11.サードマン現象に関する報告.2
「聞けよ! 地球に戻るか、ここにいるか、二つに一つだ。――ここは居心地がいい。システムをぜんぶ落として、灯りも消す。眼を閉じれば独りぼっちだ。誰も傷つけたりしない。生きる意味がどこにあるっていうんだ? たしかに君の娘は死んだ。こんな悲しいことはあるまい。――だが問題は、いまをどうするかだ。いいか。生きて帰りたければ逃げてちゃいけない。もっと旅を楽しみな。その足で大地を踏んで、好きなように人生を生きろ。ライアン――地球に還るんだ」
――映画『ゼロ・グラビティ』より
ライアン・ストーンが危機のときに現れるマット・コワルスキーの幻影
ところで、ジョン・ガイガーという研究者がいる。
ニューヨーク州イサカ生まれ。アルバータ大学で歴史学を専攻したのち、ノンフィクション分野で執筆活動を続ける人物である。
ガイガーはそれまで、サードマン現象を集めた報告書がないことがわかったため、自身でやろうと決意。
五年にわたって体験者に取材し、膨大な資料(手書きの日記からはじまり、出版された探検記や生還物語)を収集し、それらを検証した。
ガイガーは先に挙げた要因の他に、登山史、冒険史、宗教史をはじめ、脳科学、神経学、精神医学もからめて多彩な視点で深く掘り下げたのである。
そこで、現象が起きる基本原則として、以下の五つを提示した。
① 退屈の病理(雪山・洋上・砂漠・空など、周囲の景色が単調で、刺激が乏しいことから起きる状態)。
② 複数誘因の法則(本人にストレスを与えるさまざまな要因)。
③ 喪失効果(仲間を失ったり、愛する者が死亡したとき、孤独感を抑えるために働く力)。
④ ムーサ・ファクター(経験への開放性)。※ムーサとはギリシア神話における芸術と学問の女神。
⑤ 救済者の力(最後まで生き延びるようと信じる姿勢)。
このなかで、④の『ムーサ・ファクター』とはなにか、気になることだろう。
宗教において『山』がよく隠喩の対象となることは知られている。
スイスやイスラエルの大学の神経学者であるシャハール・アージーと三人の共著者は、『メディカル・ハイポセシス』誌のなかで、山は単なるメタファーではないとしている。
彼らは高所登山家による、神の啓示に似た事例に見られるような【存在】を感じたり、形として遭遇した体験は、山と宗教の関連を説明するのに役立つと考えている。
なるほど、賢人は悟りを求めて山の頂をめざすものである。
例えば、ギリシアのオリンポス、チベットのカイラス、日本の富士、中国の泰山などの山頂は、神聖なシンボルでもあり、神々の力を顕しているといえよう。
日本における霊峰・富士は山岳信仰を象徴する山である。
かつて我が国では、肉体を離れた死者の魂は山を登っていくと考えられた。やがて頂に至っては神となり、氏神という一族の守り神にまで昇格すると信じられていた。
こんどは仏教が伝来すると、死者の魂が山を登っていく様子を六道(輪廻思想で死後に出会うとされる六つの世界)になぞらえ、山頂に達すると仏になるという信仰が生まれた。
それどころか、
「モーセ、イエス、ムハンマドという西洋の三大一神教の開祖への天啓は、いずれも山頂で起こったではないか」と、アージーらは述べている。
モーセはシナイ山で燃える茂みのなかで最初の啓示を経験した。
その後、さらに三回ヘブライの神に出会う。イエスは、タボル山ともヘルモン山とも伝えられる『離れた高い山の上』で目醒め、光をまとった姿でペトロ、ヨハネ、ヤコブの前に現した。
イスラム教の伝承によると、予言者ムハンマドはヒラー山に一人でいたときに、大天使ガブリエルの啓示によりコーランを授かったとされる。
アージーらは、
「社会から離れ、高所に長くとどまっていると、身体機能や神経全体が影響を受け、啓示を経験しやすくなる」としている。
とはいえ、高所だけがサードマンを呼ぶきっかけになるわけではない。先に述べたように、『極限の特殊な環境』であるEUEは、いろんな舞台があるからだ。高山病だけが要因ではあるまい。
脳機能の衰えや、相当なストレスが関係しているケースもあれば、個人差もあってさほどストレスを受けない人もおり、必ずしも低酸素症がサードマンを呼び寄せることに直結するわけでもないようだ。
少なくとも神秘体験をしやすい人とそうでない人がいるように、外的な条件だけが要因にならない。
それに加え、内部の心理的要素――すなわちムーサの要因も揃って、はじめて発現するのではないかと、ジョン・ガイガーは言う。
かたや心理学者は、ムーサ・ファクターとは表現せず、『経験への開放性』と呼ぶ。
つまり、想像力に欠け依存的な人と、想像力に富み自立した人と比べた場合、後者の方がそういった要素を秘めている。というのも、なじみのない新しい経験や思考、感情を探り、受け容れようとする柔軟な意思が根本にあるからだとされている。
この性格の持ち主は、アイデアに富み、物事をすばやく察し、慣習に囚われない価値観をもち、美的感性が強く、変化を求める。
性質的に、前頭前野の働きと関係があるとされている。前頭前野こそ脳のなかでも、『実行機能』と呼ばれる働き(抽象的思考、行動の系統化、不適切な行動の抑制)や、性格と関わる部分である。
また、【存在】に出会う人と出会わない人との違いは、『没入』という意識が高まった状態も関わりがあるらしい。没入度は、被催眠性を示す信頼性の高い指標となることが明らかにされている。
すなわち、必要な状況、条件が揃っていたとしても、開放性の低い人ではサードマンは見ないかもしれない。
一方、開放性の高い人は、状況、条件が揃っていないにもかかわらず、サードマンと遭遇するかもしれない。
人は孤独感やストレスが大きいときこそ、そばに姿の見えない【存在】だけを感知するほど没入するかもしれない。いずれにせよ、いまだ研究が途上にあり、すべて『かもしれない』としか言いようがないのだ。
開放性や没入度の高い人は、ムーサ・ファクターをそなえており、中程度の標高の極地でも現れる可能性は高まる。
したがってムーサ・ファクターこそ、極限の特殊な環境で追い込まれたとき、救いと励ましてくれる味方を呼ぶことのできるスキルであると、ガイガーは力説する。
多くの研究者は、サードマンを誘発する要因として以下のものを挙げている。どれも定番のものである。
孤独、単調な風景、低温ストレスや低酸素、著しい体力の消耗、病気や怪我、心理的プレッシャー、人間関係の不和、睡眠不足、渇き、飢餓状態による血中グルコース濃度の低下、高所脳浮腫などである。
はてはスピリチュアル方面の意見では、心霊現象や霊媒体験なども含められる。
低温・高所生理学の専門家であるグリフィス・ピューは、一九五三年のイギリス・エベレスト遠征隊に、生理学者として同行した人物で知られている。彼は多くの登山家がサードマンと遭遇したことについては認めながらも、それを『脳機能の衰え』によるものと断言している。
ピューは、
「たび重なる幽霊の目撃談は、仮に酸素吸入器を使っていたとしても、すべて極度の低温、疲労、酸素不足によって起きた幻覚にすぎない」と、主張。さらに、「山との闘いに全身全霊で挑み、力を使い果たした人にとって、なにを見てもふしぎではない。死んだ親戚や友人と出会うのは、よくあることだ」などと、言いきる。
同じく、医師であり登山家でもある、高所生理学専門家のチャールズ・S・ヒューストンも、
「幻覚のなかでもとりわけ多いのは、近くに誰か歩いたり話したりする事案である」とし、この現象を深刻な高所障害の一つである脳浮腫によるものだと警鐘を鳴らしている。
脳浮腫は身体が必要とする酸素を得ようとして血液循環量を増やすと、場合によっては脳にむくみを生じさせ、類似の幻視幻聴が起こるからだという。
ヒューストンは、
「脳浮腫の症状のある人のほとんどが、誰かの声を聞いたり、奇妙なものを見たりする。時間と空間の感覚を失うこともよくあることだ。むしろこれらの症状が表れたら、救命のために治療が必要である」としている。
ドナルド・ヒースとリード・ウィリアムズも、共著において、
「もっとも特徴的な現象は幻の友である」と記している。二人とも【存在】との遭遇は、高所ならではの症状だと考え、
「低酸素症は、高次脳機能に重篤な影響を及ぼす」と結んでいながら、ヒースとウィリアムは肯定的にこうも付け加える。「超高所における幻の友は、極限状況のなかで、心理的な支えを生むために頭のなかで作り出されたものだろう」としている。