付近に残っていた寒気に冷やされることによって、十勝地方などで大雪になる典型的なパターンに当てはまった。
案の定、いよいよ吹雪いてきた。
LEDミリタリーライトのなかで、白一色に埋め尽くされ、視界はゼロとなった。
さしもの塩化カルシウムの袋でこしらえた即席断熱材も用をなさない。ともすれば気温は、マイナス二〇度前後に達しているかもしれない。
低体温症は自身の力では改善しようがなかった。シバリングがひどく、上下の歯が陽気なカスタネットみたいに連打する。
アイヌの言葉で心臓をサンベと言った。そのサンベが凍りつきそうだ。
遠からず命を落とすのは眼に見えていた。
しかしながら、ここまで危険を顧みず突き進んでしまったのだ。いまさらあとには退けない。スマートフォンを失ったのも痛手だった。すべては碓井の判断ミスだった。
そもそも、出かける前から発達した低気圧が北海道にかかるのを天気予報で知っていたはずだ。
死に急いでいたとしか思えない。崖下に転落した事故さえも、起こるべくして起きたのだ。
碓井は顔じゅう雪にまみれながらうしろをふり返った。
ライトの光を向ける。
栗山 柚葉の姿を捜した。
――どこにもいない。
「……栗山先生? 嘘だろ?」と、碓井は茫然自失たる体で立ち尽くした。フラッシュライトの光で吹雪と闇のなかをまさぐるが、どこにも見当たらない。頼もしきカーキ色のレインポンチョ姿は忽然と姿を消していた。「嘘だと言ってくれ。なんでいなくなった? ずっとおれの味方、してくれるんじゃないのかよ!」
吹雪はいま来た道の足跡さえ、埋め尽くそうとしていた。
が、辛うじて直前まで印していたものは残っている。
――足跡は碓井のものだけしかない。栗山とおぼしき人物のそれは見当たらなかった。