美波、パパと再会する
気がつくと、美波は草原の中に横たわって
いた。
眼を開けると、夜空が綺麗だった。
星々がキラキラ輝き、満月に近い大きな月が辺りを煌々と照らしている。
空気がひんやりとして心地いい。
それほど寒くはなかった。
[ここは上高地?]
と美波は思った。
保育園の時、美波はパパとママの三人で飛騨高山まで旅行したことがある。ここはその時に行った上高地の夜空によく似ていた。
大空に瞬くたくさんの星々に手が届きそうなくらいだ。
空気が澄んでいて、東京の夜空では決して見れないような、小さな星まで鮮明に見える。
起き上がって辺りを見回すと、果てしない草原一面に白い石板が整然と並んでいた。
まるで以前映画で見た、アメリカの戦没者が眠る広大な墓地みたいだ。
[私、何でこんな所にいるの? 私、死んじゃったの? ここはお墓?]
と美波は思った。
自分の頬っぺをツネってみる。
「痛い」
と美波は呟いた。
美波が着ている青いトレーナーは、神社の森の木の枝に引っ掛ったせいで、所どころ破けて傷んでいる。
擦りむいた膝や手脚が今頃になってジンジン痛んできた。
お腹も空いてるし、喉もカラカラ。
[だけど、多分ここの場所のどこかにパパが居るんだわ。だって、神社で神様にお願いした後、あの変なボールが現れて、私をここに連れてきたんだから。よし、パパを探そう!]
と美波は勇気を奮い起こした。
◇◇
月明かりのおかげで、その墓地はかなり遠くまで見渡せた。
墓地の周りは森林に囲まれている。
二百メートルくらい先の方に墓地の入り口のような白っぽい門が見える。
美波はとりあえずそこまで歩いて行ってみることにした。
その門は石造りで丸いアーチ型になっていた。
古代ギリシャの遺跡によく似ている。
門の先はこれも石造りの階段になっていて下の方まで伸びていた。
ここから先は森林で、階段の先は真っ暗だ。
「ホーッ、ホーッ」
とフクロウの鳴き声がする。
美波は朝までここで夜を明かそうかと迷った。でも、試しに少しだけ階段を降りてみることにした。
階段を少し降りてみると、木々の間から月明かりが差し込んでいて、まったく何も見えないというほどでもない。
美波は思い切って、階段の終点まで行ってみることにした。
階段の終点に着くと石畳の歩道に出た。
道幅は狭いが、その歩道は岩の多い林の中を、左右にずっと先の方まで延びている。
右が下りで、左が登りだ。
美波は少し考えたが、左の登りの方を行ってみることに決めた。
歩道を進んでいくと、やがて道は下り坂になった。
時折、美波の足音を聞きつけた野鳥たちが、けたたましい声を上げたながらバタバタと羽音を立てて飛び去って行くので、美波は肝を冷やした。
道なりにさらに進んでいくと、沢のせせらぎの音が聞こえてきた。
[この先に川があるのね]
と美波は思った。
坂道を下り切ると川があり、少し視界が開けた。細い川でそれほど水量もないが、川の上空は所どころ樹木が途切れていて、月明かりで水面がキラキラと輝いていた。
美波の目の前には石造りの頑丈そうな橋が対岸まで伸びている。
橋を渡ると、またさっきと同じような歩道に出た。左が登り、右が下りだ。
美波は少し迷ったが、今度もまた左の登りを選んだ。下りの方に行くと森が深くなって視界が悪くなるような気がしたからだ。
◇◇
川沿いに続く石畳の道をしばらく進んでいくと、途中で突然視界が開けた。
その場所は小さな滝つぼになっていて、歩道からもう一本、滝つぼの方に向かって石畳の道が延びていた。その歩道の先は木で出来た小さな桟橋になっている。
美波は桟橋の上まで行ってみた。
その滝つぼは、ちょっとした丸いプールのようになっていて、昼間温かい時には水浴びが出来そうだ。
月明かりに照らされた滝つぼでは時折魚が跳ねていた。
十メートルほど上の方からザアザアと水が流れ込んでいたが、小さな滝なので水音もそれほど大きくない。
美波は桟橋に腹ばいになり、両手で川の水をすくってガブガブ飲んだ。
「美味しー!」
美波は声に出して呟いた。
滝つぼの周りは樹木やゴツゴツした大きな岩に囲まれていた。
何となく桟橋の向こうの対岸を見ると、木の陰から、緑色の二つの光が美波の方をじっと伺っている。
[あれは動物? タヌキ? キツネ? もしかして猛獣だったらどうしよう!]
と思うと美波は怖くなり、元の歩道にそろりそろりと後退りしながら戻った。
そこから歩道の先は石造りの階段になっている。階段の幅は広かったが、一段一段走って登ることが出来た。
美波は恐怖にかられ、パニック状態でその階段を駆け上がった。
鳥たちが驚き、けたたましい鳴き声と羽音を立てたが、そんなことを気にしている余裕は今の美波にはない。
その階段はとても長く、百メートルほど駆け上がった所に踊り場があった。
美波はとうとうそこで息を切らして力尽きた。踊り場に両手と両膝をついて動けない。
満身創痍でもうどうしようもない。
少し休まないとこれ以上動けなかった。
ハアハア息をつきながら、美波は恐る恐る後ろを振り返った。
だが運のいいことに、さっきの緑色の目を光らせた動物は美波の後を追って来ていない。
美波はホッとして長い溜息をついた。
「良かったー、助かった。だけどこの石段、幅が広過ぎ。久能山より疲れるわ」
と美波は呟いた。
しばらく踊り場に仰向けになって休んだ。
水を飲みすぎたせいか脇腹が痛かった。
美波は十分ほど休んだ後、気を取り直して再び階段を歩いて登り始めた。
体中から汗が吹き出し、もうトレーナーも短パンもグッショリだ。
だけど、
[この先に、絶対パパが居るはずだわ]
と美波は期待を込めて思った。
◇◇
さらに百メートルほど登った所に、墓地の入り口と似たような丸いアーチ型の石造りの門があった。階段を登り切り、その門をくぐると森が途切れ、突如として視界が開けた。
美波は広い草原に出た。
さっきの墓地よりは狭かったが、それでもかなり広い。
美波が嬉しかったのは、そこが集落のようになっていて、石造りの小さな家がポツポツと立ち並んでいたことだ。
全部で二十軒くらいはある。
その集落は森林に囲まれていて、所々に大きな岩があった。
[やった! ここに人が住んでるんだ。とにかく、どこかの家の門を叩いて、助けてもらおう。その中に絶対パパが居るはずだわ]
と美波は思った。
どの家の窓も木の扉で暗く閉ざされ、灯りは漏れていない。
もうみんな寝静まっているようだった。
美波は一番近くの家の扉を叩いてみた。
大きくて頑丈な木製のドアだ。
トントン、
「あの、夜遅くすみません。こんばんは」
と美波はその家のドアを叩いてみた。
だが、何の反応もない。
再び同じように、かなり大きな声を出し、
ドアを強く叩いてみたが返事は何もない。
美波は思い切ってドアの取っ手を握って、
強く引いてみた。
カギは掛かっていない。
『ギイイー』
と音を立てて扉が開く。
暗くてよく見えなかったが、人の気配はまったくしなかった。
開いたドアの隙間から月明りが差し込み、少しだけ中の様子が見える。
家の中にはテーブルと椅子があり、奥の方に暖炉があるようだ。
だが、暗くてそれ以外の部分は何も見えない。美波は中に入って、
「誰か居ませんか?」
と声をかけてみたが、何の返答もない。
その家には、まったく人の気配が感じられな
かった。
美波は諦めて次の家に向かった。
同じようにノックして、声をかけるが何の反応もない。どの家も同じだった。
美波は焦り始めた。
十軒、二十軒と美波は同じように家の扉を叩き続けた。
だが、どの家にも誰も居ない。
というより、人が生活しているような気配が全く感じられなかった。
「この村は一体何なの! 誰も居ないじゃ
ない!」
と美波は声に出して文句を言った。
林のそばにある最後の一軒を回り切ったところで、美波は途方に暮れて泣き出した。
美波の期待は完全に裏切られた。
期待が大きかった分だけショックも大きい。
もう心も体もボロボロだ。
緊張の糸も切れた。
朝から何も食べていないのでお腹もペコペコ。完全に疲れ切ってしまい、もうこれ以上動く気力が湧いてこない。
美波は草原にひざまずき声を上げて泣いた。
「神様! 助けてください。何で、何で私がこんな目にあわなきゃいけないの? ウエーン、ウエーン」
と声を張り上げ激しく泣いた。
ママの優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
早くママの所に帰りたい。
◇◇
ひとしきり泣いた後、美波は立ち上がり、
トボトボとさっきの家の方に歩いて行った。
とにかく、その家の中で朝まで夜を明かすしかない。
美波は家のドアの把手に手をかけた。
と、その時だった。
林の中から木の枝が折れる音や葉っぱを擦るような音がする。
[何? クマ?]
美波は反射的に身構えた。
やがて林の中から大きな男の人が現れた。
古代ギリシャ人の様な服装をし、背中に大きなカゴを担いでいる。
その人はゆったりとした白っぽい浴衣のようなものを着て、足には幅の広い革ヒモで編み上げたサンダルを履いている。
月明かりの中で顔はよく見えなかったが、
顎には濃いヒゲをたくわえているようだ。
「美波か?」
とその男の人は言った。
「えっ? パ、パパ? パパなの?」
と美波は言った。
「やっぱり、美波か!」
と言って、その男の人が駆け寄ってきた。
美波は茫然として突っ立ったままだ。
男の人は腰をかがめ、美波の顔を見て頭を撫でた。近くで見るとやっぱりパパだ。
ヒゲも伸びて髪もボサボサだったが、顔も声もパパに間違いない。
美波の瞳から涙の雫がポロポロと地面に落ちた。
「美波、よくここに来れたなー!」
とパパが言った。
「パパ、パパ! エーン、エーン!」
と言って、美波はひざまずいたパパの胸に飛び込み激しく泣いた。
パパも美波を強く抱きしめた。
「心配させて悪かったな。美波、ゴメンな!」
「パパ、パパアー! ウッ、ウッ」
美波はなかなかな泣き止まない。
「美波、ゴメンな、ゴメンな」
と言いながら、パパは美波の背中を何度も撫
でた。しばらくすると、美波もだいぶ落ち着いてきた。
「パパ、何でそんな変な恰好してるの? ウッ、ウッ」
と泣きながら美波が訊いた。
「これか? 話せば長くなる。とにかく、パパの家に行こう。話はそれからだ。パパが今住んでる家は、この林の先にあるんだ」
パパは美波を軽々と抱き上げ、林の中の小径を歩き出した。
美波はパパの首に腕を回してしがみついた。
しばらく見ないうちに、パパは逞しくなったようだ。
パパのおヒゲが美波の顔に当たり、チクチクして痛い。
家に向かう道の途中、美波は赤ちゃんのような気分になり、パパの髪を引っ張ったり、ヒゲを触ったりしていたが、だんだん腹が立ってきた。
そして、パパの胸を拳で叩いたり、パパの顔を小さな手の平で何度も叩いたりした。
パパは何も言わず、ニコニコ顔で美波を見て頬ずりした。
◇◇
パパの胸に揺られて林の中を五分ほど行くと広い草原に出た。先ほどの集落よりもかなり大きな草原だ。
草原の奥の方には大きな神殿があった。
丈の高い石の円柱が何十本も整然と立ち並び、三角形の大きな屋根を支えている。
月光に照らされたその神殿は荘厳な雰囲気をかもし出していた。
神殿の前には長方形の土の地面が縦に長く延びていた。
その先の方には何か石碑のようなものがある。
よく見ると、その長方形の土地に向かって草原全体が緩やかに傾斜しているようだった。
パパの住んでいる家は、その草原の隅っこの方に一軒だけひっそりと建っていた。
だが、集落にあった家々よりも大きくて立派な感じがする。
家の中に入ると、パパは美波を腕から下ろし、台所の熾火からロウソクに火をつけた。
何本もつけて家のあちこちに置き、部屋を明るくする。
それから、美波をテーブルの前の椅子に座らせ、美波の顔をしげしげと眺めた。
「美波、お前よくここまで来たな。偉いぞ」
と言って、美波をまたしばらく抱きしめた。
「パパ、ここどこなの? 私、夢を見てるのかな?」
と美波はパパに聞いた。
「いや、夢じゃない。だけど、ここは普通の世界じゃない。後でゆっくり話すから」
とパパは言って、さっきまで担いでいたカゴの中から、イチジクの実を何個か取り出しテーブルの上に並べた。
「ほら、美波。お腹空いたろ? これ食べろよ」
と言って、美波が食べやすいように実を割って、中身をナイフで取り、木の皿の上に載せてくれた。
お腹ペコペコだった美波はイチジクを手でつまんでむさぼるように食べた。
「この果物、甘くて美味しー!」
と美波は声を上げ、パパが出してくれた大きなイチジクをアッという間に三個も平らげた。
美波がイチジクを食べている間に、パパは鉄鍋から魚のスープを木の器に注いで持って来た。暖かいスープが湯気を立てている。
美波は木製のスプーンを使って、これも一気に平らげた。
魚のうま味が効いた濃厚な味わいのスープだ。オリーブの香りがする。
塩胡椒の加減もちょうどいい。鯛の切り身やニンニク、玉ねぎ、山菜などが入っていた。
「パパ、このスープもすっごく美味しいよ。お代りちょうだい!」
と言って美波は旺盛な食欲をみせた。
美波が食べている間に、パパがお湯で濡らした手拭いで、美波の汚れた顔や手足を拭いてくれた。
美波の体は手脚のあちこちにかすり傷や打ち身の跡があった。
オデコやホッペにも小さなかすり傷がある。
顔の傷はあまり深くなかったので、パパは
ホッとした。
パパは貝殻に入った軟膏のような薬を美波の傷口に丁寧に塗った。
食事も終わり、やっと落ち着いて美波は部屋の中を見回した。
部屋の中にはオレンジ色の熾火が燃える台所や木製のイス、テーブルのほかに、食器棚、タンス、寝椅子、寝台がいくつかあった。
その他、大きな水瓶や、美波が見たこともない様々な道具が置かれていた。
壁には衣類が何着か掛けてあり、その中にはパパがよく着ていた背広や通勤の時に使っていたカバンや革靴もあった。
「あっ、パパの背広だ!」
と美波は指差して喜んだ。
そろそろ、パパから詳しい話を聞きたい。
だが、極度に疲れていた美波は、満腹になったせいか急激に眠くなってきた。
もう目を開けていられない。
止めどなく欠伸が出る。
「パパ、私眠い」
と言ってテーブルにうつ伏せになった。
美波はもう眠くて眠くてフラフラだ。
パパは美波を励ましながら美波が着ていたトレーナーや短パンを脱がせ、子供用の古代ギリシャ服に着がえさせた。
そして、美波を寝台まで抱えて行った。
寝台に寝かせた時は、美波はもう完全に熟睡していた。
パパは美波に毛布をかけ、寝台の横に椅子を持ってきて座った。
美波の顔を見つめ、その小さな手を握って、パパはしばらく寝台の横を動かなかった。