表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/15

15.過酷な旅路の末に

 どちらかが合図したわけではない。

 ウェンカムイと碓井は同時に踏み出した。

 おたがい刺しちがえる覚悟だった。


 獰猛な右フックが碓井の頭めがけ襲いかかった。

 避けきれず、碓井の左肩に直撃した。

 肩から下がもげた(、、、)。腕がきりもみしながら、あさっての方向に飛んでいった。


 スプリンクラーで散布したみたいに、むき出しの動脈から勢いよく鮮血が散った。

 【邪神】の眼めがけ、その血をコントロールして浴びせた。

 眼潰しを食らわせ、相手はたじろいだ。


 碓井は背後にまわり込み、片腕だけで巨大な獣の身体をよじ登った。剛毛に噛みつきながら這いあがった。

 一気に首根っこまで達すると、首のうしろのくぼみ――盆の窪(、、、)にナイフを埋没させた。

 ウェンカムイの血がほとばしった。


『うっとうしい奴め! 生意気な真似をしおって!』たちどころに碓井は熊の手に捕まり、巨大な口もとへ持っていかれた。『ひと思いに殺してやる! たっぷり死の恐怖で思い知らせようとしたが、もういい。頭から噛みちぎってくれる!――死ねい!』


「だったら、おれを食ってみろ! さぞかしうまいだろうよ!」


 大口が迫った。

 ピンク色の口腔内には粘膜の壁と、柔らかそうな舌が鎮座し、淫靡なホテルの小部屋を思わせた。

 熊の手によってねじ込まれるよりも早く、碓井は自ら口のなかに飛び込んだ。

 すぐに上あごが閉じ、暗闇に閉ざされたが、どうにか牙で押しつぶされるのを防いだ。


 巨大な舌の上は、さながらウォーターベッドのような寝心地だ。【邪神】はうろたえたらしく、船のなかみたいに揺れ動いた。

 忌まわしい唾液にまみれながら、碓井は上あごの天井めがけ、モーラナイフを突き立てた。

 何度も何度も刺し、しまいには柄尻に全体重をかけ、ぐりぐりとねくりまわして傷口を広げた。


 邪悪な部屋の下水溝から、ウェンカムイの悲鳴がつんざいた。

 その拍子に牙の並んだシャッターが開いて、外が見渡せた。

 碓井は舌の根もとにも突き刺した。そしてマグロの解体ショーよろしく切り裂いていく。

 肉厚の舌を半分まで断ち切り、おびただしい返り血を浴び、血みどろになった。


 かまわずナイフをぐいぐいさせ、肉厚のベッドを断ち切った。

 部屋じゅう血のシャワーが降り注ぎ、えらいことになった。

 巨大な舌は、反射反応のせいか、ビクンビクン!と波打っている。碓井は、奇怪な魔法の絨毯に乗っているような気分になった。


 船内が烈しく揺れたとたん、碓井は頭から食道の大穴にはまってしまった。

 肉の通路が蠕動ぜんどう運動で、ぐにぐにと蠢く。

 碓井は叫びながら穴に落ちていく。

 穴は狭い。壁が妖しく波打ち、落とし穴にはまった者を沈めようとしていく。

 碓井は観念した。このままではウェンカムイに致命傷を与えることはできない。


 ――だったら、こいつの体内に潜り込むしかない!


 頭から胃に向かって落ちていこうとした。が、食道の壁が狭すぎて、とても進めない。

 まさに下水溝だ。恐るべき悪臭が下から漂ってきた。肉のとろけた腐敗臭に他ならない。

 歯を食いしばって、身体を動かし、重力にしたがってずり落ちていった。


 しばらく無理やり突き進むと、広い空間に頭から落下した。

 真下は液体。ただし、ぬめりを帯びた粘液の沼地だ。

 あの夏、橋の欄干から飛び降りたことを思い出した。 

 生温かい液体から顔を出した。鼻が曲がりそうなほどの異臭がした。


 なかは暗い。手探りで壁を伝った。生理的嫌悪感をもよおす弾力。

 狙いどおり、【邪神】の胃袋に落ちたにちがいあるまい。腹にまで達するほどのヘドロ臭い液体に浸かっていた。

 碓井はしっかりナイフを握っていた。

 壁に刺した。真下に切りおろす。

 粘膜層のすき間から、液体が流れ出すのがわかった。じゃじゃ洩れだった。




 いまだ吹雪はやむことなく、風の咆哮ほうこう木霊こだまとなって響いていた。

 ゆっくりと、ウェンカムイは仰向けに倒れた。

 雪煙が舞った。


 死の痙攣けいれんがはじまり、口から泡を吹いていたが、ひとしきりふるえたあと、やがてそれも止まった。

 ずんぐりした巨体は微動だにしない。

 そのうち腹のあたりで、不自然な凹凸ができ、しきりに動いた。


 ナイフの切っ先が飛び出た。

 ぐりぐりとノコギリの要領で上下し、分厚い脂肪の層が裂かれていった。たちまち腹圧で臓物が外側にあふれた。

 五本の指が出て、切り口をつかんだ。

 碓井の頭が出た。血みどろだ。湯気を放っている。


 懸垂する形で碓井の上半身が現れた。

 剛毛だらけの身体から引きあげると、雪の上に転がり落ちた。

 しばらく身体全体で息をしていたが、ようやく立ちあがった。

 左腕は肩から失っている。顔じゅう爪で引っかかれ、深い痕がついていた。

 歯を食いしばり、肩から滂沱ぼうだと血をしたたらせながら、道の先を見た。


 いまだ森の向こうは暗く、およそ希望の光がさすようには見えない。

 ウェンカムイの残骸には眼もくれず、ふたたび碓井は歩きはじめた。

 なぜそんなにしてまで北奈裳尻ほくなもしりをめざすのか?

 そのとき、またしても背後から栗山 柚葉の声が聞こえた。


『行きなさい、大輔。進むのです。あなたの破滅願望である【邪神】は自らの手でほふりました。あとは目的地に着くだけです。それであなたの旅は終わります』


「旅」と、つぶやき、碓井はふり向いた。すぐそばにレインポンチョ姿の栗山が佇んでいた。フードのなかは暗い。「過酷な旅路だった。けど、そろそろ終わりだよな?」


『ええ。終わります。たどり着いたら』


柚葉ゆずはといっしょにいたい」


 風雪が烈しくなった。ウェンカムイを葬ったというのに、ますます自然は牙を剥いた。

 朦朧たる意識のなかで、碓井は思い出していた。――マタギなどがクマをたおしたら、天候が荒れることを。

 神は聖なる山をクマの血でけがしたことを怒り、空を泣かせて山を清めようとしているのだと。


 右腕でカバーしながら、負けじと歩いた。北奈裳尻めざして。

 いったい、あとどれほど歩けばたどり着くのか。

 ラッセルしながら歩む。ポンチョは血と雪にまみれた。その血もたちまちのうちに凍った。

 栗山があとから続く。


『頑張れ頑張れ、大輔! しっかり前を向いて歩きなさい!』


 励ましのエールに背中押され、碓井は機械的に脚をくり出した。

 風は逆巻き、またぞろ身体の末端から体温を毟り取っていく。

 泳ぐようにラッセルした。

 前方に光が見えた。

 フードもかぶらず、顔じゅう雪まみれになりながら碓井は笑っていた。


 ――やっとわかった。おれが向っている、ほんとうの目的地が。


 北海道のほとんどの地名は難読で知られている。

 これはアイヌ語に由来する場合が多く、漢字とのつながりのない地名もめずらしくない。

 例えば、札幌市さっぽろしは、アイヌ語の『サッ・ポロ』である『乾いた広い場所』を意味する説と、『サッ・ポロ・ペッ』、つまり『湿原を流れる大切な川』の説がある。


 室蘭市むろらんしは『モ・ルエラン』がなまった語とされ、意味は『小さい下り路』。

 これが富良野市ふらのしの場合だと『フーラヌイ』で、十勝岳を水源とする富良野川が、硫黄の臭いがすることから呼ばれた。

 釧路市くしろしも語源については諸説がある。

 釧路川の川口に小さな沼があり、その水の出口を『クッチャロ』といったことから名付けられたという。


 ――だったら、おれがいま、めざしている北奈裳尻は?


 北奈裳尻――。

 北奈裳尻――。

 ほくなもしり。


 いまならわかる。

 ポクナモシリの転訛てんかだ。


 ポクナモシリ。

 アイヌ語で、あの世(、、、)――。


 碓井は燦然と輝く光に飛び込んだ。






        了



※参考文献


『奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」』ジョン・ガイガー 新潮社

『荒地』T・S・エリオット 岩波文庫

『たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い』佐野 三治 新潮文庫

『漂流』吉村 昭 新潮文庫

『八甲田山死の彷徨』新田 次郎 新潮文庫

『生きぬくことは冒険だよ』長谷川 恒男 集英社

『風雪のビバーク』松濤 明 山と溪谷社

岳人(クライマー)列伝』村上もとか 文春文庫ビジュアル版

        ★★★あとがき★★★


 はじめ、『怖さよりむしろ悲しさをこめ、そして最後には清々しい気分になるような一品になれば幸い』のつもりで書き進めていたが、完結してうまくいったかは、かなり怪しい。

 まあ、それはそれ。これはもうロックだ。

 とにかく1月15日の期限内に間に合ってよかった。ちなみに本日13日は、奇しくも僕の誕生日だったりする。年齢は言わない^^; いい記念作になった。


 以前から『サードマン現象』を題材にした作品を書いてみたかった。ようやく願いが叶い、嬉しく思っている。

 今年の正月から12日にかけて、参考文献にあるように、ジョン・ガイガー著の『奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」』を要約した文の練り直しに追われていた。


 言わずもがな、11~13部がそれだ。合計9,000文字は超えているだろう。本来は15,000文字にも達してしまい、いくらなんでもこれを垂れ流せば読者は嫌がる。これでも削ったつもりなのだ。

 ましてや、3部にわたり連続させるのはいささか冗長で、物語を停滞させかねない。

 僕の悪い癖で、どうにも短くまとめることができなかった。それに速読で読み直した部分もあり、かなり曲解したり、抽出し足りない部分もあるかもしれない。この際、エンターテイメントとして割り切っていただければ幸い。


 いまだ穴も多いガイカー氏のサードマン理論。

 たしかに賛否両論もある。ややオカルティズムに傾倒していることだし、医学的見地から見て、まだ不完全な研究だ。

 今後とも、サードマン現象に対する研究結果を待ちたいと思っている。




 にもかかわらずである。

 2011年、3・11の東日本大震災の直後だった。こんな不思議なニュースを見た憶えがある。


 あるおばさんが地震のあとの津波にさらわれ、沖合まで流された。

 なんとか漂流物にしがみついているところを、通りかかった漁船に助けられた。

 船を操るのは年配の男性。漁師の恰好をしていた。

 おばさんは九死に一生を得たわけだから、男に礼を言うのだが、相手はまったく口を利かない。ろくにふり向きもしなかったらしい。


 なんとか岸まで送ってもらい、船をおりた。

 せっかくだから後日お礼をしたく、せめて名前と連絡先だけでも聞こうとする。だけど男はなにも語ることなく去っていったそうな。

 おばさんいわく、今にして思えば不思議な人だったとふり返っていた。




 別にこれを、おばさんを窮地から救ってくれたサードマンと解釈したわけではない。

 漁師の男はちゃんと実在の人物であり、人助けしたことは当たり前のことをしたまでで、単に無口でシャイなだけだったのかもしれない。いや、十中八九そうであろう。


 だけど、妙に僕の心に引っかかったニュースだった。

 その後、この情報はうやむやになったので確認しようがない。あいにくネットでググってもヒットしない。誰か観た人がいたら教えて欲しい。


 なんだか狐につままれたような気分だ^^;

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ