美波、異次元の世界へ行く
十月、パパが居なくなった。
今は実りの秋。
秋晴れの青い空、空気も澄んでいて素晴らしい季節なのに、パパは家に戻らない。
今度の土曜か日曜には、三人で高尾山に
ハイキングに行く約束もしてたのに。
パパが居なくなって、今日で二日目になる。
[どうしたんだろう? こんなことは今まで
一度もなかったのに]
とママは心配した。
パパの携帯は何度電話やメールをしても不通になっている。
大好きなパパが帰ってこないので、
美波も心配している。
◇◇
二日目の夜遅く、美波がママに訊いた。
「ねえママ。パパ何で帰ってこないの?
ねえねえママ。パパどうしちゃったの?
お仕事が忙しいの? ねえママ教えて!
私、パパがいないと寂しい!」
ママは返事に困った。
実はママは今日の昼間、パパの会社に電話
してみた。
すると、パパは一週間ほど前の先月九月末、
会社を退職したとの事だった。
会社との契約が終了したらしい。
ママは唖然とした。
ちょうど、運動会が終わった頃だ。
だがママは、パパが仕事を辞めるなんて何の相談も受けていない。
この一週間、パパには何も変わった様子は
なかったのに。
[じゃあパパは、この一週間、仕事に行く
ふりをしてどこに出かけていたの?]
とママは思った。
ママは静岡のおばあちゃんや、その他の親戚、友人知人にも当ってみたが、パパ
の消息は全くつかめなかった。
美波に余計な心配はさせたくなかった。
[パパは急に仕事が忙しくなって、海外に
出張したとでも言っておこうか]
とママは考えた。
しかし、美波は頭の良い子供だ。
そんなウソは簡単にバレてしまう。
第一、美波が生まれてからというもの、パパ
は美波のそばを一日だって離れたことはなか
った。
どんなに仕事が忙しくても、帰りがちょっと遅くなっただけでも、必ず家に電話を入れ、美波の声を聞きたがった。
いくら仕事が忙しいといっても、何日もパパが美波に連絡してこないなんてあり得ない。
そのことは美波が一番よく分かっている。
ママは正直に話すことにした。
「美波よく聞いて。実はママもね、パパが帰って来ない理由が分からないの。こんなこと初めてだからママも戸惑ってるの。知り合いとか親戚とか、心当たりには全部当たってみたの。静岡のおばあちゃんにもね。でもパパが今どこに居るのか誰も知らないの。何か事件に巻き込まれた可能性も否定できないわ」
と言って少し間を置いた。
「でもね、今日、パパの会社にも電話してみたの。そしたらね、もう一週間ほど前の九月の終わり、ちょうど運動会が終わった頃ね、実はその頃、パパ、会社を辞めたんだって。ママも知らなかったから驚いたわ。じゃあ、パパは帰って来なくなる前の一週間、毎朝どこに行ってたんだろう? ってね。ママは何か事情があるような気がするの。パパが美波やママに連絡できない深い事情がね。だから、パパを信じてもう少し様子を見ましょう」
とママが言った。
「深い事情って何? パパが浮気して、よその女の人とどこかに逃げたってこと? 私、そんなの絶対信じない! パパが美波とママを捨てて他の女の人の所に行っちゃうなんて、私、絶対信じないからね!」
「当り前よ、ママだって信じないわ。あの人はそんなことする人じゃない。そういうことじゃなくて、たぶん私たちが思いもよらないような、全く別の事情があって帰ってこないような気がするの」
「別の事情って何よ! さっきママが言ったように、やっぱり何か事件に巻き込まれたんじゃないの。それしか考えられないわ。パパが今どこかで死にそうになってたらどうするのよ! 早く警察に連絡したほうがいいわ!」
と言って美波は泣き出した。
「パパが帰って来なくなってまだ二日目よ。
それにママはね、パパが仕事を辞めた後に居なくなったっていう点がどうしても引っかかるの。計画的な感じがするし。ただ心配しないで。これだけはハッキリ言える。あの人はあなたと一緒で性格が明るいから、失業したからといって、人生を悲観して自ら命を絶つような人ではないと思うの。だから、その点は安心して良いと思うわ」
と言って、ママは美波の肩に手を置き、
しばらく何か考えていた。
やがて指先で優しく美波の流した涙を拭い、美波の顔を見つめながらこう言った。
「分かったわ、美波。あなたって、やっぱりパパのことが大好きなのね。ママ明日、警察に行ってパパの捜索願を出して来るわ。ママはね、パパが無事に帰って来た時、私たちが大騒ぎし過ぎて、パパが困るといけないと思ったの。だから警察に相談するのはもう少し様子を見てからにしようと思ってた。だけど今あなたと話していて気づかされたの。腑に落ちない点は色々あるけど、事件に巻き込まれた可能性が否定できない以上、一刻も早く警察に捜索願を出すべきだってことにね」
◇◇
三日目の朝、ママは所轄の警察署に行き、
パパの捜索願を届出た。
捜索願は受理されたが、警察はあまり積極的に捜索してくれなかった。
ママが届出書に書いた理由では、
事件性が低いというのだ。
小さな子供が行方不明になるのとは違い、
パパは大人だ。
ママも美波もパパのことが心配で仕方ない。
直ぐにでも警察に捜査を始めてほしかった。
だが警察が公開捜査をしたり、マスコミが呼びかけを行ったりするのは、よほど事件性が高く、時間的に猶予がない場合に限られるらしい。
警察の説明では、パパは、
『一般家出人』
という扱いで、全国の警察署でパパの顔写真や情報が閲覧可能になるらしい。
もしパパが全国のどこかで発見された場合、
『生存連絡』
という報せを直ぐにもらえるそうだ。
警察が思ったより冷たい対応だったので、
ママはガッカリした。
だが、何もしないよりはましだ。
ママはやっぱり捜索願を出して良かったと
思った。
出来ることは何でもやるべきだ。
後は、自分たちで継続して心当たりを探したりパパが帰るのを信じて待つしかない。
◇◇
パパが行方不明になって、もう五日経った。
美波はあれから、毎日のように泣いている。
ルルも最近は全然姿を見せない。
昼間は学校でも毎日ボーッとした顔で、
心ここにあらずといった感じ。
未央ちゃんをはじめ、彩芽ちゃんも、桜ちゃんも、クラスメイトの子たちがみんな美波のことを心配している。
だが、美波は勉強にも遊びにもまるで手がつかない。
最近、食欲もあまりなくなってきた。
夜は自分の部屋で寝ないで、パパのベッドで寝る。パパのベッドは寝室のママのベットの隣にある。
不安なので、なるべくママのそばから離れたくなかった。
ママもパパが居ないので心細いのか、美波が
パパのベッドで寝ることに賛成した。
パパのベッドは懐かしいパパの匂いがする。
思い出すのは、いつも優しかったパパのこと
ばかり。
美波が切った眉毛を見て吹き出したパパの笑顔が目に浮かぶ。一緒に学芸会の練習につき合ってくれたパパ。あの時は、毎晩遅くまでドッタンバッタンうるさくして、二人ともよくママに叱られた。
静岡のおばあちゃんの家で一緒に枕投げした時も怒られた。三保の松原で石投げをした時もママに叱られたっけ。
駅のホーム下に落ちた女性を助けた勇敢な
パパ。あの時は本当に怖かった。
今でも時々、夢でうなされる。
毎朝、寝ぼけ眼をこすりながら、陸上の練習
につき合ってくれたパパ。
[パパ、どこにいるの? 早く帰って来て、
お願い!]
と美波は心の中で叫びながら眠りにつく。
夢の中でパパが美波に言った。
「美波、お前とは何か魂の深いところでつながっているような気がするんだよ」
「じゃあ、パパの居場所を教えて。今どこにいるの? 美波、パパを迎えに行くから!」
と美波は夢の中でパパに言った。
朝起きて、美波の涙で濡れた枕を見ると
ママの胸は痛んだ。
◇◇
パパが居なくなって今日で七日目。
美波の不安は日ごとに増すばかり。
[パパはこのままずっと帰ってこないの?
そんなの絶対に嫌! 神様、パパに会わせ
てください!]
朝起きると、美波はベッドの上で両手を合わせ神様に祈った。
一週間という時間は、子供の美波にはあまりにも長過ぎた。この一週間が一カ月にも二カ月にも感じられる。
もう、心も体も心労でクタクタだ。
このままでは病気になってしまう。
この日は日曜日。
美波は早朝五時半頃に目が覚めた。
ママは隣のベッドでまだ寝ている。
夏場は朝早く起きて、パパと陸上のトレーニングに出かけたのを思い出した。
美波はふと気になって、階段ダッシュをよくやった神社に行ってみようと思った。
ママを起こさないようにそっと寝室を出る。
青いトレーナと紺の短パン、ピンクのジョギングシューズをはいて外に出た。
玄関の外で久しぶりにルルが待っていた。
前足を行儀よくキチンとそろえて座って
いる。
「うわー、ルル、久しぶりね」
と言って、美波はルルの頭を撫でた。
「ミャー」
とルルは甘え声を出した。
「お前も一緒に来る?」
と美波は訊いた。
◇◇
もう日が昇り始めていて、だいぶ明るくなって来ている。
空気が新鮮で気持ち良い。
美波はルルと一緒に歩いて神社に向かった。
神社は家から二十分ほど歩いた所にある。
トレーニングの時は、美波はジョギング、
パパは自転車で美波の後について行く。
だから、神社までは十分もかからない。
でも今日は歩いてゆっくり神社に向かった。
最近は心労からか、体に全然力が入らなか
った。
やっぱりパパが居ないと、走る元気も湧いて来ない。
しばらくすると、神社の入り口にある石の
鳥居の前に着いた。
早朝なので誰も人がいない。
もともとこの神社には参拝客がほとんどいなかった。
樹木が生い茂った、小高い山の上にある古い神社だ。幅の狭い急な石段が頂上の境内まで続いている。
境内といってもそれほど広くない。
せいぜい二十メートル四方くらいだ。
奥に古い小さな社殿があり、その前にさい銭箱が置かれ、大きな鈴がぶら下がっている。
周囲は森林で、沢山の樹木が植わっている。
歴史は古そうだが、誰が管理しているのかもよく分からない。
夕方になると時々、高校の野球部や柔道部などの部員たちが来て、階段を使ったトレーニングをやっている。
ここの階段は勾配がキツく、石段の数も多いのでトレーニングには最適だった。
美波の脚の筋肉が異常に発達したのも、この階段でトレーニングを積んだおかげだ。
久しぶりに来たので、美波は嬉しくなって
階段を駆け上がった。
だが、最近は全く走ってなかったので途中で息が切れた。ルルも駆け出し、美波を抜いて先に階段を上がって行った。
◇◇
社殿の前に着くと、美波は柏手を打って鈴を鳴らし、神様にお願いした。
「神様! パパを無事に帰してください。
お願いします、どうかお願いします!」
と小さく呟きながら、目を閉じて手を合わせ、美波は一心不乱にお祈りした。
たぶん、十分くらいはそうしてたんじゃないかな。ルルも美波の脚に体を寄せてあまり動かなかった。
お祈りが終わると、美波は神様に一礼して振り返り、もと来た道をルルと一緒に帰ろうとした。
階段の降り口の手前まで来た時だった。
後ろの方で、何か音がする。
[何だろう?]
美波は後ろを振り向いた。
だが、誰もいない。
でも社殿の後ろの方から、誰かが雅楽を演奏しているような音がかすかに聞こえて来る。
[神社の裏の森で、誰か楽器の練習でもしてるのかな?]
と美波は思った。
ルルが、
「ニャー!」
と警戒の声を上げた。
◇◇
美波は恐る恐る社殿の裏手に回ってみた。
ルルも美波について来る。
裏手には誰もいない。
だが、雅楽の音はまだ聞こえて来る。
さっきよりも少しハッキリ聞こえるようになった。森の奥の方から聞こえて来る。
美波は怖かったが、森の中を恐る恐る、音楽が聞こえて来る方に向かって、ルルと一緒に進んで行った。
森の中は樹木がたくさん生い茂っていて、
見通しが悪かった。
あまり先の方まで見えない。
枯れ枝を踏みながら、人が通れそうな場所を
選んで進んだ。
転ばないように注意しながら、
美波は少しずつ進んで行く。
美波が進むにつれて、雅楽の音がだんだん
大きくハッキリ聞こえるようになって来た。
またそれとともに、なぜか白い霧のような
ものがあたり一帯を包みだした。
進むにつれて、それがだんだん濃くなって
来る。
[何よ、ちょっと待ってよ。さっきまで晴れ
てたのに、何で霧が出てくるのよ!]
と美波は心の中で文句を言った。
それでも美波は音楽が聞こえる方に向かって、しばらく森の中を進んだが、もう先の
方まで見渡せないほど霧が濃くなって来た。
美波は怖くなった。
[もうこんなの無理、冗談じゃないわ。
やっぱ帰ろう]
と美波は思った。
雅楽を演奏している者を探すのを諦め、
もと来た道を引き返す。
しかし、その時にはもう一メートル先も見えないほど霧が濃くなっていた。
そこら中、真っ白だ。
まるでミルクの中を進んでるみたい。
美波は両手を前に伸ばして、障害物を避けながら、もと来た道を少しずつ引き返した。
ルルも、美波の脚にピッタリと、自分の体を
くっ付けながら進んでいる。
美波の手足や顔、着ている服も、ルルの体も霧の湿気でグッショリ濡れている。
なぜか今は雅楽の音がピタリと止んでいる。
数メートルほど引き返した時だった。
「ニギャアアーー!」
とルルがいきなり声を上げ、濃霧の中を脱兎のごとく逃げて行く。
美波の前方に、灰色の渦巻きの様なものが見えた。
濃密な白い霧の中に、それは突然現れた。
始めはテニスボール程度の大きさだったが、物凄い速さで渦巻きながら、だんだんバスケットボールくらいの大きさになった。
周囲の白い霧を吸収しながら、
その球体は大きくなっている様だ。
だんだん霧が晴れて視界が開け、
周囲の樹木がハッキリ見えて来た。
樹木の間から朝日が顔を出し、木洩れ日となって美波の体を照らした。
灰色の渦巻きは、今では直径一メートルほど
の球体になっている。
球体の中では灰色の霧のような渦巻きが、
だんだん真っ暗に変化してきた。
球体の中では所々で小さな雷が起きている。
真っ黒な霧が渦巻く球体の中で、
プラズマがスパークしていた。
「な、何なのコレ?」
と美波は呟こうとした。
だが、声が出ない。
美波の体は金縛りに合った様に動かない。
直立したまま手足も顔も動かせないし、
声も出せない。
宙に浮かんだその謎の球体からは、
『ブーン』
と唸るような低い音が出ている。
その音を聞いているうちに、美波は耳鳴りがして来た。
耐えられないほどの凄い耳鳴りだ。
[もう、何なの? この耳鳴りは]
と美波は思った。
すると、美波の体がブルブルと揺れ出した。
[地震だ! 早く逃げなきゃ!]
と美波は心の中で叫んだが、体は依然として金縛りから抜け出せない。
震度七から八くらいはありそうな、
大きな地震だった。
だが、おかしなことに周囲の樹木は揺れていない。
美波は目だけを動かして、周囲を見回してみたが、地面の草木も、全く揺れている様子がなかった。
どうも揺れているのは美波自身だけらしい。
美波の体の中にある、美波の透明なもう一つの体が揺れていることに、美波は気づいた。
[ど、どうなってるのコレ?]
と美波は不安にかられた。
すると、その透明な美波の体が、美波の元の体からフワリと抜け出し、宙に浮かんだ。
美波の意識は、その透明な体の方にある。
その体はフワフワ漂って、美波の意思の力では全くコントロールできない。
まるで、ヒモの切れた風船のように、美波のその体は空中をフワフワ揺れながら、あの謎の球体に引き寄せられていく。
[このままじゃいけない! あのボールに呑み込まれたら、私死んじゃう!]
と美波は心の中で叫んだ。
美波の宙に浮かんだ体は、もう球体の目前まで迫っている。
このままでは、本当に呑み込まれてしまう。
その時、美波は渾身の力を振り絞って叫
んだ。
「うおおおー! チックショーこのー!」
美波の大声が、森全体にこだました。
次の瞬間、美波の透明な体はアッという間に
美波の元の体に戻った。
手足も自由に動く、声も出る。
美波は素早く後ろを振り向き、駆け出した。
こうなったら、早くあの不気味な球体から
出来るだけ遠くまで逃げるしかない。
早く家に帰って、ママの胸に飛び込みたい。
だが、枯れ枝や灌木が邪魔になり、
上手く走れない。
木立も多く、なかなか美波の俊足が発揮できなかった。
後ろからは、あの変な球体が、
『ブーン』
と唸りながら追いかけて来る。
美波が後ろを振り返る。
次の瞬間、枯れ木に足を取られて美波は転んでしまった。
仰向にひっくり返ると、その不気味な球体が美波の真上二メートルのところに来てピタリと静止した。
すると、美波の体が宙に浮き、その球体に
徐々に引き寄せられて行った。
「もう止めて! 助けて!」
と美波がもがきながら叫ぶ。
次の瞬間、美波の体はその球体に頭から
呑み込まれてしまった。
「きゃーママー! 助けてーパパー!」
美波は絶叫した。
薄れゆく意識の中で、自分の体が回転しながら、黒い渦巻きの中に呑み込まれて行くのを美波は感じた。
ルルは社殿の裏の物陰で震えながら、
その光景を見ていた。