美波、学芸会で奮闘する
五月になると、学芸会の準備が始まった。
新緑が眩しい季節。
美波の小学校は音楽に力を入れているユニークな学校で、毎年十一月に音楽祭、二年おきに五月祭として学芸会が開催される。
ちなみに、運動会は毎年九月。
美波は主人公役に選ばれて大喜び。
主人公といっても四人いて、全体の四幕を一人一幕ずつ演じるのだが、美波は第四幕
の一番重要な役を任された。
「ママ、私ね、最初はオーディションで別の役を希望したの。主人公に魔法の力を与える妖精の役。そしたら、村神先生がね、美波さんは主人公の海賊役をやりなさい。あなたにピッタリよって言うのよ。セリフが複雑で長いから、少し大変なんだけどね。村神先生に頼まれたら嫌とは言えないじゃない。だから私、引き受けることにしたの」
と言って、毎日パパを相手に猛特訓。
仕事から帰ったパパを夜遅くまで独り占め。
パパも仕事で疲れてたけど、
「美波のためなら仕方ない」
と言って、とことんつき合った。
◇◇
「パパ、ダメじゃない、そこはもっと感情入れないと、セリフ棒読みよ。さあもう一回やってみて」
と美波が怒る。
『お頭! 命だけはお助けください。故郷で年老いた両親が待っているんです。俺は今
ここで死ぬわけにはいかねえんです』
と今度は、パパが大げさに床に跪いてセリフを言う。
「パパ、その調子。だいぶ良くなったよ。
じゃあ今度は私の番ね」
と続けて、
『仕方がねえなあ。今度俺様の命令に逆らったら、二度と故郷に帰れないと思え。分かったか!』
と自分のセリフを大声で言う。
こんな調子で、美波がまるで演出家みたいに毎晩遅くまで、延々と練習を繰り返すので、パパは最後には、どちらが特訓されているのか訳が分からなくなった。
おまけに、いつも最後の仕上げにホウキを剣に見立て、戦闘シーンの練習を繰り返す。
ドッタンバッタンうるさくて、さすがに一階で先に寝ていたママも度々起きて来て、
「もう遅いから、いい加減にしなさい!」
と二人を叱るのだった。
◇◇
こうして三週間、毎日特訓し、セリフも演技も完璧になった頃、美波が熱を出した。
学芸会の二日前だった。
美波が朝からボーッとして元気がないので、
ママが美波の額に手を当てた。
とても熱い。
顔も赤く、声もガラガラ、咳もひどい。
体温計で計ってみると三八・七度もある。
ママは急きょ仕事を休んで、近所の病院に
美波を連れて行った。
お医者さんは、ただの風邪だが、二、三日
安静にしているように言った。
薬をもらい、美波はその日学校を休んだ。
◇◇
「学芸会、無理かもしれないわね」
家に帰ってから、ママが美波に言った。
「そんなの嫌! 私、絶対学芸会出るからね。今日だってリハーサルがあったのに、みんなに迷惑かけちゃった。悔しい、私、明日ぜったい学校行くからね、ゲホゲホ」
咳をしながら、美波は言い張って聞かない。
担任の村神先生が心配して、夜、家に電話をかけてきた。
村神先生は若い女の先生だ。
電話をとったママはしばらく先生と話し込んでいたが、電話を切ると美波にこう言った。
「村神先生がね、美波はこれまでよく頑張ってくれたって。みんなをまとめて色んな演出上のアイデアも出してくれて、みんなをここまで引っ張って来てくれたって。みんな美波に感謝してるし、だれも美波を責める人はいないって。でもね、美波が肺炎にでもなったらいけないから無理しないでって。難しい役だから代役は六年生に頼むそうよ。その子、劇団に通ってる子でね、美波と同じ役を一度やったことあるんだって。だから心配しないでゆっくり休んで、早く風邪を治して、また元気に学校に来てねって先生言ってたわよ」
それを聞いて美波は泣き出した。
頭から布団をかぶって、時々咳き込みながら大声でワーワー泣いた。
◇◇
次の日は、パパが仕事を休んで美波を看病
した。
パパはおかゆを作ったり、氷枕を取りかえたりして、いろいろと美波の世話をやいたが、美波は布団にくるまって、あまり口をきかなかった。
夕方近くになって一言だけこう言った。
「パパごめんね。あんなに練習したのに、
こんなことになっちゃって」
「いいんだよ美波、パパこの三週間楽しかったよ。そりゃあパパだって、美波の晴れ姿を見たかったけど、仕方ないさ。また次の二年後にリベンジしよう」
「うん」
美波は小さな声で頷いた。
◇◇
次の日は土曜日で学芸会当日。
パパもママも仕事は休み。
美波も学芸会は欠席だ。
「今日は久し振りに、ビデオ屋さんで映画でも借りて来て、三人でゆっくり観ようか?」
朝起きると、パパが提案した。
だけど、美波はどうしても学校に行くと言い出した。
「ねえ、パパ、ママ。私を学芸会に連れて行って。ほら熱も下がったよ」
と言って、体温計を見せる。
三六・五度、確かに平熱だ。
「私、声ガラガラだから、どうせお芝居できないけど、みんなが頑張っているところを、この目に焼きつけておきたいんだ」
「観るだけだったらいいけど、かえって悔しくならない?」
とママが訊いた。
「うん、大丈夫。代役の六年生の人の演技も、ぜひ参考に見ておきたいの」
「じゃあ、しょうがないわね」
と言ってママが同意し、三人で学芸会を見に行くことになった。
◇◇
四年生の出番の時間帯を見計らって、
三人で出かけた。
学校に着くと、体育館の外で出番待ちしていたクラスの子たちが美波を目ざとく見つけ、
「美波!」
と言って、駆け寄って来た。
みんな口々に、
「美波、風邪大丈夫?」
「やったー! 美波、来てくれたんだー!
嬉しい!」
「美波、会いたかったよ!」
などと声をかけながら、あっという間に大勢の生徒たちが美波を取り囲んだ。
未央ちゃんや彩芽ちゃん、桜ちゃんたちは、美波をハグしたり、肩をたたいたり、腕をつかんだり、もう押しくら饅頭の様にもみくちゃになった。
あまりの人気ぶりに、パパもママも唖然としながら見守っていた。
海賊の衣装を着た代役の六年生の女の子も
美波に近づいてきた。
「あなたが有名な超特急の美波ちゃんね。
私、六年二組の千秋。よろしくね」
とその女の子は言った。
サバサバした気さくな感じの生徒だ。
六年生なのでさすがに大きい。
「四年一組の美波です、よろしく。今日は
代役を引き受けてくれてありがとう」
と美波があいさつする。
すると、千秋ちゃんはこう言った。
「ふーん、あなた声出るじゃない。少しガラガラだけど、海賊役だから、ちょうどいいんじゃない? ねえねえ、こういうのどうかな? あなたの咳が止まらなくなったら、私が直ぐ代わってあげる。『美波さんは風邪をひいているので、私が交代します』と言って出てってあげる。だから今日は、練習の積りで気楽に演ってみない?」
「本当に?」
と美波が目を輝かせた。
「当り前よ。これまで、みんなと一緒に頑張って練習してきたんでしょ? 私、劇団やってるから、今のあなたの気持ち良く分かる。それに私だってあなたの演技見てみたいもん。メッチャ上手いって、みんなから聞いたよ。どう、演ってみる?」
「うん、私、やってみます!」
と言って、美波がパパとママの方を見る。
こうなってはパパとママもお手上げだ、
仕方なく頷くしかなかった。
横で成り行きを見守っていた担任の村神先生がパパとママに笑顔でお辞儀をし、
「じゃあ、決まりね。もう直ぐ出番だから、
美波さん、向こうで衣装に着替えなさい」
と言った。すると、
「やったー!」
「美波、頑張ろうね!」
「美波ファイト!」
などと、みんなから歓声が上がった。
◇◇
舞台の幕が上がる。
パパもママも、美波がしくじったらどうしようと、気が気じゃなかった。
二人とも観客席に並んで座り、緊張した面持ちで芝居を観賞した。
舞台は笑いあり、涙あり、アクションありの
息もつかせぬ展開で、一幕、二幕、三幕と、
順調に進行していった。
小学生の演劇にしては、音響も照明も、
舞台の飾りつけも素晴らしかった。
そして第四幕、いよいよ美波の登場だ。
美波は自信に満ち溢れ、堂々と落ち着いて
役を演じた。
美波の演技は冴えわたり、とても迫力が
あった。
昨日まで寝込んでいたのに、あの小さな体のどこから、こんな凄いエネルギーが出て来るのだろうと、パパもママも驚いた。
風邪をひいているとは思えないほど、声は大きく張りがあった。
若干かすれた様な声を出す場面もあったが、セリフが聞き取れないほどではなかった。
千秋がちゃんが言った通り、そのかすれ声が海賊らしくて、かえってプラスの効果をかもし出していた。
パパもママもハラハラしながら、舞台を見守
った。
でも不思議なことに、家であれだけ咳き込ん
でいた美波が、舞台の上では、まだ一度も咳
をしていない。
だが、後半の重要な場面で、美波はとうとう咳の発作に襲われた。
剣を振り上げたまま美波は動かない。
[どうしたんだろう? セリフを忘れてしまったのだろうか?]
とパパとママは心配した。
二人の席は前列の右端の方で、左端の舞台袖から心配そうに美波を見守る千秋ちゃんの姿が見えた。
四~五秒は間が空いた。
どうやら、美波はこみ上げてくる咳を必死で我慢しているようだ。
美波は目を閉じて下を向き、
息を止めた。
そして呼吸を整え、次のセリフを言おうとした瞬間、とうとう咳が出た。
剣を持ったまま両手を膝につき、
「ゴホン、ゴホン、ゲホ、ゲホ」
と咳き込んだ。
観衆は固唾をのんで見守っている。
舞台袖の千秋ちゃんが、交代するために舞台に出ていこうか、迷っている様子が見えた。
ところが一瞬咳が治まった隙に、美波は前を向いて立ち上がり、剣を片手に両手を広げ、
『うおおおー!』
と叫んだ。
そして、
『ちくしょう! 俺様は風邪を引いちまっ
たぜ!』
と大声で言った。
すると、会場からドッと笑い声が起こった。
美波の苦し紛れのアドリブだ。
だが美波の突然のアドリブに、家来役の子たちも、妖精役の子たちも反応できない。
無理もない。
アドリブの練習なんて、してこなかったんだ
から。
でも、千秋ちゃんだけが、美波のアドリブに即座に反応した。
『お頭! 咳大丈夫ですか!』
と舞台袖から鋭く声をかける。
『ああ、俺様は大丈夫だ・・・』
と言って、美波がまた咳き込み始める。
すると、家来役の彩芽ちゃんや桜ちゃん、
妖精役の未央ちゃんまでもが、
『お頭! 大丈夫ですか!』
と口々に叫びながら美波に駆け寄り、美波の背中をなでたり、腕をつかんで美波を支えたりし始めた。
もう、演技なんて関係ない。
みんな美波のことが心配で、われ先に美波のところに駆けつけたんだ。
パパもこらえきれず、
「美波、がんばれ!」
と叫んだ。
美波が咳をしながらパパとママの方を見る。
「美波、しっかり!」
とママも叫んだ。
すると会場のいたる所から、
「がんばれ!」
「負けるな!」
と声が飛んだ。
そして、会場全体から自然に手拍子がわき起こった。
その手拍子は一、二分続いた。
既に、舞台のBGMも一時ストップして
いる。
その間に、美波の咳の発作はようやく治まったようだった。
今はみんなにニコニコ笑顔を向けながら、
呼吸を整えている。
手拍子が静かになると、千秋ちゃんの指示で
みんなそれぞれ自分の定位置に戻った。
音楽が流れはじめる。
美波が咳き込み始める前のセリフから、
芝居が再開した。
その後、美波は激しく咳き込むこともなく、
徐々に自分のペースを取り戻して行った。
美波が少し苦しそうに息を止めたり、
少しだけ咳をしたりする度に、
「美波ちゃん、がんばれ!」
と会場から温かい声援が飛んだ。
元のペースを完全に取り戻した美波の迫真の演技に、会場内はシーンと静まり返った。
そしてついに、美波は千秋ちゃんと交代することなく、最後まで芝居を演じきった。
美波が最後のセリフを言い終わり、エンディングを迎えると、小学校の学芸会にはめずらしく、観客はスタンディングオベーションで拍手喝采し、子供たちの健闘を讃えた。
興奮して、
「ブラボー、ブラボー!」
と叫ぶ保護者までいたほどだった。
「あの子って、頑張り屋ね」
ママが瞳を潤ませながら呟いた。
「そうだな」
パパも声を詰まらせながら頷いた。