14.対決
おれは――もしや――。
頭のなかをまさぐられ、引っかき毟られるかのような不快な痛みが貫いた。むしょうに眼球の裏が疼いた。
車ごと崖下に転落した事故からすべては狂い出したのか。それとも、頑なに北奈裳尻へ向かっている最中、どこかの時点で逸脱してしまったのか?
考えれば考えるほど錯乱した。
碓井は頭を抱えながら歩いていた。
と、次の瞬間であった。
これも右側からだった。
いきなり闇のなかからブッシュを突っ切って、途方もない巨体が転がり出た。
まるで除雪車そこのけの獰猛さで雪を蹴散らし、碓井に躍りかかってくる。
瞬時に反応した。
身体の節々が死後硬直したみたいに強ばっていたのに、とっさにアドレナリンが全身をかけめぐった。
前転してかわした。
起きあがりざまふり返って、襲撃者を見た。
なんと羆だった。
しかも規格外の大きさだ。茶色い剛毛に覆われ、テトラポットほどもある野獣が、碓井に向かって大口を開け、吠えてくる。
心理学の観点からすれば、熊のぬいぐるみ――テディベアの場合は、父性の象徴であるとされている。ぬいぐるみが好きな人は、癒しと包容力を求めているという。
だがその羆は、明らかにそんな概念とはかけ離れていた。
憤怒に彩られた眼は、いまや熱せられたコークスのごとき赤い輝きを放っている。
冷え冷えとした狂気をも宿し、驕り高ぶった現代社会に審判をくだすべく、さもその代表者が碓井だと言わんばかりに襲ってきた。こんな化け物に、癒しと包容力を求めるのはお門違いだった。
通常、羆は秋の時期にたっぷり栄養をたくわえてから、気に入った巣穴に潜り込み、冬眠する。
しかしながら、あまりに大きすぎる個体ともなると、食欲を完全に満たせていない状態だったり、サイズに合う越冬穴を見つけられなかったりして、冬眠しそこねる場合がある。
そうなるとイライラし、気性が荒く、執拗に食べ物を追うようになる。
時には里におりてきて、餌となるものを漁ったり、最悪人の味を憶えたら、ますます人間ばかりを襲うようになる。
こういった個体を穴持たずといい、飽くなき飢えを満たすため、暴虐の限りを尽くす。
だがいま、碓井の前にいる羆は、ただの穴持たずではない。
頭部は羆と人間を、粘土でこねくりまわして融合させたような、世にもおぞましい面構えをしていた。殺意をみなぎらせ、碓井を睨め付けてくる。
これぞ、ウェンカムイの完全変態であった。
『またおまえの心が死に傾いたと見えるな。おかげでこうして召喚されたぞ』ホルンの低音みたいな声で言った。やおら後ろ脚で棹立ちになると、白い息を吐いて唸った。聳えるような高さだ。まるで遮光器土偶と見まがう、ずんぐりした身体つきだった。『今度こそおまえの魂は、このおれがいただく。グズグズに噛み砕いてやるからな!』
碓井は【邪神】と向かい合った。
このままウェンカムイのえじきになるのか。それとも戦うか――二つに一つだった。
股を開き、背をかがめ、いつでも反応できるよう態勢をとった。
それを待っていたかのように、碓井の背後で、
『大輔、ナイフを手にしなさい! 戦うのです!』
と、どこからともなく栗山の声が耳朶を叩いた。
ポケットからモーラナイフを取った。
鞘から抜き放ち、斜に構える。
ジャンボサイズの消波ブロックほどもある羆と相対し、ましてや棹立ちした野獣を前に、あまりにもちっぽけな武器だった。
『よせよせ、大輔! おとなしくおれのえじきとなるがいい! カムイに食われ、栄養素となり、おれの身体の一部と組み込まれるのだ。それもまた、華奢な人間にとって、誉れ高い死に方ではないか。抵抗するなぞ、もってのほか!』
『大輔! ウェンカムイの言葉に惑わされてはいけません!』と、栗山の声が響いた。眼だけを動かし、あたりを捜したが姿は見えない。『やるのです。いまこそ戦いなさい! 戦って【邪神】の誘惑を払いのけるのです。さもないと、あなたはずっと闇を彷徨うことになる――』
栗山の必死の助言をさえぎるかのように、ウェンカムイが雪塊を蹴散らし、地団駄を踏んだ。
『ええい、うるさい! そのお節介焼きの女こそ、おまえを煩悩の沼地へ沈めようとしておるのだ。もう頑張らなくてよい。闇は居心地がいいぞ。おとなしくおれのなかに取り込まれるのだ!』
と言って、ウェンカムイは両腕を広げ、碓井を抱きしめようと前に進み出た。
一気に距離をつめる。異様なまでに突出した爪が、すぐ目前まで迫った。パワーショベルのバケットみたいな手だった。
碓井は反射的にナイフで防いだ。肉厚の手を切りつけた。刃は肉球にめり込んだ。
ウェンカムイはとっさに手を引っ込める。
『やってくれたな、よくも』
「おまえの言いなりになるものか。おれは栗山先生を信じる!」
碓井は刃をかざし、腰を落としてかまえた。
『人間の分際で――ならば、こうしてくれる!』
ウェンカムイが別の腕で殴りかかった。
強烈なフック。遠心力を利かせた、引っかけるような一閃。ひと掻きで人間の頸椎など、ウエハースでできた菓子みたいにヘシ折ってしまうだろう。
碓井は見切っていた。
頭をかがめると、巨躯の懐に潜り込んだ。
モーラナイフを逆手に持ち、左手で柄尻を支え、獣の胸めがけ突き立てた。
――が、ワイヤブラシさながらの剛毛に覆われた【邪神】は、硬すぎて炭素鋼製のブレードをもってして歯が立たなかった。
ウェンカムイは碓井を両手で挟み込み、邪険に投げ飛ばした。
もんどり打って転がった。雪がクッションになったおかげで致命傷にはならないが、碓井の気力を挫くには充分であった。
――ダメだ。おれの力では太刀打ちできない。
『大輔、決めつけてはいけません! ウェンカムイにも弱点はあります。そこを攻めるのです! 考えなさい!』
碓井はよろよろと立ちあがった。フードはずり落ちて、頭がむき出しになった。
再度ナイフをかまえた。愚直に逆手に持ち、別の手で柄尻を保持する。
【邪神】を下から睨みあげた。
『よせよ大輔! 見たろ、おれの身体の硬さを。クルミの殻のように硬いぞ。そんなちゃちな得物でおれを倒せると思うてか!』
碓井は眼を見開いた。そして薄く笑った。
「せいぜい喚いてろ。おまえがくっちゃべってくれたおかげで、急所を見つけた」と、碓井は力強く言った。
『悪あがきを。弱点なぞあろうか。減らず口を叩けなくしてやる!』
聳えるごとき高さのウェンカムイが殴りかかった。
碓井はとっさに腕を交差させてブロックしたが、防ぎきれるものではない。爪で手ひどく引っかかれたうえ、後方に跳ね飛ばされた。
雪の上に投げ出され、背中からスライディングした。
激痛が全身をかけめぐった。
左腕が肘のところから嫌な方向にねじ曲がっている。くわえて、頭から出血していた。
不屈の闘志だった。
碓井は痛みをこらえ、ふたたび立ちあがった。左腕がねじれ、断裂しかかっている。こんどは右手一本だけでナイフをかまえた。
「……いまのは効いた。タイミングが合わなかっただけさ。次こそ」と、碓井はニヤリと笑った。大量の鮮血が額から滴り落ち、足もとを染めていく。己の痛みなど他人事のようだ。「もう一度かかってこい! カウンターをお見舞いしてやるからよ。おまえがカムイかどうか、これでハッキリさせてやる!」
【邪神】が氷柱のような黄色い歯列をむき出しにした。毛細血管の走った眼を見開く。
『そのメスイヌといい、おまえといい、服従しないとはいい度胸だ! カムイを挑発するとはな。ならば望みどおり、白黒決めようじゃないか!』
「来いよ、熊公! さっきはよくも涼介になりきって騙してくれたな。お返ししてやる!」