美波、陸上の練習を開始する
六月に入りしばらく経つと、美波の風邪も
すっかり完治した。
今は梅雨の季節。
学芸会が終わった後、美波は千秋ちゃんから熱心に劇団入りを勧められた。
でも美波は、
「私、劇団でやっていく自信がないの。
ゴメンなさい」
と言って断った。
千秋ちゃんはとても残念がったが、例のサバサバした調子でアッサリ諦めてくれた。
「そっかー、でも美波なら、絶対やっていけると思うけどな。だけど本人がやる気にならなきゃ無理に勧めても仕方ないしね。じゃあもしやる気になったら、いつでも私に声かけてね」
と言ってくれた。
◇◇
六月後半になると、美波はパパと一緒に毎朝
運動会に向けてトレーニングを開始した。
保育園の頃は男の子とサッカーばかりして遊ぶだけで、陸上の練習なんてしたことがなかった。でも小学校に上がってからは、運動会の三カ月前になると陸上の練習をすることにパパと決めていた。
「私、足の速さだけは誰にも負けたくないの。だからパパ、私に陸上教えて。明日から一緒に練習しよ」
と美波が言い出したのは、三年前の小学一年の時。ちょうど今と同じ季節、運動会の三カ月前だった。
「パパは若いころ野球はやってたけど、陸上はやったことないぞ」
とパパが言った。
「ええーっ、もう、大人なんだから何だって教えられるでしょ!」
と美波が怒る。
「大人だからって、何でも知ってるわけじゃないよ。困ったなー」
と言って、パパはしばらく考えていたが、
「じゃあ、陸上クラブでも探してみるか?
パパもお前は足が速いけど、走り方が変だから一度専門家の指導を受けた方が良いと思ってたんだ」
と提案した。
「えっ、本当? やったー!」
と美波は喜んだ。
ところが、パパがいざネットで調べてみると、なかなか近所に適当な陸上クラブが見つからなかった。
一番近いクラブまで電車で二時間近くかかる。これじゃあ通うのが大変だ。
結局、パパがネットや本で陸上の指導法を調べて美波に教えることになった。
「美波、お前は足の回転は素晴らしいけど、腕の振りがよくないな。右腕はよく振れてるけど、左腕があまり振れてない。それに顔もアゴが上がり過ぎだ。もっとアゴを引いて、両腕を同じくらい均等に振らないとダメだ。太モモはもっと高く上げた方が良いな」
とパパが初めて指導した時に言った。
「えっ、そう? 分かった。やってみる」
と美波は言って、最初のうちは素直に言うことを聞いていた。
パパの指導に従って腕振りや腿上げ、フォームを良くするための反復練習を熱心に繰り返した。
でも走る姿勢は、なかなか変わらない。
意識して走っている時は良かったが、全力疾走になると、また悪いフォームに逆戻り。
一進一退だった。
そして、しばらく経つと、
「もういい! 美波は自分の走りたいように走るから!」
と短気を起こし、パパの言うことを全く聞かなくなった。
パパは仕方なく、基礎体力を高めるトレーニングに比重を置くことにした。
坂道ダッシュや階段ダッシュ、スタートの練習を重点に訓練した。
「パパ、私こっちの方が、モモ上げや腕振りの練習より楽しい!」
と言って美波は喜んだ。
パパは美波に美しいフォームを身につけてほしかったが、美波の脚力にまだ上半身の力が追いついていなかった。
たしかに美波の身体は、ふくらはぎや太モモの筋肉は、普通の子供より格段に発達していた。でも、上半身はひょろりとして痩せていた。だから、足の回転の速さに腕の振りがついていけず、アンバランスなフォームになる。苦しくてアゴも上がってしまう。
[もっと、身体が成長するまでは、無理にフォームを矯正させない方が良いな。そうしないと、美波の素晴らしい脚力が台無しになるかもしれない]
とパパは考え直した。
それから今年で四年目になる。今年もまた、美波とパパのトレーニングが始まった。
特に今年は、グレースちゃんという強力なライバルが出現したので、美波の練習にも一段と力が入る。
グレースちゃんは、お父さんがアフリカ系アメリカ人で、お母さんが日本人のハーフの女の子だ。今年四月に神奈川から親子三人で越してきた。日本語も英語もペラペラ。
性格も明るく成績も抜群。
美波と同じで、アッという間にクラスの人気者になった。五月の学芸会では第三幕で主役を演じている。
神奈川では陸上クラブに入っていて、大きな大会にも出たことがあるそうだ。
黒人特有のバネのきいた身のこなしとリズム感を持っていて、長い手足をしている。
チリチリにパーマのかかった、腰まで届きそうな長い髪は、後ろで無造作に束ねている。
目が大きくて、肌の色は黒いというよりも褐色だった。笑うと真っ白な歯がこぼれて、とてもチャーミング。一三五センチの美波より七センチほど背も高い。
今も週二回はお父さんの車で送ってもらい、神奈川の陸上クラブに通っているそうだ。
美波とは気が合うのか、クラスは違うがすぐに仲良しになった。
今は時間が合えば一緒に登下校する仲だ。
だけど、お互いに気を使って、あまり陸上の話はしない。
一度だけ、グレースちゃんが美波に訊いたことがある。
「美波ちゃんて、どうしてあんな走り方で速く走れるの? 気を悪くしたらごめんね。私、昼休みに美波ちゃんが校庭を走ってるところを見たことあるけど、凄いと思ったの」
「えー、分かんない。パパからもフォームを直すように言われたんだけど、私、どうしても綺麗なフォームで走れないの。小さいころからのクセが抜けないの。逆に訊くけど、グレースちゃんはどうして、走り方が綺麗なの? 私の方こそ不思議よ」
と美波も訊いた。
美波も以前、校庭でグレースちゃんの走りを見たことがあり、脅威を感じていた。
「私も分かんない。陸上クラブに小一の時から行ってるからかな。美波ちゃんは陸上クラブ入らないの? 速いのにもったいないよ。
美波ちゃんだったら、全国大会出れるのに」
とグレースちゃんは言った。
「うーん、以前、パパと検討したんだけどね。とりあえず、今はパパと二人で基礎体力のトレーニングだけしようって決めたの。階段ダッシュとかね。もう少し体が成長してからでも遅くないってパパが言ってた」
「ふーん、そうなの」
二人ともそれ以上、突っ込んだ話はしなかった。
でも、美波は負けず嫌いだ。
「私、足の速さだけは誰にも負けたくないの。グレースちゃんにもね!」
と美波はパパが仕事から帰ると言った。