13.インターバル
『おれを【邪神】呼ばわりするとはな! おれはれっきとしたカムイだ! 侮辱するのも大概にしろよ、このメスイヌが!』
おぞましき亜人間の声がこだました。もはや花志 涼介の名残りはそこにはない。
赤く妖しく光る眼で睨み、烈しい敵意をむき出しにして碓井に向きなおった。
『消えるがいい! おまえは大輔の気弱な心が作り出した破滅願望にすぎません!」
ポンチョ姿の栗山が碓井の前に立ち、ウィンカムイに片腕をかざした。
手のひらから、ほのかに光が放たれている。
白い光を浴びたウェンカムイは顔を覆いつつ、歯ぎしりした。いくらカムイの端くれとはいえ、生への渇望のシンボルともいえるサードマンと戦えば勝ち目はないらしい。
ウェンカムイは背中を見せた。ふり返った。
『今回は見逃してやる。だがな――おれはその男の甘さが具現化した存在だ。たとえいま、おまえに救われたとしても、心が弱ったとき、ふたたびおれを呼び寄せることになろう。そのときこそ、男の命をいただく。それまでせいぜい可愛がってやるんだな!』
『吠え面かくんじゃない! さっさといなくなりなさい!』
『クソが!』
と言って、ウェンカムイは四つん這いになって、雪を蹴散らし逃げていった。
禍々しい姿は雪と闇を隠れ蓑にして見えなくなった。
栗山がそばに寄り、しゃがんで、碓井の顔をのぞき込んだ。
『大輔、しっかりするのです。あなたはまだ死ぬときじゃない』
栗山はそう言うと、ポンチョのフードを取って、背中側にずらした。
ひどく懐かしいと、碓井は思った。
村で教鞭を執っていた若き教師の美貌がそこにあった。
碓井はその月のように蒼ざめた顔を見たとたん、急に視界が暗転した。
そのまま眠りのエアポケットに転がり落ちていった。
――ぬくもり。
揺りかごに揺られているかのごとき居心地のよさ。覚醒と眠りの波間のなかで漂っていた。
ほのかな柑橘系の香料が鼻をくすぐった。
碓井は矢も楯もたまらず、柔でしなやかな安寧にしがみついていた。
ぬるま湯に浸かっているみたいに、ゆっくりと身体の芯から温まっていく。すべらかな感触から命を分けてもらっている気がした。
徐々に、そして確実に、力があふれてくるようだった。
重い瞼を、どうにかこじ開けた。
素肌の匂いが芳しい。
柔らかい誰かの胸の谷間に顔を埋めていることに気づいた。下着はつけていない。
思わず碓井は顔をあげた。
すぐ密着する形で、栗山の顔があって驚いた。観音菩薩のように微笑んでいる。こんなにもまつ毛が長い人だったのかと思った。断じてエクステはしていない。
二人は狭く薄暗い空間のなかで抱き合っていた。
碓井は簡易テントの正体を見抜いた――まわりを囲む布地はオリーブドラブの色からして、自身が着ていたレインポンチョではないか。木の枝を支柱がわりにしていた。地面に敷いたものは栗山が脱いだ分だろう。
栗山に抱かれ、そして抱きしめたまま、口を開いた。
「これって、先生が体温を分けてくれたおかげで、ここまで回復したんだよな?」
キスできそうなほどすぐ間近で、栗山は笑った。
『大輔、あなたはまだ歩けるでしょ。ここで諦めちゃダメです』
「先生の身体、あったかい――栗山先生は幽霊じゃないのか? 幽霊ならこんなにリアルな感触と、あたたかさがあるだろうか?」
『いつまでもしがみつかないの。ほら、力が沸いてきたのなら、そろそろ出かけなきゃ』
「まだこうしていたい」
『意外に甘えん坊だったのね』と、栗山は喉の奥で笑い声を出し、碓井を抱きしめた。あごを碓井の頭に乗せ、『でも、あなたはここにとどまっていちゃダメなの。早く進まないと』
「そうだ、北奈裳尻に行かないと」と、碓井はハッとして栗山の顔をのぞき込んだ。「ほくなもしり?――いったい、なんだっけ?」
『考えてはいけません。とにかく歩くのです。急がないと。さあ、立って』
「――ちがうところが立った」
『それだけの元気が回復すれば安心ね。私はそろそろ消えます。裸を見られたくないから、いったん気を失ってなさい』
「見たいのに」
『見せません』
そう言って、碓井の胴に巻いた腕を離し、手のひらで顔を覆ってきた。
碓井の視界は手でふたをされると、瞬時に意識が飛んだ。
またしても寒さが忍び寄ってきた。すぐに猛烈なそれへとかわる。
あまりの寒気に、思わず眼を開けた。
顔にかかる雪。冷たすぎる。
払いのけた。
碓井は反射的に半身を起こした。
ずっと雪の上に横たわっていたのだ。よく凍死しなかったものである。
自身の恰好を見た。
いましがたまで栗山に温められていたのは幻覚だったのか?――さっきと同じレインポンチョ姿だった。ちゃんと内側には、融雪剤の袋を切り裂いて作った包帯が巻いてある。まさか、ご丁寧に栗山が巻き直してくれたわけでもあるまいし……。
ただ、意識を失っていたのはどれほどの間だったのかは不明だが、身体にはほとんど雪は積もっていなかった。いまだ吹雪は続いているというのに。それが解せなかった。
気力をふり絞り、四肢にありったけの力をこめ、どうにか立ちあがった。
さっきは末期的な低体温症で死ぬ寸前だったのに、不完全ではないにせよ体力が回復していた。
時間帯は深夜だろうか? 相変わらず空は暗黒が広がっていた。満月が見えた。あとは分厚い雲に覆われていた。
その空から絶え間なく大粒の雪が舞いおりてくる。
栗山がさっき急かしたように、碓井のなかで焦燥がこみあげてきた。
あたりを見まわした。
森の奥へ伸びる村へと続く道と、ふり返れば、いま来た一本道があるだけ。もはや足跡は雪で埋まり、見えなくなっている。
それ以外はエゾマツやミズナラの立ち並んだ森が左右を挟んでいた。奥は墨をこぼしたように、ひたすら暗い。
栗山の姿はどこにもない。
そばにいてくれるだけで安心し、希望が沸いてくる【存在】はかき消されていた。
捜してすぐに出てきてくれるわけでもないようだ。
とにかく湖中に沈んだ村をめざすしかない。
状況が悪化すれば、きっと助け舟を出してくれるはずだ。当時から栗山 柚葉は、アメと鞭を使い分けることが抜群にうまかった。
辛くなったら必ず支えてくれる。信じるしかなかった。
碓井は歩き出した。
牡丹雪が視界を覆う。
ラッセルしながら進んだ。ふくらぎまで没するほど道に積もっていた。恐るべき積雪の速さだった。
そのとき、頭のなかに栗山の声が響いた。
『大輔。前へ、前へ! しっかり脚を動かしなさい! 立ち止まっちゃいけません!』
「やってるよ、栗山先生」と、碓井は歯を食いしばり、脚をくり出した。冷気に負けそうなので、ポンチョの胸もとをかき寄せた。「どんなに辛くても進む。おれらしく、ひたすら前に行けばいいんだろ? あのころ、先生が言ってくれたみたいに。通信簿でも褒めてくれてたよな」
『負けてはいけません。いつまでも涼介君のことで悩まず、前向きになりなさい。頑張れ、大輔!』
子供から大人になるはずだった通過儀礼の夏。あの橋から真下の川へのダイブのとき――。
鮮烈によみがえったあの記憶は、まさか死に瀕した者が見るとされる臨死体験の一種、ビオスコープ幻想だったのか?
――だとすれば、おれは生と死のギリギリの狭間で闘ってきたらしい。
おいおいおい。そもそもだ。
ところでおれは、なんのために北奈裳尻に向かっているんだっけ?
いまさら八年もの前、湖中に沈んだ村へ、なにを求めているっていうんだ?
見当識障害がいまごろになって、碓井を錯乱させていた。
花志 涼介を死なせた悔恨にとらわれ、身代わりとなった少年の魂に手を合わせるため、進んでいるのかと思っていた。
いや、ちがう。そうじゃない。
北奈裳尻――。
北奈裳尻――。
ほくなもしり?
北奈裳尻ってなんだ?
おれはなにを考えているんだ?
ダム湖に沈んだおれの故郷は、そんな名前だったか? 事故を起こして以来、かすかに違和感がつきまとっていたと思ったのだ。あの消滅集落は、そんなしち難しい名ではなかったはずだ。もっとシンプルな、ありふれたそれだった。
どこで、すり替わったんだ?
碓井の心に翳りがさした。まるで水面に浮いた虹色の油膜のように、その悪しき面積を広げていく。
おれは――もしや――。