5.通過儀礼の夏
アイヌの面影が残っていた北奈裳尻。
碓井 大輔がまだ小学五年生のころだ。――生徒数が少ないながら、村にも学校があった当時のことである。
春。道東にしては早い桜の開花がやってきた年だった。
内地から新任教員がやってきて、碓井の担任の教師に選ばれた。
たった十三人の学年。その愛くるしい美貌と洗練された佇まいに、小さな教室は歓声で沸いた。
それが栗山 柚葉だった。
教員採用試験に合格して間もなかったらしく、期待に胸をふくらませていたはずだ。輝いて見えた。
まだ二十二になったかどうかの年齢だったろう。気負いも恐れすら感じさせなかった。たいした度胸だった。
内地の都会育ちで、いきなりの赴任先が釧路の山奥なので戸惑いはないと言えばうそになるはずだ。
なのに、子供の扱いがうまく、すぐに生徒たちと溶け込んだ。
優しい反面、授業はアメばかりを与えてはくれなかった。授業で怠ける碓井はよく叱られたものだ。
叱られたのに惹かれていった。そのあとのケアが温かかったせいもある。
まばゆい顔で授業を進める栗山を、頬杖をついたままずっと眺めていた。
下唇の脇にホクロがついた美人教師の笑顔を。
きらめく夏の到来。
その季節――悲劇は起きてしまった。
村の南に流れる川では、上級生から代々受け継がれてきた度胸試しの遊びがあった。
橋から真下の川へダイブするのが恒例行事となっていた。高さは一〇メートル強。眼下の川は、うかがい知れぬほど深い。
橋の欄干に立ち、勇気を出して川面めがけて飛び込めてこそ、少年から大人になれる通過儀礼だった。
水の色は濃いエメラルドグリーンで、ひときわ暑い日差しを細かい光に分散して照り返していた。
碓井は六年生に急かされて欄干の上に立たされた。
心臓がパンクしそうなほど早鐘を打っていることを悟られたくはなかった。
早く跳べよと、意地悪な六年生の三人組がそそのかした。
どの顔もにやけていた。反抗的な碓井に業を煮やし、ついに荒療治へと出たのだ。
碓井は川を見おろした。
鳥が止まり木につかまるかのごとく、足の指を折り曲げて、やっとのことで欄干にしがみついていた。
真下には清流が流れていた。肌を刺す八月の太陽にくらべ、水温はさぞかし冷たいだろう。眼もくらむほどの恐るべき高さ。下腹部が液体窒素を浴びせかけられたかのようになった。
「大輔、さっさと跳べよ。やらなかったら女の子認定な!」
破れかぶれだった。どうにでもなれと覚悟を決めた。
碓井は眼を見開き――跳んだ。
両腕を広げ、膝を曲げた跳躍姿勢。それこそイヌワシが獲物に躍りかかる瞬間のようだ。
脚からだった。頭上でどよめきが起きる。
迫るエメラルドグリーンの水面。とっさに息をとめたつもりだった。
足の裏に衝撃。完全に着水すると、海水パンツがひどく食い込むのを感じた。
次の瞬間、眼のまえが白く砕けた。
水を飲み込んだ。鼓膜に、くぐもった自身のうめき声が反響した。
そして窒息する苦しみ。たちまちパニックになった。溺れる、と思った。
真上に光のきらめきが見えた。必死に水をかき、足をばたつかせて浮上した。
気管に水を入れてしまった。とたんにこむら返りが起きる。碓井はますます取り乱した。希望への出口は、あまりにも遠すぎた。
うぐぐぐと、喉の奥から苦鳴が洩れた。
光に向けて手を伸ばした。
届かない。
急速に視野が外側から暗くなる。
そのときだった。
光のきらめきが砕けた。烈しい泡が立つ。誰かが頭から飛び込んできたのだ。
無数の泡をまとわりつかせ、その少年は碓井めがけ、水をかき分けてやってきた。
両眼を開き、頬を膨らませ、髪型がぺったり後ろに撫でつけたようになっているが見まちがいようがない。
すぐに同級生の花志 涼介だとわかった。こんな局面に手を差しのべてくれるのは奴しかないと思った。
力強く、しなやかな腕が碓井をとらえた。
花志に抱えられ、水面に浮上した。
光を割った。
餓えたように空気を貪り吸った。残酷なほど空が青い。
碓井はいまだ心を乱していた。気管に水が入ったため、満足に呼吸できないのだ。
無我夢中で花志にしがみついた。
「落ち着け、大輔! うまく泳げない!」
花志が叫んでいるが、碓井の耳には届かなかった。とにかくこの状況からなんとかして欲しかった。我を忘れていた。
せっかく水底から碓井を救ってくれたのに、なまじ花志の身体をがんじがらめにしてしまい、その花志をさえも命の危機にさらしていた。
二人もろとも深みにはまり、溺れた。
こんどこそブレーカーが落ちたみたいに、意識が遮断された。
碓井と花志は大人たちによって担ぎあげられ、岸に横たえられた。
二人とも顔は漂白したみたいに白く、微動だにしない。腹部が異様に膨らんでいた。
ラッシュアワーなみの喧騒。
人だかりのあいだを縫って栗山 柚葉が走り寄った。ひざまずく。
「大輔、涼介君! しっかりして!」
大人の誰かが救急車を手配したのだろうが、いまだサイレンの音は聞こえてこない。一般的に海や川で溺れたとき、通報してから消防署から救助隊が駆けつけるまで、約八分かかると言われている。
が、北奈裳尻の村に到着するにはかなりの時間を要するようだ。とくにその日は長く感じられた。道東特有の長閑な山間部に、けたたましいサイレンは鳴り響かない。誰もが手を拱いていた。
栗山はすかさず碓井の身体に取りついた。
唇と唇を重ね、人工呼吸をした。そのあと少年の身体にまたがり、全身を使ってでの心臓マッサージも堂に入ったものだった。
懸命の救護もあって、碓井はなんとか水を吐き出し、息を吹き返した。
人だかりから、歓声と拍手が沸いた。
栗山はそれに喜ぶ間もなく、花志にも同じように気道確保し、マウス・ツー・マウスをした。
顔色に生気は戻らない。ピクリとも反応しなかった。
懸命に心臓マッサージをくり返した。
ようやく救急車が到着したときにも、あきらめず花志の胸を押していた。
結局、花志 涼介の意識は還らなかった。