15.過酷な旅路の末に
どちらかが合図したわけではない。
ウェンカムイと碓井は同時に踏み出した。
おたがい刺しちがえる覚悟だった。
獰猛な右フックが碓井の頭めがけ襲いかかった。
避けきれず、碓井の左肩に直撃した。
肩から下がもげた。腕がきりもみしながら、あさっての方向に飛んでいった。
スプリンクラーで散布したみたいに、むき出しの動脈から勢いよく鮮血が散った。
【邪神】の眼めがけ、その血をコントロールして浴びせた。
眼潰しを食らわせ、相手はたじろいだ。
碓井は背後にまわり込み、片腕だけで巨大な獣の身体をよじ登った。剛毛に噛みつきながら這いあがった。
一気に首根っこまで達すると、首のうしろの窪み――盆の窪にナイフを埋没させた。
ウェンカムイの血が迸った。
『うっとうしい奴め! 生意気な真似をしおって!』たちどころに碓井は熊の手に捕まり、巨大な口もとへ持っていかれた。『ひと思いに殺してやる! たっぷり死の恐怖で思い知らせようとしたが、もういい。頭から噛みちぎってくれる!――死ねい!』
「だったら、おれを食ってみろ! さぞかしうまいだろうよ!」
大口が迫った。
ピンク色の口腔内には粘膜の壁と、柔らかそうな舌が鎮座し、淫靡なホテルの小部屋を思わせた。
熊の手によってねじ込まれるよりも早く、碓井は自ら口のなかに飛び込んだ。
すぐに上あごが閉じ、暗闇に閉ざされたが、どうにか牙で押しつぶされるのを防いだ。
巨大な舌の上は、さながらウォーターベッドのような寝心地だ。【邪神】はうろたえたらしく、船のなかみたいに揺れ動いた。
忌まわしい唾液にまみれながら、碓井は上あごの天井めがけ、モーラナイフを突き立てた。
何度も何度も刺し、しまいには柄尻に全体重をかけ、ぐりぐりと捏ねくりまわして傷口を広げた。
邪悪な部屋の下水溝から、ウェンカムイの悲鳴が劈いた。
その拍子に牙の並んだシャッターが開いて、外が見渡せた。
碓井は舌の根もとにも突き刺した。そしてマグロの解体ショーよろしく切り裂いていく。
肉厚の舌を半分まで断ち切り、おびただしい返り血を浴び、血みどろになった。
かまわずナイフをぐいぐいさせ、肉厚のベッドを断ち切った。
部屋じゅう血のシャワーが降り注ぎ、えらいことになった。
巨大な舌は、反射反応のせいか、ビクンビクン!と波打っている。碓井は、奇怪な魔法の絨毯に乗っているような気分になった。
船内が烈しく揺れたとたん、碓井は頭から食道の大穴にはまってしまった。
肉の通路が蠕動運動で、ぐにぐにと蠢く。
碓井は叫びながら穴に落ちていく。
穴は狭い。壁が妖しく波打ち、落とし穴にはまった者を沈めようとしていく。
碓井は観念した。このままではウェンカムイに致命傷を与えることはできない。
――だったら、こいつの体内に潜り込むしかない!
頭から胃に向かって落ちていこうとした。が、食道の壁が狭すぎて、とても進めない。
まさに下水溝だ。恐るべき悪臭が下から漂ってきた。肉の蕩けた腐敗臭に他ならない。
歯を食いしばって、身体を動かし、重力にしたがってずり落ちていった。
しばらく無理やり突き進むと、広い空間に頭から落下した。
真下は液体。ただし、ぬめりを帯びた粘液の沼地だ。
あの夏、橋の欄干から飛び降りたことを思い出した。
生温かい液体から顔を出した。鼻が曲がりそうなほどの異臭がした。
なかは暗い。手探りで壁を伝った。生理的嫌悪感をもよおす弾力。
狙いどおり、【邪神】の胃袋に落ちたにちがいあるまい。腹にまで達するほどのヘドロ臭い液体に浸かっていた。
碓井はしっかりナイフを握っていた。
壁に刺した。真下に切りおろす。
粘膜層のすき間から、液体が流れ出すのがわかった。じゃじゃ洩れだった。
いまだ吹雪はやむことなく、風の咆哮が木霊となって響いていた。
ゆっくりと、ウェンカムイは仰向けに倒れた。
雪煙が舞った。
死の痙攣がはじまり、口から泡を吹いていたが、ひとしきりふるえたあと、やがてそれも止まった。
ずんぐりした巨体は微動だにしない。
そのうち腹のあたりで、不自然な凹凸ができ、しきりに動いた。
ナイフの切っ先が飛び出た。
ぐりぐりとノコギリの要領で上下し、分厚い脂肪の層が裂かれていった。たちまち腹圧で臓物が外側にあふれた。
五本の指が出て、切り口をつかんだ。
碓井の頭が出た。血みどろだ。湯気を放っている。
懸垂する形で碓井の上半身が現れた。
剛毛だらけの身体から引きあげると、雪の上に転がり落ちた。
しばらく身体全体で息をしていたが、ようやく立ちあがった。
左腕は肩から失っている。顔じゅう爪で引っかかれ、深い痕がついていた。
歯を食いしばり、肩から滂沱と血をしたたらせながら、道の先を見た。
いまだ森の向こうは暗く、およそ希望の光がさすようには見えない。
ウェンカムイの残骸には眼もくれず、ふたたび碓井は歩きはじめた。
なぜそんなにしてまで北奈裳尻をめざすのか?
そのとき、またしても背後から栗山 柚葉の声が聞こえた。
『行きなさい、大輔。進むのです。あなたの破滅願望である【邪神】は自らの手で屠りました。あとは目的地に着くだけです。それであなたの旅は終わります』
「旅」と、つぶやき、碓井はふり向いた。すぐそばにレインポンチョ姿の栗山が佇んでいた。フードのなかは暗い。「過酷な旅路だった。けど、そろそろ終わりだよな?」
『ええ。終わります。たどり着いたら』
「柚葉といっしょにいたい」
風雪が烈しくなった。ウェンカムイを葬ったというのに、ますます自然は牙を剥いた。
朦朧たる意識のなかで、碓井は思い出していた。――マタギなどがクマを斃したら、天候が荒れることを。
神は聖なる山をクマの血で穢したことを怒り、空を泣かせて山を清めようとしているのだと。
右腕でカバーしながら、負けじと歩いた。北奈裳尻めざして。
いったい、あとどれほど歩けばたどり着くのか。
ラッセルしながら歩む。ポンチョは血と雪にまみれた。その血もたちまちのうちに凍った。
栗山があとから続く。
『頑張れ頑張れ、大輔! しっかり前を向いて歩きなさい!』
励ましのエールに背中押され、碓井は機械的に脚をくり出した。
風は逆巻き、またぞろ身体の末端から体温を毟り取っていく。
泳ぐようにラッセルした。
前方に光が見えた。
フードもかぶらず、顔じゅう雪まみれになりながら碓井は笑っていた。
――やっとわかった。おれが向っている、ほんとうの目的地が。
北海道のほとんどの地名は難読で知られている。
これはアイヌ語に由来する場合が多く、漢字とのつながりのない地名もめずらしくない。
例えば、札幌市は、アイヌ語の『サッ・ポロ』である『乾いた広い場所』を意味する説と、『サッ・ポロ・ペッ』、つまり『湿原を流れる大切な川』の説がある。
室蘭市は『モ・ルエラン』が訛った語とされ、意味は『小さい下り路』。
これが富良野市の場合だと『フーラヌイ』で、十勝岳を水源とする富良野川が、硫黄の臭いがすることから呼ばれた。
釧路市も語源については諸説がある。
釧路川の川口に小さな沼があり、その水の出口を『クッチャロ』といったことから名付けられたという。
――だったら、おれがいま、めざしている北奈裳尻は?
北奈裳尻――。
北奈裳尻――。
ほくなもしり。
いまならわかる。
ポクナモシリの転訛だ。
ポクナモシリ。
アイヌ語で、あの世――。
碓井は燦然と輝く光に飛び込んだ。
了
※参考文献
『奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」』ジョン・ガイガー 新潮社
『荒地』T・S・エリオット 岩波文庫
『たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い』佐野 三治 新潮文庫
『漂流』吉村 昭 新潮文庫
『八甲田山死の彷徨』新田 次郎 新潮文庫
『生きぬくことは冒険だよ』長谷川 恒男 集英社
『風雪のビバーク』松濤 明 山と溪谷社
『岳人列伝』村上もとか 文春文庫ビジュアル版
★★★あとがき★★★
はじめ、『怖さよりむしろ悲しさをこめ、そして最後には清々しい気分になるような一品になれば幸い』のつもりで書き進めていたが、完結してうまくいったかは、かなり怪しい。
まあ、それはそれ。これはもうロックだ。
とにかく1月15日の期限内に間に合ってよかった。ちなみに本日13日は、奇しくも僕の誕生日だったりする。年齢は言わない^^; いい記念作になった。
以前から『サードマン現象』を題材にした作品を書いてみたかった。ようやく願いが叶い、嬉しく思っている。
今年の正月から12日にかけて、参考文献にあるように、ジョン・ガイガー著の『奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」』を要約した文の練り直しに追われていた。
言わずもがな、11~13部がそれだ。合計9,000文字は超えているだろう。本来は15,000文字にも達してしまい、いくらなんでもこれを垂れ流せば読者は嫌がる。これでも削ったつもりなのだ。
ましてや、3部にわたり連続させるのはいささか冗長で、物語を停滞させかねない。
僕の悪い癖で、どうにも短くまとめることができなかった。それに速読で読み直した部分もあり、かなり曲解したり、抽出し足りない部分もあるかもしれない。この際、エンターテイメントとして割り切っていただければ幸い。
いまだ穴も多いガイカー氏のサードマン理論。
たしかに賛否両論もある。ややオカルティズムに傾倒していることだし、医学的見地から見て、まだ不完全な研究だ。
今後とも、サードマン現象に対する研究結果を待ちたいと思っている。
にもかかわらずである。
2011年、3・11の東日本大震災の直後だった。こんな不思議なニュースを見た憶えがある。
あるおばさんが地震のあとの津波にさらわれ、沖合まで流された。
なんとか漂流物にしがみついているところを、通りかかった漁船に助けられた。
船を操るのは年配の男性。漁師の恰好をしていた。
おばさんは九死に一生を得たわけだから、男に礼を言うのだが、相手はまったく口を利かない。ろくにふり向きもしなかったらしい。
なんとか岸まで送ってもらい、船をおりた。
せっかくだから後日お礼をしたく、せめて名前と連絡先だけでも聞こうとする。だけど男はなにも語ることなく去っていったそうな。
おばさんいわく、今にして思えば不思議な人だったとふり返っていた。
別にこれを、おばさんを窮地から救ってくれたサードマンと解釈したわけではない。
漁師の男はちゃんと実在の人物であり、人助けしたことは当たり前のことをしたまでで、単に無口でシャイなだけだったのかもしれない。いや、十中八九そうであろう。
だけど、妙に僕の心に引っかかったニュースだった。
その後、この情報はうやむやになったので確認しようがない。あいにくネットでググってもヒットしない。誰か観た人がいたら教えて欲しい。
なんだか狐につままれたような気分だ^^;