美波、パパと一緒に駅で人を助ける
七月、梅雨も明け、今年も暑い夏がやって
来た。
美波はパパと毎朝練習を続けている。
美波はいつも早起きだ。
だって、早く起きると近所の瀬田さんの家の猫に会えるから。
瀬田さんの家は二軒隣にあってすごく大きい。初老のご夫婦だけど、お孫さんがいないので、美波を本当の孫のように可愛がってくれた。
瀬田さんの猫はルルといって、毛並みの良いグレーの猫だ。触ると気持ちいい。
瞳は金色で、真ん中の黒眼が大きくなったり小さくなったりする。
美波はルルと大の仲良し。
ルルは気が向くと美波の家に遊びに来て、玄関の前で行儀よく座って待っている。
美波が早起きになったのはルルのおかげ。
だけど、気まぐれな猫なので、何日も来ない時がある。そんな時は寂しくてガッカリだけど、美波は毎朝玄関に出てルルが居ないか確かめるのが習慣だった。
ルルが居ないか確かめた後、美波は寝坊助なパパを起こしに行く。
「パパ、早く起きて! 練習行くよ」
と美波は元気な声でパパを起こす。
毎朝、朝食前に一時間ほど、近くの神社の階段をダッシュしたり、学校の傍の緩やかな坂道でスタートやダッシュの練習を繰り返すのが日課。
もちろん、パパは年なので、自転車で美波の後について来てコーチするだけ。
ルルが気まぐれでついて来る時もあり、そういう時は嬉しくて、美波は練習に力が入る。
土日や雨の日は休養日。
◇◇
美波も夏休みに入ったある日、美波の足の速さが役に立つ事件が起きた。
その日は土曜日で、ママは休日出勤で朝から会社に出かけた。
練習は休みなので、パパは十一時頃リビングに起きて来た。
「パパ、いつまで寝てるの? 今日はお休みなんだから、美波とどこかに遊びに行こうよ。ねえ、豊島園連れてってよ、もうプール開放してるから。美波あそこの超長いスライダーに乗りたい」
と美波が言った。
パパは寝ぼけ眼をこすりながら、
「はい、分かりました、お頭!」
とおどけた。
「何それ、馬鹿ね!」
と美波が笑う。
昼食を食べてから豊島園に二人で行くことにした。もっとも、パパには朝食だったけど。
◇◇
地元の駅に着くと、暑くて暑くて二人とも汗びっしょり。
真夏のお昼時ということもあり、夏休みの土曜日にしては駅に人影はまばらだった。
パパは美波と手をつなぎ、水着やタオル、うき袋などの入ったスポーツバッグを肩にかけ、駅のホームをのんびり歩いていた。
暑いので、二人ともTシャツに短パン姿で、ビーチサンダルを履いている。
ホーム中ごろに冷房の効いた待合室があった。五人ほどお客がいたが、二人は乗り換えの便利を考えて、乗り換える駅の出口が近い、ホームの先端の方まで歩いて行った。
駅はホームの先端が先細りになっていて、転落防止壁もない旧式の駅だった。
二人の前をホームの先端に向かって、ハイヒールを履いたジーンズに赤いTシャツ姿の若い女の人が歩いていた。
体調が悪いのか、足取りがフラフラしていて危なっかしかった。
歩きながらハンドバッグから何か取り出そうとしている。
すると突然、その女の人が何か化粧品のような物を落とした。そして、それを拾おうとしゃがんだ次の瞬間、その女性はバランスを崩し、アッという間にホーム下に転落してしまった。
美波とパパは呆然としてその様子を見ていたが、どうして良いか分からない。
とりあえず、急いで近くに駆け寄り、パパが、
「大丈夫ですか?」
とホーム下の転落した女性に声をかけた。
美波は驚いて、目を丸くしてその女性をじっと見ている。
しかし、女性は頭を打ったらしく、意識も朦朧とした様子で線路上に横たわり、
「ウーン」
と呻きながら、手足を弱々しく動かしているだけだ。
パパはとにかく駅員を呼ぼうと思い、歩いてきた方向を振り返ってみたが、駅員は誰もいない。駅事務所はこちらのホームと反対側の改札口付近なのでかなり距離がある。
「まいったなー、美波、ちょっとこれ頼む」
と言って、パパは荷物を美波に渡し、ホーム下に飛び降りた。
パパはカッコよく女性をお姫様抱っこして、ホームに持ち上げるつもりだったけど、女性はびくとも動かない。
それほど大柄な女性ではなかったが、気絶した女性を持ち上げるなんて、五十過ぎの男一人では無理だということに、パパはようやく気がついた。
何とか転がして、ホームの下の隙間まで避難するのが精一杯だ。
でも、それもなかなか上手くいかない。
ぐったりして動かなくなった女性の体は軟体動物のようにクネクネして、とても重い。
「よいしょ! よいしょ!」
と言いながら、パパは悪戦苦闘した。汗がダラダラ流れてきて、手も滑るし、パパが着てる服もグッショリだ。ホームの上からは美波が、
「パパ大丈夫? お願い、早くして! 電車来ちゃうよ!」
と手を揉みしだき、サンダルをパッタンパッタンいわせて飛び跳ねながら、涙声で叫んでいる。その時、
『間もなく、二番線を電車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください』
とアナウンスが流れた。
もうすぐ急行電車がこの駅を通過する。
あともう少しで、パパは女性を線路わきまで移動できそうだったけど、間に合うかどうか分からない。
パパは慌てて周囲を見回した。
でも、ホームには美波以外に誰も居ない。
パパは美波に早口でこう言った。
「美波! あそこに非常停止ボタンがあるだろう!」
と電車が来る方角のホーム上の柱を指さし、
「あれを押してきてくれ! 柱についている黄色い箱だ! あの赤いボタンを押せば、電車が止まる、早く頼む!」
と大声で言った。
美波はパパの指さす方向を見て、
「分かった、あれね!」
と指さして、素早くサンダルを脱ぎ捨てると、次の瞬間、疾風のように駆け出した。
速い、速い、まるでつむじ風のように駆けて行く。
「うおおー!」
と甲高い声で叫んでいる。
四十メートルくらいの距離があった。
美波は必死だった。
生まれてこのかたこんなに全速力で走ったことはない。
[早くしないとパパが死んじゃう! パパ、パパ、お願い、死なないで!」
と美波は心の中で叫んでいた。黄色いボックスの二メートルほど手前で、美波は、
「おりゃ!」
と言ってジャンプした。
まるで跳び箱でも飛ぶような感じで、大きく両手を前に突き出し、右の手の平で赤いボタンを思いっきり叩いた。
そして、跳び箱を飛んだ後のようなポーズで両手を広げて地面に着地した。
パパがそこまで見届けた時、ちょうど百メートルほど先のカーブを曲がった電車が近づいて来るのが見えた。
パパは最後の力を振り絞り、何とか女性をホーム下のスペースまで移動させ、電車の通過に備えて、自分も女性の近くに身を伏せた。
『ギギイーー、ガタン、ガタン、キイイーー!』
という電車のブレーキ音があたり一面に鳴り響いた。電車は減速しながら進み、パパと女の人の数メートル手前で止まった。
電車が停止すると、パパは恐る恐る顔を上げた。三メートルほど手前に電車は停まっていたが、間近で見上げる電車は、まるで巨大な怪物のようだった。
パパが立ち上がると、ホーム上には駅員を含め、かなりの人が集まって来ていた。パパが駅員に手を貸してもらいホームに上がると、美波は泣きじゃくりながらパパの腕の中に飛び込んだ。
パパが助かった安堵感と、さっきまでの恐怖心が入り混じり、パパのお腹の辺りに顔を押しつけて、
「パパ、パパ」
と言いながら、大声で激しく泣いた。
◇◇
その後、女の人は担架で救急車に乗せられ病院に運ばれて行った。
ホームには人だかりができ、駅の外にはパトカーが来るわ、救急車は来るわで大騒ぎになった。後日、パパが警察の人から聞いた話では、あの時、女性は前の晩から朝までお酒を飲み過ぎ、泥酔状態でホーム下に転落したらしい。
頭を打って気絶していたのではなく、実は気持ちよくグーグー寝ていたのだそうだ。
転落した後のことは全く覚えていないらしい。二、三日で退院し、今は元気に生活しているとのことだった。
お礼の連絡も何も無かったが、元気にしていると聞いて、美波もパパもとても喜んだ。
さて、女性が担架で運ばれた後、パパと美波は駅事務所で一時間ほど事情聴取を受けた。
転落事故が起きた時の状況や、女性の様子、二人がとった行動など、いろいろなことを細かく聞かれた。
美波はホッとして疲れが出たのか、駅事務所のクーラーも気持ち良かったので、事情聴取の途中で寝てしまった。
今は泣き止んで、二人並んだソファの上でパパの肩のあたりに頭をもたれてスヤスヤ眠っている。
事情聴取中、美波は駅長さんから、
「お嬢ちゃん、偉かったねー」
と何度も褒められた。
だけど、事情聴取が終わると、意外にもパパは駅長さんから叱られた。
「お父さん、良いお嬢さんを持って幸せですね。ですが、一つだけ私に言わせて下さい」
と駅長さんは切り出した。
「あなたがとった行動で、確かにあの女性の命は助かりました。人命救助という尊い行為だと私も思います。しかし、冷静になってよく考えてみて下さい。とっさにホーム下に飛び降りるという行動がどんなに危険なことか」
人命救助をして、まさか苦情を言われると思っていなかったパパは、少し驚いた様子で黙っていたが、
「どういうことでしょうか?」
と言って、駅長さんの次の言葉を待った。
「私はこう思います。あなたは女性が転落したのを目撃した直後、まず最初に非常停止ボタンを押すべきでした。そして、次に駅員を呼ぶべきです。そうすれは、あなたは頭を打って倒れている人を無理に動かさずにすんだ。また、お嬢さんをあんなに心配させることもなく、あなた自身も危険に身をさらす必要はなかったはずです。考えても見て下さい。もしあの時、お嬢さんがあなたを手伝いにホーム下に降りて来ていたら今頃どうなっていたと思いますか? あの女性だけでなく、あなたも、お嬢さんも含めて三人とも命を落としていたかもしれないんですよ」
と駅長さんは言った。
その言葉を聞いたパパはゾッとした。
確かに駅長さんの言う通りだ。
パパは愕然として、見る間に顔が青ざめていった。電車が近づいてきた時の恐怖が脳裏によみがえる。
パパは今更ながら身震いを禁じ得なかった。
駅長さんは続けて言った。
「しかも、お嬢さんが一生懸命走って押してくれた非常停止ボタンは、転落現場から一番遠いボタンだったんですよ。電車が来た方向と反対側をよく見れば、五メートルほど先にもう一つ非常停止ボタンがあるのを確認できたはずです。当社は四十メートル間隔で非常停止ボタンを設置していますので」
その言葉を聞いて、パパは目が点になった。
あの時、パパは電車が来る方向ばかり気にしていて、後ろを見る余裕がなかった。
[そういえば、確かにホームの先端の方にも非常停止ボタンがあったような気がする]
とパパはホームの情景を思い浮かべながら思った。そして、額に手を当て首を振った。
パパは自分の迂闊さが嫌になった。
「でも、まあ今日はとにかく無事にすんで良かった。これからは、軽はずみにホーム下に飛び降りたりせずに、危険を感じたら、まず非常停止ボタンを押すように心がけてください。ホーム下に降りるのは勇気ではなくて、無責任で無謀な行為だということをよく覚えておいて下さい」
と駅長さんは言った。そして、
「ちょっと、今日は私も言い過ぎましたかな? いや、すみません。気を悪くされたらお許しください。それにしても可愛いお嬢さんですね」
と言って、寝ている美波の顔を見て笑った。
「いえ、考えてみれば確かに仰るとおりです。大変勉強になりました。以後、気をつけます」
と言って、パパは頭を下げた。
その後、二人は家に帰ることにした。
もうプールどころの気分ではない。
美波も目を覚まし、
「私、家に帰りたい。もう疲れた」
と言った。
駅事務所を出ると、警察の人がわざわざパトカーで家まで送ってくれた。
家に着くと、玄関先でルルが待っていた。
疲れて帰ってきた二人を見て、心配そうに、
「ニャーオ」
と声を出して近づいて来た。
美波はルルを抱き上げ、
「ルル、ただいま。今日ね、大変なことがあったんだよ」
と言ってルルに頬ずりした。
◇◇
夜、ママが仕事から帰ってきた。
美波はとても疲れていたので、夕飯を食べた後、一階に降りて先に寝てしまっていた。
パパは今日一日の出来事の一部始終を、ママに詳しく話して聞かせた。
ママは驚き、真っ青になって話を聞いていたが、話を聞き終わるとこう言った。
「それは駅長さんの仰るとおりね。とにかく、二人とも無事で良かった。これからは、パパも軽率な行動はしないでね。パパが元気なのは私たちも嬉しいけど、もう五十過ぎたでしょう? 美波のためにも、私のためにも長生きしてね」
と言ってパパの手を握った。