美波、異次元の扉に挑む
時計の針が夜の十時半を回った。
「そろそろ、行くか」
とパパが言った。
「了解!」
と美波が元気よく答える。
二人は羽織っていた古代ギリシャ服を
脱いで、いつもの服装になった。
美波は青いトレーナーに紺の短パンと
ピンクのジョギングシューズ。
髪はポニーテールだ。
濃い眉毛がキリッとして勇ましい。
黒い瞳がいたずらそうに、
今日もキラキラ輝いている。
パパは走りやすい古代ギリシャの
戦士服だ。
幅広の革で編み上げたいつものサンダルを
履ている。
サンダルといっても草鞋のように、踵から足首、脛の辺りまで、ピッタリ密着しているので走りやすい。
パパは先日、美波から髪を切ってもらったので、元の世界にいた頃の様に小ざっぱりしていた。最近は髭も毎日剃っている。
表に出ると、満月はかなり上の方まで登っていた。
◇◇
パパは土のコースの方から、かがり火を点けていった。
「私もやりたい、やりたい!」
と言って、美波はパパを手伝った。
パパに抱えてもらい、高い位置にある
かがり火の燃料に松明から火を移す。
次に、二人は神殿のかがり火と松明
にも火を点けた。
神殿の円柱には、松明を差し込む金属製の
容器が各所に設置されていた。
特にゼウス像の左右には、かがり火専用の
大きな石の台座があった。
全て灯し終わると、夜の闇に神殿が浮かび上がった。
外から見ると、神秘的でとても綺麗だ。
作業が終わると、十一時少し前だった。
◇◇
時計の針が十一時を回ると、二人はゼウス像の前で黙々とウォーミングアップを始めた。
入念に準備体操をして、足首やヒザ、腰、
手首、肘、肩、首など体の関節をよくほ
ぐす。
その後は、ストレッチに移って体の筋や腱、筋肉をよく伸ばす。
人間の体は、いきなり百メートルを全力疾走
できないようになっている。
無理にやろうと思えば、出来ないことはないだろう。
でも、それは怪我のもとだし、決っして良いパフォーマンスは期待できない。
イチロー選手があれほど入念に、いつも
準備体操やストレッチをやっているのは、
そういう人間の体の仕組みをよく知って
いるからなんだ。
ストレッチが終わると、二人はゼウス像の前に跪き、しばらくお祈りした。
[ゼウス様、どうか私たち親子をお守りください。お願いします!]
と美波は心の中で呟いた。
お祈りを済ますと、二人はゼウス像に
一礼し、神殿を出た。
◇◇
神殿の外に出ると、土のコースの周りを軽くジョギングする。
それが終わると、今度はコース内で三十メートル走を二、三本、七〇パーセントくらいの力で走って、状態を確かめる。
[なかなかいい感じ、体も軽いわ]
と美波は思った。
その頃になると、海の向こうからクリオネ
たちが縦一列に並んで空中を飛んで来た。
パパが言った通り、本当にクリオネそっくりの光だ。
いや、光を発して飛ぶクリオネに似た不思議な動物だと言った方が良いかも。
「クイーン、クイン、クイーン、クイン」
とみんな小さな可愛い声で鳴いている。
「わー可愛い! パパの言った通りね!」
と美波が嬉しそうに声を上げた。
クリオネたちは整列して神殿の前の美波たちのところまで来ると、列を乱し、勝手気ままに、そこらじゅうを飛び回り始めた。
近くに来た一匹をパパが捕まえた。
パパはクリオネの足を掴んで笑っている。
そのクリオネは、
「クウイークイック、クイック、クウイー
クイック、クイック」
と困ったような声を出し、手足をバタつかせてパパの手から逃れようとしている。
パパは直ぐに手を離した。
「美波、お前もやってみろ、面白いぞ」
とニコニコしながらパパが言った。
美波も自分の近くに来た一匹を捕まえた。
マシュマロみたいに柔らかい。
クリオネは美波の手から逃れようと、
「クウイークイック、クイック、クウイー
クイック、クイック」
とさっきみたいに鳴きながら、手足をバタバタ動かしている。
まるで生きている風船のようだ。
美波は可哀そうになって、直ぐに放して
あげた。
「うわー超可愛いー! 家に連れて帰りたいわ!」
と美波が言った。
◇◇
本番まで十五分を切った頃だった。
二人がスタートラインの前で、軽くジャンプしたり、手足をブラブラ動かしながら、体をほぐしていた時だ。
海の向こうの方で、稲光が起きるのが見えた。
夜空の遠くの方に、白い稲妻が走っている。
かすかに雷鳴が聞こえる。
雲の動きが激しくなり、満月が陰り始めた。
星のまたたきも弱まり、辺りは少し闇が
濃くなって来たようだ。
何だか空気も重くなり、急にムシムシ
して来た。
「どうなってるの? 嵐が来るのかな?」
不安気に美波が訊いた。
「ああ、どうもそうらしいな。でも、まだ嵐は遠くにいるようだから、後十五分くらいは保つだろう」
パパが呑気そうに言った。
◇◇
だが十分前になると、かなり嵐が近づいて
来た。
稲光と雷鳴の間隔も短くなって来る。
美波も不安そうに、パパの顔を伺う。
この時パパは、めまぐるしく頭を働かせ、色々と考えた。
[あと十分後に嵐が来たら、今日は中止にするか。だけど待てよ、この嵐でまた水位が異常に上がったらどうなる? そうなれば美波も俺もアウトになるかもしれない。ここはイチかバチか行くしかないか。だが最愛の我が子が雷に打たれたらどうする? ママに対しても責任が取れるのか? でも雷は高いところに落ちる。落ちるとしたら神殿や樹木に落ちるだろう。あと五分待ってから結論を出そう]
パパは瞬時に判断した。
「美波、五分前にここが嵐の中に入ったら、今日は中止にしよう。そして今日は神殿の
中に入ってあの扉が開くのを二人で観察し
よう。でも、もし五分前になってもまだ雷
が遠くて、雨も降らないようだったら行くぞ。分かったか?」
とパパが言った。
「うん、分かった。美波、パパの言う通りにするよ」
美波が緊張した顔で答える。
◇◇
五分前。
少し風が出てきたが、まだ嵐は遠い。
さっきより湿度が上がってかなりムシムシして来たが、まだ雨は降っていない。
クリオネたちが異次元の扉の前に移動して
行った。
今は扉の周囲を自由に飛び回っている。
周囲はかなり闇が濃くなった。
[かがり火を準備しておいて良かった]
とパパ思った。
「美波、行くぞ。後五分であの扉が開く。扉の向こうにママが待ってると思って全力で走るんだ。でも、これまでの練習の成果を生かすんだぞ。それから、何が起きても驚くな。もし近くに雷が落ちてもな。前だけを向いて走るんだ。分かったか?」
とパパが言った。
「分かったよ、パパ。美波、精一杯やってみるから。パパも諦めないで私に付いて来てね。もしかしたら、神風みたいな追い風が吹くかもしれないでしょう?」
と美波が言った。
「おお、それもそうだな! 美波お前、
かなり冷静だな。パパ、安心したよ」
と言って、パパはニッコリ笑った。
◇◇
三分前。
突然、村の背後の山で雷鳴が鳴り響いた。
稲妻の青い光で辺りが少し明るくなる。
『ドーン、ゴロゴロゴロ!』
雨が、ポツポツ振り出した。
だが、ここまで来たらもう後には引け
ない。
[ここはもう、イチかバチか行くしか
ない!]
とパパは思った。
「美波、怖がるな。雷なんか気にしないで前を向いて走れ。練習したことを忘れるなよ。冷静に落ち着いてイメージ通りの走りをするんだ。さあ、もうすぐ扉が開くぞ。超特急の実力をゼウス様に見せてやれ!」
とパパが言った。
「うん、分かった! パパも絶対ついて
来てね!」
「ああ、もちろんだ!」
とパパが答える。
◇◇
一分前。
二人はスタートラインの前で、ジャンプしたり、手足を振って体をほぐす。
三十秒前。
二人はスタートラインに並んだ。
大きく深呼吸。
十秒前。
二人はスタンディングスタートの構えをと
った。
やがてクリオネの動きが、空中でピタリ
と止まった。
パパは心の中で数をかぞえる。
[イチ、ニ、サン]
異次元の扉から、金色の光が縦に細長く漏れた。
「行け!」
パパが鋭く言った。
「うおおおー!」
美波は例の甲高く、小気味の良い雄叫びを
上げながら、スタートを切った。
◇◇
スタートを切った直後、真後ろの神殿に雷が落ちた。
『バッチーン、ドッカーン! ゴロゴロ
ゴロゴロ!』
物凄い雷鳴だ。
辺りも一瞬、昼間のように明るくなった。
雨も少し強くなる。
だが、そんなことを気にしている余裕は、
今の二人にはない。
美波は物凄いスピードでパパの前を駆けて
行く。
速い、速い、まるで飛ぶような速さだ。
運のいことに追い風だ。
風速三メートル。
雨もそう激しくない。
パパはゼウス様に感謝した。
五十メートルを過ぎた辺りで、美波は完全に
トップスピードに乗った。
後はこのスピードを維持するだけだ。
十メートル遅れてパパも美波の後に続く。
コース中盤を抜ける時、両側に並んだかがり火に次々と雷が落ちた。
美波は白い稲妻が落ちて来る少し先を走って行く。
まるで雷と競争してるみたいだ。
後から続くパパには、雷で裂けた丸太の木片や火の粉が降りかかる。
パパは美波の後から、雷が落ちる真っただ中を走ってたんだ。
ツーンときな臭いにおいが鼻を突く。
体は感電してビリビリするわ、目は眩むわで大変だった。
だけど、ふとゴール付近を見ると、ルルが扉の前で飛び跳ねながら、美波とパパが来るのを待っている。
パパは嬉しくなった。
美波は追い風の助けもあり、かなり速い
タイムで走っている。
美波が八十メートルを過ぎた辺りで、
パパは勝利を確信した。
たぶん十二秒台前半、いや十一秒台に届く
かもしれないとパパは思った。
扉はまだかなり開いていて余裕がある。
パパは美波の後方、約二十メートル辺りを
フラフラになって走りながら、自分のこと
など忘れてガッツポーズ。
[やったぞ! 美波、やっぱりお前は凄い。さすが俺の娘だ!]
とパパは心の中で思った。
扉の幅、約一メートルの余裕を残し、美波は
金色の淡い光に包まれた異次元の扉の向こう
側に消えて行った。
と、思った瞬間。
美波の右手が、右側の扉の窪んだ取っ手に
かかっているのにパパは気づいた。
ルルは扉の前で飛び跳ねながら、
パパが来るのを待っている。
次の瞬間、驚くべき事が起こった。
何と!
美波が右側の扉の窪みに両手でつかまり、
こちら側に戻って来たんだ。
[馬鹿! 美波、何やってるんだ!」
パパは心の中で叫ぶ。
扉の向こう側は真空みたいだった。
美波の体は、扉を駆け抜けた瞬間、
空中にフワリと浮かんだ。
物凄いスピードで走って来たため、
かなり扉の向こう側に体が流された。
でも扉の先は無重力で、まるでプール
の中で水泳でもしているような感じ。
美波は扉にかけた右手に左手を添え、
オール漕ぎで鍛えた腕力で、グイと
自分の体を引き戻した。
美波は六十メートル過ぎた辺りで、
実はある夢を見てたんだ。
トップスピードに乗った瞬間、美波はパパ
よりも早く勝利を確信した。
練習を積んだおかげで、考えなくても体が
勝手に動いてくれる。
自分で自分の動きを止めようとしても、
止められない。
足がリズムよく、勝手に前に出るんだ。
[このまま行けば、私あの扉を越えられる。
ママに会える。でもパパをこの世界に一人だ
け残して行っていいの?]
トップスピードで駆けながら、
美波は一瞬のうちに自問自答した。
その時、美波の脳裏にある幻影が浮かんだ。
よく晴れた夜、神殿の前に大勢の村人たちが集まっている。
ヤギや羊もたくさんいる。
満月が神殿の真上にさしかかった。
村人たちの声援を受け、一人の少女が物凄いスピードで異次元の扉に向かって駆けて行く。
その少女は戦士服を着ていた。
豊かな栗色の長い髪をなびかせて
走って行く。
その後を、戦士服を着た屈強な男たちが追いかけて行く。
村人たちの声援が一段と大きくなった。
その少女は、異次元の扉に真っ先に
とりついた。
続いて、一人の大柄な男が少女に少し遅れて
扉にとりついた。
二人は左右に分かれて両手で扉の淵を持ち扉が閉まるのを必死で抑えている。
数秒遅れて、後に続いて来た大勢の男たちが
扉にとりついた。
最初に扉に取りついた男が、他の屈強な男た
ちに色々と指示を出している。
つっかえ棒にするのだろうか、丸太を抱えた
男たちもいる。
[もしかして、あれはパパ?]
と美波は思う。
パパとは肌や瞳の色も違い、体格も今の
パパより大きかったが、呑気そうで優し
い雰囲気がパパにそっくりだ。
「じゃあ、あの少女は私?」
その少女は今の美波より数歳年上の感じだ。
背も高く、肌と瞳の色も違ったが、キリッと
した意志的な眉毛と、いたずらそうに輝く瞳
が美波にそっくりだ。
丸太と、大勢の男たちの力で抑えられた
異次元の扉を、村人たちが次々に通り抜
けて行く。
老人や女たち、小さな子供も沢山いる。
ヤギや羊も後に続いた。
言葉にすると長いけど、美波はこの幻影を
一瞬のうちに見てしまった。
[そうだ、私もやってみよう!]
そして、美波は扉を駆け抜ける瞬間に、
扉の淵に手をかけたんだ。
美波は今、扉の隙間に体を入れ、左側の扉に
ピッタリと背中を押しつけている。
両足は反対側の扉に突っ張って、
扉が閉まるのを必死で抑えている。
扉の動きが一瞬止まった。
だが、扉は徐々に狭まって来る。
今は六十センチあるかないかだ。
「うおおおー!」
と美波が雄叫びを上げた。
もう顔が真っ赤だ。
ルルも心配そうに、美波を下から見上げて
いる。
扉まで残り十五メートルに迫ったパパは、
[美波、止めろ! 扉に押しつぶされ
るぞ!]
と心の中で叫んだ。
だが美波は、渾身の力を振り絞り、
ドアに足を踏ん張っている。
力を入れ過ぎて、両脚がブルブル震えて
いる。
「パパあーー!」
と叫んで美波がパパの方を見た。
パパは覚悟を決めた。
残り五メートルまで近づくと、パパは
イチロー選手のスーパーキャッチのよ
うに、美波に向かって、頭から大きく
ジャーーーンプ!
イチロー選手のように華麗ではなかったが、パパは空中で手足をバタつかせながら、何とか美波の腰の辺りと両脚を、しっかりと抱え込んだ。
すかさず美波が、パパの首に腕を回してしがみつく。
ルルは素早くパパの背中に飛び乗った。
後方で、
『ゴゴオオーーン!』
と扉が閉まる大きな音がした。
◇◇
美波は今、パパにお姫様抱っこされ、金色の淡い光の中を飛行している。
パパはスーパーマンの様に空を飛んでいる。
パパの肩越しに、ルルが美波の顔を覗き込んだ。
パパも美波の顔を見て笑う。
「大丈夫ですか? お頭!」
とパパが言った。
「もう馬鹿ね! パパ遅すぎ!」
と言って、美波も笑った。
ルルも、
「ニャーオ!」
と嬉しそうに声を上げた。
その直後だった。
後ろで雷鳴が鳴り響いた。
振り向くと、金色の空間に浮かんだ異次元の扉に、ゼウス様の武器である雷霆の様な物が、斜め上からガツンと突き刺さった。
その瞬間、
『ドッカーーーーン!』
という物凄い爆発音がして、異次元の扉は
粉々に吹っ飛んだ。
二人と一匹も、爆風に飲み込まれ、前方のまばゆい光の中に吸い込まれて行った。
「うわあーーーっ!」
という悲鳴を残して。
◇◇
気がつくと、二人は草原の中に寝ていた。
最初に気がついたのは美波の方だ。
目を開けると、ルルが美波のお腹の上に乗っていた。
きちんと前足をそろえ、心配そうに美波の顔を伺っている。
「あっ、ルル! 無事だったのね!」
と言って、美波はルルの頭を撫でた。
日の光が眩しくて、慣れるまでしばらく時間がかかった。
やがて、隣で寝ていたパパも目を覚ました。
パパも眩しそうに目を細めている。
「あーよく寝た。ここはどこだ? 天国か?」
とパパが言った。
二人が横たわっているのは芝生の上だ。
緑の芝生が、どこまでも果てしなく続い
ている。
「ちょっと待って、パパ。私、ここ見覚え
ある! ねえ、見て見てパパ、あれ!」
と言って美波が遠くの方を指さした。
草原の奥の方に建物が見える。
さらにその先には、たくさんの墓石が並んでいるのが小さく見えた。
「パパ、ここおじいちゃんのお墓がある霊園
じゃない?」
と美波が言った。
「そうだな、確かに似てる」
とパパが言った。
二人は起き上がって後ろを振り向いた。
すると、霊園をとり囲む森林の向こうに雄大
な富士山が見えた。
「おおー富士山だ! 美波、間違いない! ここはおじいちゃんのお墓がある日本平の霊園だ!」
とパパが言った。
「やっぱりそうね。やった、やった! 私たち
元の世界に戻ったんだわ!」
と美波が飛び跳ねて喜ぶ。
「そうだな、俺たち、元の世界に戻ったようだな! やったな美波、ありがとう! 全てお前のおかげだ!」
と言うと、パパは美波を抱き上げ飛び跳
ねた。
そして、グルグル回りながら美波と一緒
に大喜び。
ルルも二人の周りを飛び跳ねながら駆け
回った。
◇◇
二人はその後、おじいちゃんのお墓にお参りした。
「おじいちゃん、ありがとう。おじいちゃん
がパパと美波を、呼び戻してくれたのね」
美波はおじいちゃんのお墓の前で、手を合わせた。
おじいちゃんの優しい笑顔が目に浮かぶ。
それから二人は、おばあちゃんの家に
行った。
◇◇
玄関に出て来たおばあちゃんは、パパの
古代ギリシャ服を見て、しばらくポカン
と口を開けていたが、美波を見ると急い
で駆け寄って来た。
おばあちゃんは、腰を抜かしたように両膝をついて、美波の小さな体を抱きしめた。
「美波ちゃん、無事だったんだねえー!
良かったよう。ママもおばあちゃんも、
えらい心配してたんだよー! 本当に良
かったよう!」
おばあちゃんは、目に涙を一杯に溜めて言った。
「おばあちゃん、心配かけてゴメンね!
美波、パパを連れ戻して来たよ!」
美波はおばあちゃんの胸に顔をうずめて、
しばらく泣いた。
◇◇
パパはおばあちゃんの家で電話を借りて、 ママに直ぐ電話した。
「ママ! パパだけど、今、おばあちゃんの
家に居る。美波も一緒だ。二人とも無事だか
ら心配しないでくれ!」
とパパが電話口で言った。
ママは電話の向こうで息を飲み、
しばらく声が出ない。
やがて震える声でこう言った。
「良かった。美波も無事なのね?」
とママが訊いた。
「ああ、二人とも元気だ。いま美波と
代わる」
パパが言って、受話器を美波に渡す。
「ママ、美波だよ! 心配させてゴメン!
何も言わないで家を出て本当にゴメンね!
えっ、うん、大丈夫だよ。美波ケガとか
全然してないよ。うん、大丈夫。えっ?
えっとね、ちょっとパパと異次元の世界
で陸上のトレーニングしてたんだ。本当
だよ! ママ、信じてくれないの? えっ?
大丈夫だよー、嘘じゃないよ。そうねえ、
話せば長くなるんだ。東京に帰ってから、
ゆっくり話すね。だからママ、もう心配
しないでね!」
美波が元気よく話している。
ママは美波の声を聞いて、
安心したようだった。
「美波、あなたたちがどこに居たのかよく分
からないけど、とにかく無事で良かったわ。
本当に良かった。ああ、神様ありがとうございます!」
と言って、ママは電話口で泣いた。
その後、美波はまたパパと電話を代わった。
二人はしばらく色々と話していた。
ママは、今から直ぐ静岡まで迎えに来ると
言ってきかなかった。
「大丈夫だ。今日は二人とも一生懸命走り過ぎて疲れてるから、今日はおばあちゃんの家に一泊してゆっくり休むよ。明日の朝、新幹線で東京に帰るから、ママは家で待っててくれ。ママも疲れてるだろ? 警察の人たちに
もそう言っといてくれないか」
と、パパが電話口で言っている。
ママの話によると、今日は十月十七日で、
パパが居なくなって十日目。
美波が居なくなって三日目のお昼過ぎだ
そうだ。
ママは美波が居なくなった日の夜、
直ぐに警察に捜索願を出していた。
美波はまだ小さい子供なので、
『特異行方不明者』
として、今日は警察が公開捜査に踏み切る
直前だった。
夕方のニュースで、マスコミが呼びかけを行う直前だったらしい。
「分かったわ。私、今からすぐ警察に電話
する」
と言って、ママは電話を切った。
◇◇
それから、二人はゆっくりお風呂に入って
疲れを癒した。
人見知りの激しいルルも、おばあちゃんには直ぐになついた。
「ニャーニャー」
声を出し、おばあちゃんにまとわりついて離れない。
おばあちゃんからカツオ節をもらうと、
大喜びで縁側に行って食べ出した。
◇◇
夕食の時、二人はおばあちゃんに、
異次元の世界の話をした。
おばあちゃんは最初、半信半疑で首をひねっ
て聞いていたが、二人が嘘をついている様子
は全くなかった。
真っ黒に日焼けした二人の顔と、ハンガーにかけて、鴨居に吊り下げた古代ギリシャ服を見くらべながら、おばあちゃんはこう言った。
「不思議なこともあるもんだねえ。昔はよく『神隠し』と言って、小さな子供が突然居なくなってねえ。しばらくすると、またどこからか、ひょっこり帰って来たりしたもんだ。たぶん、それと似たようなことだろうなあ」
と言って、二人の話を信じてくれた。
◇◇
二人は早めに床に入った。
久しぶりのお布団だ。
シーツがサラサラして気持ち良かった。
「うわー、気持ちいい!」
美波は何度もシーツに頬ずりした。
◇◇
翌朝、おばあちゃんが静岡駅の新幹線の
ホームまで、見送りについて来てくれた。
東京駅に着くと、今度はママがホームで
待っていた。
新幹線が停車する前に、美波は目ざとく
ママを見つけた。
ドアが開くと人波をぬって、物凄い速さで
駆けて行ってママに飛びついた。
ママは少しよろけながら美波を抱きしめ、
美波の顔に何度もキスをした。
パパはおじいちゃんの昔の背広を借りて着て
いたが、サイズが小さくてツンツルテンの変
な格好だ。
靴もおじいちゃんの革靴が小さ過ぎたので、
靴下は履いていたが、例のサンダルだった。
それでも、古代ギリシャ服を着て街中を歩くよりはましだ。
右手にはルルを入れたバスッケトをぶら下げてホームに立っている。
ママはパパの姿を見て少し笑ったが、
美波を抱いたままパパに近づいて来た。
「あなた、お帰り」
と言って、ママは瞳からハラハラと涙をこぼ
した。
パパは照れ笑いを浮かべながら、
「ただいま!」
と言って二人を抱きしめた。
周囲の人たちが驚いて、三人を見ていた。