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4.T・S・エリオットの『荒地』

「そうか。見ず知らずの男から受け取っちゃならないと、親から教わったんだな。せっかくの糖分補給のチャンスだってのに」


 仕方ないので、碓井はチョコを口に放り込んだ。

 ふたたび歩き出した。

 雪はいつしか牡丹雪となり、しんしんと降っていた。確実に積もっていく。

 はるか上空で風がいなないた。

 いずれ吹雪になるかもしれない。


 碓井はフードをずりさげ、下を向いたまま歩調を早めた。

 右後方の『彼女』もそれにならった。ずいぶんと無口な随伴者だった。

 すでに恐怖心はない。『彼女』はやはり、碓井を取って食おうとしているわけではないらしい。

 ひと言ぐらい言葉を発してもよさそうだが、そこにいてくれるだけでなんだか気分が落ち着いた。ちょっとした精神安定剤の役を担ってくれていた。


 ふいに、碓井は昔読んだ本のことが頭をかすめた。

 苦痛と寒さに歯を食いしばって耐えながら歩き続けた。全身の悪寒戦慄(シバリング)がひどい。まるで身体そのものが削岩機になったみたいだ。


「そうか、思い出したぞ」と、独り言をつぶやき、唇の端を吊りあげた。「T・S・エリオットの『荒地』に、こんなシーンとそっくりな詩があったな。もっとも、男か女すらわからない人物とあったが、いまは女だとわかる」


 あいにく『彼女』はなんの反応も示さない。

 おたがい新雪を踏みしめる、サクッサクッという音が闇のなかにこだました。

 碓井はフードの位置を正しながら続けた。


「『荒地』のそのエピソードはそら(、、)で言えるさ。――『いつも君と並んで歩いている三人目は誰だ? 数えれば、君と私しかいないが、この白い道の先を見あげると、いつももう一人が君と並んで歩いている。フードの付いたマントに包まれ、滑るように歩く。男か女かもわからない。君の横にいるのはいったい誰なんだ?』。――そうだ、まさしくエリオットの詩のまんまじゃないか」


 シバリングが抑えられない。視界が渦を巻きはじめた。白い道が歪み、にじみ、そしてサイケデリックな色に見えてくる。

 四肢がこわばり、感情の変化に乏しくなるのがわかる。歩くのが億劫になり、前のめりに倒れたい誘惑にかられた。白いしとねに突っ伏して眠れたら、どれほど楽か。

 碓井の眼がうつろになった。呼吸が浅くなっている。強烈な睡魔が襲いかかってきた。


 と、そのときだった。

 いきなりの叱咤しっただった。女の声が聴覚を素通りして、直接脳に響いた。


『こらッ、負けるんじゃない、大輔だいすけ! しっかり前を見て歩きなさい!』


 危うく昏睡の沼地に沈みそうになるのを、寸前で踏みとどまった。

 顔をあげた。錆びついたギアを力任せに動かすように、首をねじった。

 背後の『彼女』がこちらを見つめていた。フードの影に隠れ、口もとしか見えない。形よい唇が上下するのを捉えた。


『これしきのことでへこたれては(、、、、、、)ダメです。あなたはこれまで頑張ってきたじゃありませんか。どんなに遠くても辛抱して歩きなさい』


 女の声が碓井の脳に突き刺さる。

 毅然として、それでいて母性にあふれた優しさを感じさせる声。

 どこかで聞いたことがあった。そうだ、昔、北奈裳尻ほくなもしりコタンで――。


「そうだな。どんなに遠くてもやり遂げてみせる。石にかじりついてでも前進する」と、碓井はふたたび前を向き、氷柱のように硬くなった脚をくり出した。肩の疼痛も脈拍に合わせ、ひどく痛むが、奥歯を噛みしめて新雪を蹴散らして歩いた。「わかってる。余力はあるんだ。倒れ込んで楽になりたいと思ったのは、ほんの甘えさ」


 『彼女』の気配も連動してついてくる。サクサクと新雪に足を埋没させていく音が重なった。

 そのまま歩きながらの、奇妙な会話のキャッチボールがはじまった。


『いつでも応援しています。挫けそうになったら私が支えてあげますから。いまは耐えるときです。頑張りなさい』


「ようやく思い出した。あんた、ひょっとして――」


『黙りなさい。しっかり前を向いて歩くのです』


「忘れてた。おれは子供のころ、あんたのことに一途だったからな。憧れだった。まさかあんたが、ずっと寄り添っていてくれてたなんて」


『私はずっと大輔のなかで生きています。だから絶体絶命になったとき、こうして現れたのです』


「ありがたいね。実の両親に出てこられる(、、、、、、)より、はるかに嬉しい」


『ほら、ペースが落ちてます。ここでの休憩は許されません。いったん座り込んでしまったら、二度と立ちあがれなくなるから。気力をふり絞りなさい』


「わかったよ、栗山くりやま先生」と、ポンチョの襟もとをかき寄せながら言った。「たしか下の名前は柚葉ゆずはって言ったっけな。柚葉――いい名だ。あのころの可愛い先生らしい名前だ」


『大輔はもう私の年を超えて、すっかり成長したんだから柚葉、でいいですよ。先生は抜き』


「そんなことない。先生はおれのなかで、ずっと先生だ。――けど、柚葉もいいな。おれの初恋だった」


『ありがとう。ほら、気を引き締めて。あなたらしく、まっすぐ歩きなさい』


「やってる。これまでも、そしてこれからも」




 T・S・エリオットはイギリスの詩人であり、劇作家、文芸批評家の顔を持つことで広く知られている。一九四八年においてはノーベル文学賞を受賞した。

 その代表作である長編詩『荒地』の作中において、碓井が言及したように、ふしぎな一節がある。


『いつも君と並んで歩いている三人目は誰だ? 数えれば、君と私しかいないが、この白い道の先を見あげると、いつももう一人が君と並んで歩いている。フードの付いたマントに包まれ、滑るように歩く。男か女かもわからない。君の横にいるのはいったい誰なんだ?』

 

 じつはこの数行の詩についてはエリオット自身、注釈を入れて説明している。

 というのも、『荒地』が発表された一九二二年からさかのぼること六年前の一九一六年のことである。――探検家アーネスト・シャクルトンの一行が南極周辺の海域で遭難したことがあるのだ。

 残された小舟で、サウスジョージア島へと脱出する壮絶なサバイバルのさなかだった。


 シャクルトンや探検隊が極度の疲労に達したとき、じっさいの人員数より一人だけ多くいるような錯覚をおぼえたと口をそろえて証言したという。

 またシャクルトンは、自身の著書『エンデュアランス号漂流記』のなかで、こうふり返っている。

 無形(、、)()存在(、、)が彼の旅に加わり、旅の最後の行程ではもう二人が紛れ込んでいたとし、


「サウスジョージア島の無名の山々と氷河を三十六時間にわたり、長く険しい行進を続けた。その間、私たちはしばしば三人のメンバーではなく、四人であるように思えていた」と、記している。

 シャクルトンと他のメンバーは同様の体験を共有し、ついに恐るべき苦境から生還を果たしたのだ。

 このふしぎな体験譚にこそ、エリオットは創作者として琴線に触れるものを感じたという。

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