12.サードマン現象に関する報告.3
とすれば、サードマンは脳の錯覚なのか?
一九七六年にアメリカの心理学者、ジュリアン・ジェインズが提唱した説がある。
ジェインズは現在私たちが理解している『意識』は、人の進化の歴史において、ごく最近発達したものだと唱えて物議を醸した。
ジェインズによれば、初期の人類は右脳で浮かんだひらめきを、あたかも実世界で起きているかのように外的な事象として捉えたという。
およそ三千年前までは、人間の脳は右脳の『神の側』、左脳の『人の側』に分けて考えていた。
『神の側』は全能の存在か権威像そのものであり、シャーマンなどの口を借りて、幻視や幻聴による『神のお告げ』を発したとされている。
かたや『人の側』は、相手の言いなりになりがちだ。
我々の知る初期文明はすべて、このような幻覚や、神の託宣と称されるひらめきによって支配されていたのではないかと、ジェインズは言う。
極度のストレスと単調な環境のもとでは、いつもは支配的な左脳の力が弱まってしまう。
つまり、『論理的、直線的、現実指向』の考え方が優勢ではなくなる。右脳は、『独創的、想像的、非直線的』な認識をつかさどるが、その役割がふだんより大きく占めるようになるとされる。
空想の誰かを思い浮かべることにより、右脳の働きが活性化するのではないかとしている。
人間の内部にある脳のメカニズムが、身体的または心理的許容度の限界を超えた人のなかで発動する。
最新の学術研究にこんなものがある。――オラフ・ブランケとローザンヌ工科大学の研究仲間は、二十二歳のてんかん患者の左側頭頭頂接合部(脳のなかで感覚情報の組織化にかかわる部分)に電気刺激を与えることで、研究室内で【存在】を呼び起こすことに成功したのだ。
脳のこの領域を刺激するたびに、女性患者は鮮明に【存在】が現れるのを感知。刺激をやめると、サードマンは急にいなくなったという。ブランケらの研究では、このメカニズムを『スイッチ』と呼んでいる。
日常的な生活を営むほとんどの一般人だと、この力を引き出そうにも、本来能力は奥深くに眠っている。潜在能力を引き出すスイッチは切れたままだ。
ところが、心に痛手を負うようなアクシデントに遭遇したり、不可能と思われることを強いられたりすると、極限状況のなかで忍耐力の限界に達した一部の人たちは、このスイッチがオンになる。
生きたいと思う強い気持ちがそれを可能にさせる。
生々しくサードマンがそばに現れ、心強い【存在】がいることに、人は安心感と希望を得ることにつながるのである。
一方で、慈悲深い救済者もいれば、破壊的ななにかと出会うのはなぜか?
たとえば、9部『山や海上での幻視体験について』における、②の長谷川 恒男の事例。
ヨーロッパ三大北壁で知られるグランド・ジョラスでのビバーク時に、死んだはずの友人たちが現れ、テント外で酒盛りをしていたエピソードは、どちらかと言うと、死へと誘うそれではないか。
これは日本の登山家のケースでよく散見される幻覚タイプである。
うろ覚えで恐縮だが、元F1レーサーで、のちに登山家へと転向した片山 右京も、某バラエティ番組で類似の話をしていたと思う。
異端の登山家であり、餓狼のような男、森田 勝も似たような体験談を持っていた。
長谷川 恒男の場合、「いっしょに飲もう!」との声に誘われ、なまじテントの外へ出てしまったら崖下へ転落死しただろう。
さまざまな理論がある。これも脳浮腫や低酸素症、もろもろの要因がイタズラをしているのだろう。あるいは潜在的な死への願望も作用しているのかもしれない。海上での漂流者だと、潮水を飲んだせいで、方向感覚を狂わされ、幻覚を見ることもめずらしくないという。
苦難にさらされても、最後には救われると信じる人の方が、救済者を見やすいとされ、破壊者はそれ以外の人を死に至らしめるのかもしれない。
畢竟、なんとしても生き抜こうという意思表示の重要性は見逃せない。生き延びることを信じる姿勢こそが、救済者の力を発揮させるのだろう。
先に挙げた登山家、ラインホルト・メスナーは、一九八〇年、歴史的なエベレスト北面登攀の最中で以下のような体験をした。
メスナーは疲れ果て、飲食する気になれず、ひたすら恐怖と無気力と戦うためにエネルギーを温存しようとした。
そのときサードマンの声が聞こえた。
イタリア語で、『料理をしなさい』と、誰かが耳もとで囁いた。メスナーは見えない誰かがそばにいるような気がした。
「私はリュックサックから干し肉を取り出し、二等分した。料理することにしたんだが、ふり向いてはじめて、自分が一人だということに気がついた。愕然としたものだ」
エベレスト以外では、『魔の山』ことナンガパルバットにおいては、サードマンが、少し右の数歩後ろ(※右脳が活性化される証なのか、このようにサードマンは右側に現れるケースが圧倒的に多い)、ちょうど視界から隠れる位置を、一定の距離をおいて歩き続けたと話している。
またメスナーは、サードマンこそじつは、『別の次元』から見た自分自身ではないかとも主張した。
ガイガーはメスナーへの取材の際に、
「それは守護天使か?」と尋ねた。すると、メスナーは「ノー」と答えた。そして語気を強めて、
「いいや、ちがう。それは極めて自然なことだと思った。どんな人間でも、そのような危険な状況におかれたら、同じ感覚か似た感覚を持つのではなかろうか。身体は、人を生き延びさせる方法を見つけ出すものなんだ」
人は誰にでも慈悲深い【存在】がそばで守っていて、謙虚な召使のように裏方に徹しているときもあれば、身体に死の危険が差し迫ったときなどは、必要に応じて発現したりもするのではないか。
サードマンはサバイバル能力のための鍵であり、脳に秘められた驚くべき能力とも言え、私たちの社会的ハードウェアの一部なのである。――ガイガーはこれを『天使のスイッチ』と呼んでいる。
そしてこのスイッチは、他人と共有される場合がある。つまり極地にて集団でいるにもかかわらず、個人の錯覚ではなく、みんな同じ【存在】たるサードマンを見ることもあるからだ。強い信念を誰かと共有することで、精神状態が伝染するというのだ。さながら集団ヒステリーのように。
人は常に他者を必要としている。どんな辛い状況であれ、自分は独りではないと信じることである。