10.サードマン現象に関する報告.1
古来より、三重県鳥羽市や志摩市の海女の人々は、海の中で妖怪『トモカヅキ』と出くわすことをひどく恐れた。
『トモ』は『一緒に』を指し、『カヅキ』はこの地方における『潜る』という意。したがって、『朋潜き』、または『伴潜き』ということを表すのだろう。
一人だけで素潜り漁をしていると、いつしか自分そっくりな恰好の人物を見かけるようになる。――いわゆるドッペルゲンガーである。
もっぱらトモカヅキと遭遇するのは曇天の日が多いとされ、他の海女と異なり、鉢巻の尻尾を長く伸ばしているので奇異に映るという。
潜っていると、自分とそっくりな海女までが水中で同じように漁をしているのだと。
分身がニヤリと笑いかけてきて、鮑をくれる仕草をしてくるという。
うっかり鮑をもらってしまうと、そのまま命を取られてしまう。
もしくは、鮑がたくさん獲れる漁場に連れていってくれるつもりか、しきりに手を引いてくることも。
一緒に深い場所に潜ってしまうと、潜水時間を超えてしまい、これも命を落としてしまうそうだ。
赤潮が発生しているときも出会いやすいとされた。蚊帳のようなものを被せてくるともいう。
であるからして、海女は魔除けとして、セーマンドーマンのマークが入った頭巾をつけて漁をする風習が現在でも続いている。
もしトモカヅキと出くわしたら、それ以降、海に潜るのを辞めることも少なくない。
先にT・S・エリオットによる自身の詩『荒地』の注釈に言及した。
シャクルトン探検隊の一行が、体力の限界と戦いながらの出来事だった。じっさいに数えられる隊員以外に、もう一人の謎の人物がいるという錯覚を持ったことに、強いインスピレーションを受けたと。
これが元となり、【存在】に、『第三の人』と呼び名が冠せられるようになる。
他にも研究者はこれを、『存在の気配』『鮮烈な身体的意識』『影の人』など、さまざまな呼び方をする。以降、このふしぎな力が発現することを、『サードマン現象』として広く知られるようになった。
サードマン現象とは、心理学者が分類する『極限の特殊な環境』、すなわちEUEに耐えているさなかに起きるとされる奇蹟体験を指す。
EUEは主として、
① 最先端技術なくしては生存できない深海や宇宙空間。
② 極地(北極、南極、山岳、洞窟、砂漠地帯)。
③ 災害や戦争などの混乱状態(地震、津波、ハリケーン、戦争、テロ、捕虜拘束された状況)。
④ 海難事故による漂流時。
――などの、死が差し迫った極限状態に陥った者(パイロット、宇宙飛行士、ダイバー、極地探検家、登山家、単独航海家、海難事故による漂流者、戦争捕虜などと多岐にわたる)のそばに何者かが現れ、寄り添い、見守り、励まし、ときには生き延びるために実践的なアドバイスを送り、生還へ導いてくれると言われているのだ。
時にはこんな事例も報告されている。
二〇〇一年九月十一日、イスラム過激派テロ組織アルカイダによるアメリカ同時多発テロ事件のさなかにもそれは起こった。
ニューヨーク貿易センタービル、南棟八十四階で被害に遭った金融会社の職員、ロン・ディフランチェスコが煙に巻かれて立ち往生したとき、謎の男の声に従い、燃え盛る炎を突っ切って階下に向かい、九死に一生を得ている。
先に挙げた登山家のメスナー、ブールをはじめ、なんと世界初の大西洋単独無着陸飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグさえも同様の体験をしているから驚きである。
サードマンは眼に見えず、【存在】の気配だけを感じるケースが多い。
しかしながら、ボンヤリした『姿』を見る人もいれば、詳細なそれの場合もあり(アジア人だの、ネパール人女性だのと、ピンポイントに人種まで言う体験者もいる)、千差万別である。
なかにはこんな事例もある――登山家、ウィルフリッド・ノイスはエベレストのジェネバスパー岩稜帯を無酸素で突破していたとき、『二重感覚』を体験した。
ノリスは言う。
「私は二人の人間だった。上層の自分は冷静そのものなのに、下層の自分が必死になって息を切らせている姿が見おろせた」
ところがさらに状況が悪化すると、この現象に拍車がかかり、「私が、別の自分に服を着せてやったりすることもできた」と、ノリスは言う。日本で言うところの幽体離脱現象であろう。
いずれにせよ、サードマンは守護天使だとする説、幻覚説、まちがいなく現実の現象であるする説、と意見が分かれる。
共通する点がある。
体験者は、その【存在】に守られているかのような安らぎや生存への希望を感じ、最悪の状況を切り抜けるための努力を続け、結果的に生き抜くことに成功するのだ。
そして肝要なのは――極限状況から脱すると同時に、サードマンの気配は跡形も消えてなくなることである。
むろん、サードマン現象は誰にでも起きるわけではなく、起きやすい人と、まったくそうでない人とに分かれる。どれほどの割合で現れるのかは不明ではあるが……。
どんなに極地でギリギリの命の危機にさらされ、もがき苦しんだにせよ現れない人もいるだろう。
仮にサードマンが現れ、それに導かれたとしても、命を落とすこともあり得る。生還してこそ、その報告が集まるからだ。
なかには死亡したが残された手記に、サードマンとおぼしき謎の人物について記された事例だって、ちゃんと存在する。
例えば元イギリス軍の大尉の登山家、モーリス・ウィルソンの場合――。
彼がエベレスト単独登攀で失敗し、のちに見つかった日記には、
「五月二十八日。明日こそは、最後の努力を尽くすつもりだ。成功すると思う。ユニオン・ジャックの旗をテントのなかに掲げる。なんとなく晴れ晴れした気になる。妙なことだが、テントのなかに自分以外の誰かがいるような気がして仕方がない」と、あった。
この記録の続きは、そのあと三日分まで書かれ、結局ウィルソン自身が行方不明となる。翌年、白骨化した姿で発見されている。
研究者が尋ねると、体験者はすぐそばに見知らぬ救済者、あるいは『強大な人間のような』【存在】がいたという類似の話をする。あるいはもっと具体的に、死んだはずの家族や伴侶、親友と遭遇するケースも多々ある。
だが彼らは生還したとしても、誤解されたり、神経を疑われることを恐れたり、あるいは秘密を破ってしまうような冒涜を感じ、積極的にこの話をしゃべりたがらない。もしかしたら黙したまま、この世を去った者もいるにちがいない。
サードマン現象を神の御業だとみなす宗教者もいる。
あるいは舞台がEUEに限らず、サードマンに似た【存在】の現象は他にも見られる。以下が一例である。
① アメリカ先住民やアジア・アフリカの伝統的な通過儀礼の際の幻覚。
② 孤独やストレス、PTSDにさらされた子供が作るとされる見えない遊び相手。
③ 愛する人と死別した直後、遺族が感じる故人の気配。
④ 日常生活の中で、特定の人(つまり霊媒体質と言われる人)が見るとされる超自然現象の類。
と、この現象を広範のカテゴリーで見たとき、極端な環境や、特殊な職業・趣味を持つ人間だけが体験するというわけではないことがわかる。
むしろ、個人では対処しきれないほどの烈しいストレスにさらされた者が、ある条件、ある複合的要素が合致したとき、『見る』とされている。
サードマンや守護天使などというと、どうしても西洋文化のお国柄の産物のように思える。
日本の場合だと、死んだはずの家族や伴侶、親友、ご先祖、あるいはスピリチュアリズムに傾倒してしまえば、『守護霊』、あるいは『神仏』の加護があったと捉える人もいる。
いずれにせよ、窮地から救ってくれる正体不明の誰か。自分は誰かの庇護を受けて生きているという思いは、万国共通の考えのようだ。
そもそも最初にサードマンを空想上の遊び仲間と結び付けたのは、神経学者のマクドナルド・クリッチレーであった。
研究によれば、ふつうの子供と、強度のストレスを受けた子供の場合、後者の方が、見えない友達との接触を体験しやすいことがわかっている。
大人の場合とて例外ではない。日常的な状況でさえ、誰かを失ったときのストレスが【存在】を呼び起こすことにつながると研究で立証されている。
EUEにおける多くの事例も、仲間とはぐれたり、死別したあと、空白を埋めるためにサードマンを自発的に『そこにいるように念じる』ことによって、ストレスを緩和しようとする働きがあるのかもしれない。