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1.歩いて北奈裳尻へ行くしかない

 どうしてもこの眼でダム湖に沈んだ故郷を見たかったのだ。だから無謀にも突き進んでしまった。

 いまにして思えば人生に疲れていたのかもしれない。もしかしたら無意識に死に場所を求めていたのかも――。




 碓井うすい 大輔だいすけはハンドル操作を誤り、車ごと崖下に転落した。

 自身の生まれた消滅集落へ里帰りしている途中のアクシデント。とんでもない僻地へきちの山道でのできごとだった。

 命を落とさなかったのは奇蹟に等しい。どうにかひしゃげた車から這い出した。

 スマホが壊れてしまったのは痛手だった。連絡の手段を失った。


 どこをどう歩いたのか記憶があやふやだ。

 したたか頭を打ち付けたらしい。事故直後は見当識障害に戸惑ったものの、時間が経つにつれ、自身がおかれた状況を客観視できるまでになった。


 身体じゅう悲鳴をあげていた。関節は油のささっていないギアのように、嫌なきしみを響かせている。

 おまけに上着はズタズタに引き裂かれていた。そこらじゅうから出血していた。

 幸い致命傷は免れているらしく、脳の指示どおり、身体の末端はどれとも動く。麻痺した部位はない。

 頑健な身体に生んでくれた亡き母に感謝した。




 いま来た道を戻ろうにも遠くまで来すぎていた。最寄りの街まで二十キロは離れているはずだ。

 したがって、遭難したも同然だった。

 持ち物はLEDミリタリーライトとチョコ板一枚、ジッポーライター、モーラナイフ――炭素鋼製の刃が頼もしい。藪のなかからひぐまが現れたとしても、丸腰より安心だ。

 それと、どうにか車内から引きずり出したレインポンチョがあった。ポリエステル100%で、これなら雨をしのげる。


 雨? 雨どころか雪が降りそうだった。


 季節は晩秋。碓井の吐く息は白く、傷ついた手足は小刻みにふるえている。身体の芯からシャーベットみたいにシャリシャリに凍りそうだった。

 本来ならばもと来た道を引き返すべきだった。然るべき病院で精密検査を受けるのが妥当だろう。いまは気が張っているだけで、アドレナリンが切れたらたちまち生命の危機に瀕する恐れもあった。

 なのに、脚は反対方向を向いた。意思に反して歩きはじめた。




 こうなったら徒歩で故郷、北奈裳尻ほくなもしりへ行くしかない。

 道のりは、これも二十キロはあるにちがいない。つまり碓井は、半分の道のりまで来たところで事故を起こしたのだった。


 北奈裳尻は、すでに八年前、ダム建設で水の底に沈んだコタンだ。古くはアイヌの歴史が息づく土地。

 人工の水甕みずがめがためられる直前までしがみついていた最後の一家族も立ち退いて久しい。

 いまは無人だ。跡形もあるまい。たどり着いたところで、電話を借りられる家や施設はない。

 物好きなキャンプ客がいるかもしれない。万に一つでも期待して、それにすがるのもよかった。


 この寒空を見ればわかる。とても酔狂な連中がこんな山奥まで分け入ってくるとは思えない。

 むしろ、いつ白いものが降ってもおかしくない雲が向こうの空にかかっていた。じきにこちらの上空に勢力を広げようと手を伸ばしてくるだろう。急がなくてはならない。

 碓井は行くことにこだわった。なかば依怙地いこじに近い感情だった。




 やがて日は落ちて、タールをぶちまけたような闇があたりを覆った。

 月が出ているのがせめてもの救いだった。星明りもクリアな空に散らばっている。おかげでしだいに夜目が利いてきた。


 逆手さかてに持ったフラッシュライトで足もとを照らす。

 アスファルトすら敷いていない山道。二つえぐれたわだちは、最近ついたものではあるまい。エゾマツなどの針葉樹の落ち葉でタオルケットをかけたようになっている。この落ち葉が、思いのほか足もとを危なっかしくしていた。ただでさえ碓井はよろけながら歩いているのに、何度も足をとられた。

 まるで酒に酔ったような足どりだ。碓井は自虐的に笑った。


 とりわけ肩の傷が疼いた。血が完全にとまってくれていればいいが。

 それに寒さが骨に染みた。ふるえがとまらない。歯の根も合わず、唇のすき間から白い吐息が断続的にこぼれる。

 オリーブドラブのレインポンチョを羽織っているが、防水仕様であって防寒ではない。碓井は我が身を抱きながら歩いた。身体を動かすことによって温めるしかない。




 行けども行けども変わり映えのしない暗い山道。ときどき生き物の小腸みたいに曲がりくねっている。

 この先は例のダム湖に沈んだ集落跡があるだけで、途中、家屋はない。

 左右はエゾマツやミズナラが月に挑まんばかりにそびえ、ときおり吹く風で葉擦はずれのざわめきを起こさせ、太い枝がゴリゴリときしみを放っていた。まるで骨をすりおろすかのような不吉な音色だ。


 風が吹くたび、碓井は体力を削られていった。

 意識が飛びそうになる。そのつど自身を励まし、脚を交互にくり出した。ここで歩くのをとめれば低体温症を加速させる。うずくまってでの小休止は、立ちあがる気力を奪いかねないと思い、とにかく無心で歩いた。歩くしかなかった。




 思えばふしぎだ。

 ゴールデンウィークや先祖の墓参りの日でもないのに、なぜ八年ぶりに北奈裳尻へ向かおうとしているのか。

 生家はダム湖に水没したのだ。集落が沈んでからは直視しがたく、以来足を運んでいない。父は幼かった碓井を置いて出ていったし、母も去年、苫小牧(とまこまい)の病院で死んだ。


 帰る必然性はなかったはずなのに、むしょうに行きたくなったのだ。

 仕事が繁忙期をすぎると、碓井は有給休暇を取って、車首を釧路に向けてひた走った。

 そして転落事故。水に飲み(、、、、)込まれたなにかに(、、、、、、、、)誘われている(、、、、、、)のかもしれない(、、、、、、、)

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