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美波は超特急~異次元の扉を駆け抜けた少女~  作者: 宇目 観月(うめ みづき)
12/15

美波、予期せぬ事態に動揺する


こうして二人は日々トレーニングにはげんだ。

 

三日に一度は完全かんぜん休養きゅうよう


あまり無理し過ぎても筋肉は強くならない。

かならず休養日を入れて疲労ひろうを取らないと筋肉は逆に委縮いしゅくして細くなってしまう。



休養日は二人で漁に出たり、山でイチジクや山菜さんさいったりした。


村の外れにある畑ではブドウやスイカを採った。それをあの滝ツボでやす。


滝ツボでは魚をったり、

水浴みずあびをしたりして遊んだ。


美波はパパと水かけごっこをし、

キャーキャー言って、大はしゃぎ。



遊びが終わると川原かわら焚火たきびをし、川魚かわざかなくしし、塩焼しおやきにして食べた。


冷やしたブドウやスイカも美味おいしかった。


ある時は遠出とおでして、

山道をずいぶん歩いた。


山道は石で舗装ほそうされていなかったが、

地面は固くかわいていて歩きやすい。


すると、大きな湖に出た。


緑に囲まれた綺麗な湖で、空の青と白い雲、森の緑が湖面こめんの水にえ、まるで絵にいたように美しい。


「うわー、ここ綺麗! こんな素敵すてきな場所があったのね。何でもっと早く連れて来てくれなかったのよ!」


と美波はパパに文句を言った。


湖には丸太で出来た小さな桟橋さんばしがあり、小舟がいくつかつないであった。

湖の周りには所どころにくいが何本も立っている。小舟で杭を周り、以前パパが仕掛けておいた筒状つつじょうの長いかごを小舟に引き上げると、中には大きなウナギが入っていた。


「何それ? ヘ、ヘビ! ぎゃあー怖い!

や、 止めて! 近づけないでー!」


と美波は悲鳴を上げた。


「ハハハ、違うよ美波、これはウナギだ。うまいんだぞー。せいがつくからお前に食べさせようと思ってな。いくらトレーニングをやっても、栄養えいようがある物をちゃんと食べないと、意味がないんだ」


と笑いながらパパが言った。


パパは仕掛しかけもって何匹なんびきり上げ、いつもの大きな籠に入れた。

 

家に帰って、獲ってきたウナギを食べるとっぺたが落ちそうなほど美味しかった。


パパがウナギをさばいて表面にハチミツをってかば焼きにしてくれたから。


焼いてる時も油がジュウジュウほのおの中にしたたり落ちて、よだれが出そうだった。


塩と胡椒こしょうを少しだけまぶして味付けした。


それでも素材がいいので、充分じゅうぶん美味おいしかった。でも美波は、


「お醤油しょうゆがあれば、甘辛あまからダレにしてもっと美味しかったのに!」


と言ってくやしがった。



◇◇



村のカマドでパンも焼いた。


カマドにパン生地きじを入れ、二人はカマドの前の木のベンチに腰かけた。


二人はしブドウを食べながらパンが焼き上がるのを待つ。


パンを焼くにはカマドの中の温度がとても重要らしい。パパは時々、火の加減かげんを注意深く見ながら、まきを入れたり出したりした。


そして、この島に来て直ぐの頃の話をして

くれた。



「パパが三カ月前、初めてこの村に来た時は、家のかぎが全部()いてるから不思議に思ったよ。家の中はどの家もきれいに片付かたづいてて、火打石ひうちいしなどの火を起こす道具やロウソク、まき衣類いるい寝具しんぐ、オリーブオイル、はちみつ、塩コショウなどの調味料ちょうみりょう、ハーブティーや小麦粉こむぎこ、薬草や軟膏なんこうなど、生活に必要なものがキチンと容器ようき補充ほじゅうされてて、どうぞ使ってくださいと言わんばかりの状態じょうたいだったんだ。最初は家の中の物を勝手に使ったら、そのうちに帰ってきた村人からしかられるんじゃないかとビクビクしてたよ。だけど一カ月経ってもだれもどって来ない。そして、あの異次元の扉が開いたのを見た時、パパはすべてを理解したんだ。ああ、そうか、村人たちはこの扉から出て行ったんだ。だから、自分たちが出て行った後に、もし誰かがこの島に来た時、こまらないようにしくれたんだと、パパは感じたんだ。それからは、何でもがねねなく使わせてもらってるんだ」


とパパが言った。


「へえーっ、そうなんだ。優しい人たちだね。だけど、何でみんな一斉いっせいにこの島を出て行っちゃったのかな? こんなに素敵すてきな島なのに」


と美波が言った。


「それは、パパにも分からないなぞだな。あの海の中の円柱えんちゅうと何か関係があるかもな。あの外側の世界は明らかに変だからな。漁に出る時もあの向こう側には絶対ぜったいに出ないように気をつけてる。おそらく村人たちもここが本来の自分たちの世界ではなかったんじゃないかな。たぶん、自分たちの意思いしはんして、この島に迷い込んだんじゃないかと思ってる」


「そうね、私もそう思うわ。あーあ、古代ギリシャ文字が読めたらなあ、何か分かるかもしれないのに!」


「そうだな。家のかべにもいろいろ落書らくがきのようなものがあるけど、あの文字はパパにも読めない。ローマ字に似てるけど、英語じゃないみたいだし。だけど、この島にもし危険きけんせまってるとしたら、俺たちも早くあの扉から逃げた方がよさそうだな」


とパパが言った。


「うん、そうね。私、頑張る。早くママに会いたいもん。ママ今頃、絶対心配してるよ。早くママに会って安心させてあげなゃ!」


と美波が言った。



◇◇



二週間目、最後の練習の時、二人はまた

タイムを計った。


二人のタイムは伸び悩んだ。


美波は十三・二秒。

パパは十四・七秒。


二人とも、ぎゃくもどり。


「チックショウ! 何で? あんなに練習したのに!」


と美波はくやしがった。


でもパパは、平然へいぜんとしてこう言った。


「美波、大丈夫だ。気にするな。俺たちは今疲いまつかれがピークにきている。パパは今回もっとタイムが落ちるかと思ってたけど、これくらいならまだいい方だ。来週になれば疲労ひろうが抜けて体も軽くなり、たぶん逆にタイムはもっとね上がるはずだ」



◇◇



三週目、パパの予想通り、二人のタイムは

跳ね上がった。


美波は十二・八秒。

パパは十四・三秒。


「美波やったな! お前初めて十三秒切っ

たぞ!」


とパパが興奮して、美波に腕時計を見せる。


パパの腕時計をのぞんだ美波は、


「えっ? あっ本当だ! やった、やった、

やったあー!」


と両手をてんき上げ、

飛び跳ねておおよろこび。


「あと〇・三秒(ちぢ)めれば、来週の満月の夜にはママに会えるぞ! 小学校四年生で十三秒切るなんて、お前はヤッパリすごい。さすがパパの娘だ!」


とパパも美波の手をにぎり、

二人で飛び跳ねて喜んだ。



◇◇



四週目に入ると、二人は朝の練習時間を少しずつ午後にずらしていった。


午後のトレーニングの時間もじょ(じょ)に夜にずらす。


神殿の真上まうえに満月がしかかるのは、真夜中のちょうど十二時(ごろ)だったから。



練習内容も、疲れすぎないように思い切って変更へんこうした。


美波は目標もくひょうのタイムまであと〇・三秒のところまでせまっている。


この一週間は、あまり体に負荷ふかをかけ過ぎず、コンディション調整ちょうせい主眼しゅがんいた練習に切りえた。


階段ダッシュの本数を思いっ切りらした。


海側のせまい階段は毎日一、二本程度(ていど)、あの長い階段も一日一本におさえた。


ストレッチの時間をやし、土のコースでのぜん力走りょくそうも毎日一、二本にとどめた。


スタートの練習や、腕ふり、腕立て、ハードルを使った練習も軽めだ。


練習の時間も、今までの半分くらいに短く

なった。


「私、もっとたくさん練習したい!」


と美波はゴネたが、パパは、


「その走りたい気持ちを本番で爆発させろ!」


と美波のはやる気持ちを抑えた。


パパは美波の体に疲労ひろう蓄積ちくせきされるのをけたんだ。



食生活しょくせいかつにも気をくばった。


消化しょうかいように、油ものを避け、ウナギやタイなどの魚はなるべくして食べる。


鍋料理を増やし、タイの切り身や伊勢エビ、イカ、タコ、小魚などと一緒に山菜をたくさ

ん入れて食べた。



オリーブオイルもあまり使わず、パンもスープにひたしてやわらかくしてから食べる。


なかをこわさないように、果物くだものは冷やさず常温じょうおんで食べた。


夜食は鍋の残りのスープで煮込んだパンがゆだ。



◇◇



パパは昼間の空いた時間に、かがり火の準備をした。


満月の夜は明るいけど、コースの中盤が少し暗くて見にくいことをパパはこれまでの経験

で知っていた。


かがり火に使う道具は神殿の裏の倉庫にたくさんあった。


松明もいっぱい積んである。


かがり火は、細長い丸太の棒を三本組み

合わせ、三脚のようにして地面に立てる。


その上に鉄製の大きなカゴを乗せ、松脂まつやにのたくさんついた木片もくへんを一杯入れて燃やす。



当日は、かがり火を土のコースの中盤ちゅうばんに平行して並べる予定だ。


等間隔で三個ずつ並べ明るくするつもりだ。


煙や火の粉が風に飛ばされて美波にかかると

いけないので数は少な目だ。



ゴール地点は、扉から淡い金色の光が漏れて

くるし、クリオネたちも飛び回っているので

割と明るい。


スタート地点の神殿の中にもかがり火や松明

を灯し、明るくするつもりだ。


特にゼウス様の前にはたくさんのかがり火を

燃やして、この儀式を盛り上げようとパパは

計画したんだ。

 

こうして二人は満月の夜の本番に向けて、着々と準備を進めていった。


ところが本番の三日前、予期よきせぬ事態じたいが起きた。



◇◇



その日は朝から曇り空で、午前中の練習を終

えた頃、雨がポツポツと降り出した。


空を見上げ、パパが言った。


「そろそろ、嵐が来るな。この島には月に一度か二度は嵐が来るんだ。雨が降らないと湖の水も川の水も枯れちゃうだろう?」


「えーっ、もう、何で! もっと練習したかったのに」


と美波がなげく。



そのうち、雷がゴロゴロと鳴り出した。


二人はその時、土のコースの上に居たが、

慌てて家の中に避難した。


雨は勢いを増し、


『ザー』


といって強く降り出した。


その日はもう練習は出来ない。


雷の音が一段と激しくなり、雨風の音が物凄

くなった。



「パパ、こんなに雨が降って大丈夫?」


と美波は訊いた。


「大丈夫だよ、心配するな。雨が止んで一日も経つと、太陽の熱で地面はカラッカラにかわくから。ここの日差しは強烈だからな」


とパパが笑いながら言った。



◇◇



その日、二人は家の中でオセロゲームをして過ごした。


パパは以前、浜辺で拾った白く平べったい小石で駒を作っていた。


小石の裏は暖炉の炭で黒っぽく塗ってある。


テーブルにチョークのような石を使って、

マス目を書いた。


ゲームが始まると、美波は負けず嫌いなので

パパが優勢になる度に悔しそうにして、泣き

そうな顔になる。



パパはお泊り会の時のことを懐かしく思い出

した。


保育園の頃、未央ちゃんと彩芽ちゃんがよく

家に泊まりに来て、トランプなどのゲームを

やった。


美波は負けるたびに悔しがって泣いた。


ある時などは、悔しがってパパにトランプの

たばを投げつけたこともある。


[あの時は、未央ちゃんも、彩芽ちゃんも、ドン引きだったなあ。まったく、負けず嫌いで気の強い子供だ。この性格はいい方向に伸ばさないと大変なことになるぞ]


とパパは思ったものだ。


勝った時は、大喜びでそこらじゅうを跳び

回る。パパは苦笑したものだ。



パパは最近のことも懐かしく思い出した。


学芸会の時も運動会の時も、線路で人助けした時もそうだったが、美波の


『うおおおー!』


と叫ぶ声も、実はかんだかくて小気味こきみよく、パパの耳にはいつも心地ここちよかった。


可愛いたけびだ。


ああいう雄叫びを上げるようになったのも、保育園の時だった。


サッカーをしていたせいだろう。


[とにかく、この子は誰に似たのか短気で勝ち気で生意気だ。気性が激しすぎる。よく泣くし、よく笑う。たましいひゃくまでというからな。根気こんきよく付き合って、悪い部分は直してあげないとな。俺はまだ死ねないな]


とパパは改めて思った。



◇◇



嵐が止んだ次の日、海の方まで散歩に行くと、二人は異変いへんに気づいた。


湾の一番外側にある円柱が海の中に倒れ、

海の水かさが増していた。


海面が一メートルほど上昇しているよう

だった。


丸太造りの大きな桟橋のすぐ下まで水が

来ている。


小舟が何艘も波に揺られて桟橋にぶつかり、


『ゴツン、ゴツン』


と音を立てていた。



海の近くまで寄って海中を見てみると、

海の水はいつものように澄んでいたが、

魚が一匹も居ない。


パパは海の水を手の平ですくおうと桟橋から手を伸ばした。


ところが海の中にパパが手を入れた瞬間、

パパは桟橋に片膝をついたまま動けなく

なった。


パパの顔を見ると目がうつろになり、

息もあまりしていない。


美波は驚いて、


「パパ、どうしたの?」


と呼びかけたが、パパは浅い呼吸をしながら意識をうしなったように力のない目で遠くの方を見ている。


まったく魂の抜けがらのような姿だった。

血色も悪くなり、パパの顔が土気色つちけいろに変わる。


[このままじゃパパが死んじゃう! 私は

どうすればいいの?]


美波は怖くなり、パパの肩を強くすった。


「パパ、お願い! しっかりして!」


とパパの耳元で大きな声を出し、何度も叫んた。するとパパは、突然とつぜんハッとしたように目を覚まし、


「うおおおー!」


と大声を出した。

 

美波はビックリして桟橋に尻もちをついた。


パパの大声が海辺にこだまする。


次の瞬間、パパは美波の手をつかみ、


「美波、ここは危ない。早く逃げるんだ!」


と言って駆け出した。


美波の手を引きながら階段を駆け上がる。


二人は崖の途中にある家の中に入った。



◇◇



パパは水瓶みずがめめてあった真水まみずで手をよく洗った。


「やっぱり、恐れていたことが起こったな」


とパパがつぶやいた。


「えっ、何? パパ、どうしたの? どういうこと?」


と美波が訊いた。


「いや、何でもない」


とパパが笑って答えた。


だが、パパの顔がいつになくこわばって

いる。


「何よ、パパ! どういうこと? 隠さないで言って!」


と美波がパパを問い詰める。


「美波、その水を少し飲ませてくれ」


とパパが言った。



美波はタスキがけした革製の水筒をパパに渡した。パパは水筒の水をゴクリと飲んだ。


大きく息をつき呼吸を整えている。


土気色だった顔にだんだん血色けっしょくが戻って来た。



「美波、よく聞いてくれ。あの海の水は、もう普通の海水じゃない。あれは死の水だ。あの水に体が触れると、人間は体から魂が引き離されて死んでしまう。美波、お前もここに来る前に神社の裏の森で体験したろう? あの黒いボールに自分の魂が吸い込まれそうになるのを」


とパパがいた。


「うん、覚えてるわ。あのボールに吸い込まれたら、私死んじゃうって思った。とても怖かったわ」


「パパも神社でお前と同じような体験をしたけど、今のは全くあの時と同じような感じだった。突然、『ブーン』って耳鳴りがし出して、耐えられなくなるんだ。すると、自分の中にある透明なもう一つの体がブルブル揺れ出した。そのうち、スルッと自分の元の体から魂が抜け出して、フワフワ宙に浮くんだ。自分じゃ全くコントロール出来ない。そして、だんだん上の方に浮き上がって行って、パパの体を揺すってる美波の体もパパの体も上空から見えるんだけど、どんどん離れて行ってしまって二人とも点の様に見えるんだ。パパは悲しくて泣きそうになったよ。やがて、パパの魂はもう雲の上を超えて大気圏まで突入しそうなんだ。上を見上げると、真っ黒な宇宙の暗闇が目の前に広がってた。このままじゃいけないって思うんだけど、どうしようもないんだ。[あの島に美波だけを残して俺は死ぬわけにはいかない!]って思った。すると、耳元で美波の声がしてな。だから、さっきパパは大声で叫んだんだ。そしたら、アッと言う間に魂が元の自分の体に戻ったんだ。お前が大きな声でパパを呼んでくれなきゃ、本当に死んでたかも知れない」


とパパがゾッとしたような顔をして言った。


「そうだったのね。でも、良かった。パパ、戻って来てくれてありがとう。私もパパのあんな姿を見たの初めてだったから、凄く怖かった。一時はどうなることかと本当に不安だったわ」


と美波が震える声で言って、

パパの腕にしがみついた。


パパはしばらく何かを考えいるようだったが、

やがてこう言った。


「美波、これからパパの話をよく聞いてくれ。実は、あの湾の一番外側にある円柱の近くは潮の流れが激しくてな、小舟であの辺りに行くと、沖に流されそうになって、パパはいつも苦労してたんだ。あそこの円柱だけが他のと違って真新しくってな、不思議に思ってたんだ。だけど、今日やっとその意味が分かったよ。たぶん、あの円柱の海底は崩れやすくなっていて、この島の人たちは何回も円柱を取り換えたんだと思う。それが昨日の嵐の時に完全に崩れて、円柱が倒れてしまったんだ。美波、たぶんこの島はもうあまり長くもたない」


「えっ、そんな! どういうこと?」


美波がいた。


「海面の水位が一メートルくらい上がってる。たぶんあの円柱が倒れたせいだ。これから海面の水位がだんだん上がってきて、この島には誰も住めなくなる。島の人たちが出て行った理由が今日やっと分かったよ」


とパパが深くため息をつきながら言った。


美波は唖然あぜんとして言葉が出ない。

下を向き、肩を震わせて泣き出した。


パパもさすがに青ざめていたが、しばらく考えてからパパは美波の肩に手を置き、笑顔に戻ってこう言った。


「心配するな美波、パパは大丈夫だ。海面の水位が上がったといっても、たった一メートルだ。しばらく様子を見てみないと分からなけど、一日一メートル水位が上がったとしても、神殿のある丘までは海抜三百メートルくらいはある。計算すれば三百日は余裕があるってことだ。あと十カ月もあればパパだって、あの異次元の壁を越えられるさ。だから、お前は心配せずに、明後日の満月の夜、一足先にママの所に帰ってくれ」


「嫌、絶対に嫌! パパを残してこの島を出るなんて、私、絶対出来ない!」


すると次の瞬間、パパが美波の頬っぺを

パチンとたたいた。


それほど強くなかったが、予想してなかったので、美波は一瞬目がくらみ、頭がボーッとした。


パパからぶたれたのなんて、

生まれて初めてだ。


「いいか、美波、パパはもう十分に生きた。だけど、お前の人生はまだまだこれからだ。それに、お前が帰らないと、ママも絶望していずれ死ぬだろう。だからお前は明後日の夜、何が何でもママのところに帰るんだ。分かったか!」


と大声でパパが言った。


「だけど、ウッ、ウッ、ウエーン、ウエーン!」


と言って、美波は激しく泣き出した。

パパは美波を優しく抱きしめた。


「美波、叩いたりしてゴメンな、パパが悪かった。ゴメンな、許してくれ」


パパは美波の背中を撫でながら言った。



◇◇



美波が落ち着くまで、しばらく時間が

かかった。


美波が大分泣き止んでから、パパが話

し始めた。



パパは美波の肩に手を置いて、

美波の顔を覗き込んだ。


「美波、お前、長嶋ながしま茂雄しげおという人を知ってるか?」


とパパが美波に訊いた。


「ウッ、エッ、エッ、な、何? パパ、こんな時に何言ってるの? 知らないわよそんな人」


と美波が涙声で言った。


「そうか、知らないか」


とパパはガッカリしたような顔をして、

首をうなだれた。


美波は少しだけ興味をそそられ、


「な、何よその人? その人がどうか

したの? 私たちに何か関係あるの?」


とパパにいた。


「いや、直接関係はないけどな」


とパパは頭をきながら言った。


「誰? その人、パパの知り合い?」


と美波が訊いた。


「いや、知り合いじゃないけどな。野球選手

なんだ」


とパパが言った。


「パパ、何言ってるの? 頭大丈夫?」


と美波が首を傾げて心配そうにパパを見た。


「ああ、大丈夫だけどな。じゃあ、イチロー

選手は知ってるか?」


とパパが訊いた。


「知ってるわよ、イチロー選手でしょ?

野球の」


と美波が答える。


「そうか、じゃあ王選手は?」


と目を輝かせてパパがく。


「知ってる、知ってる。ホームランをたくさ

ん打った人でしょ? テレビで見たことある

もん。一本足打法でしょ? こうやって打つ

のよね」


と美波は笑顔になり、王選手の真似まね

をした。


「そうか、知ってるか!」


とパパが嬉しそうな顔をする。


「な、何なのよ? それがどうしたのよ!」


と美波が少しイラ立ったような顔をする。


「いやあ、こういう時は長嶋選手の話をして元気を出そうと思ってな」


とパパが照れ臭そうに言った。


「何なのよ! 何だかよく分からないけど、

じゃあ、話してみてよ」


と美波が言った。



◇◇



パパは椅子に座って、長嶋選手のことを話し始めた。


美波も椅子に座ってパパの話を聞く。


 

「パパが子供の頃だった。小学校三年生の頃だ。パパは手のつけられない悪ガキでな。いつもケンカして友達を泣かせたり、好きな女の子に消しゴムを投げつけたりしてな、宿題なんて一回もして行ったことないし、いつも廊下に立たされてな、おばあちゃんはいつも学校の先生に呼び出されて大変だったんだ。優しかったおじいちゃんまで、『コイツは俺の息子じゃない』って言い出す始末しまつさ」


とパパが話し始めた。


美波はパパの子供の頃の話を初めて聞いた。


今はテーブルに肘をつき、手の平に可愛いアゴをのせて興味きょうみしん(しん)で聞いている。


「でも、おばあちゃんは絶対にパパを見放さなかった。『お前は元気がよ過ぎるだけだあ。そのうち落ち着くから』と言ってな。ある日、おばあちゃんがパパを可哀そうに思ったのか、電車で甲子園球場までジャイアンツ戦をに連れて行ってくれてな。パパは長嶋選手と王選手が大好きでいつもラジオにかじりついて野球中継をいてたんだ」


とパパは懐かしそうに、遠くを見るような目をして言った。


「巨人対阪神の首位しゅい攻防戦こうぼうせんだったけど、その試合は荒れに荒れまくってな。もう大変な試合だった。最初は、王選手に危険球を投げた阪神のバッキー投手と、ベンチから怒って飛び出してきた巨人の荒川コーチが殴り合いになったんだ。両軍入り乱れてのだい乱闘らんとうさ。二人とも退場になって、一旦は収まったんだけど、交代したベテランの権藤ごんどう投手も手元が狂って、王選手の頭にデッドボールを当てちゃったんだ。そしたら、また両軍入り乱れて二度目の大乱闘さ。観衆のヤジも凄いし、スタンドでは巨人ファンと阪神ファンがケンカを始めるし、もう大変な騒ぎさ。野球を知らないおばあちゃんも怖くなったのかオロオロしてな、本当に可哀そうだったよ」


とパパは当時を思い出したのか、

少しぶるいした。


「騒ぎが収まると、試合は四回表二アウト、ランナー一、二塁で長嶋選手に打順が回ってきた。王選手が担架たんかで運ばれた直後だった。球場は殺伐とした雰囲気でな、乱闘と流血で、もう野球どころの雰囲気じゃないんだ。球場に集まった四万人の大観衆がみんな狂ったような状態になってるんだ。甲子園だから、熱狂的な地元の阪神ファンが多くてな。巨人ファンも『長嶋、行けー! 頼むぞ!』って大声で叫ぶんだけど、阪神ファンの声にかき消されちゃうんだ。パパも祈るように両手を胸の前で組み合わせて試合を観てたんだ」


とパパは言った。



パパは実際に、両手を胸の前で組み合わ

せた。


「その時、パパは心の中でこう叫んでたんだ。『長嶋選手どうかヒットを打って王選手のかたきって下さい。そうすれば僕は真面目まじめになります! もう友達をいじめたりしません。宿題もします!』ってな」


パパは立ち上がり、今は身振り手振りで話し始めた。


「五球目だったかな、ツーエンドツーから長嶋選手が『ブン!』って、目にも止まらぬ速さでバットを振ったんだ。すると打球がぐんぐんレフトスタンドまで伸びて行ってな、大きな当たりの見事なスリーランホームランさ。球場中のお客さんが一瞬息をのんだよ。ボールがスタンドに吸い込まれると、『ウオオー!』と物凄い地鳴りのようなどよめきが起きてな、巨人ファンはもうみんな総立ちさ。パパもおばあちゃんと手をとり合って跳び上がって喜んだよ。野球を知らないおばあちゃんまで涙を流して喜んでるんだ。パパも感動して泣いたよ。人間って、こんな物凄い困難こんなん状況じょうきょうの中で、こんなに素晴らしいことが出来るんだと思ってな」


とパパは興奮して、長嶋選手の打つ真似をしながら話をした。


まるで子供に返ったみたい。


「うわー、凄い! その人偉い!」


とパパの気持ちが伝染したように、美波も両手の拳を握りしめ、仁王におうちになってパパの話を聞いていた。


「それから、どうなったの?」


と美波が訊いた。


「もちろん、巨人の圧勝さ。その後、長嶋選手はもう一本ホームランを打ってな、完全に試合に決着をつけたんだ」


とパパは言って椅子に戻り、こう続けた。


「そしてパパはその後、静岡に戻り、真面目になったよ。長嶋選手に誓った通りにな。宿題もするようになったし、友達に対しても優しくなった。スポーツの力って凄いよな、人の人生を変えちゃうんだぜ。あのままパパが成長してたら、きっと今頃はやくざ者みたいな、とんでもない人間になってたと思うよ。おじいちゃんも最終的に、『お前はやっぱり俺の息子だ』と言って喜んでくれた。そして、長嶋選手のようにパパも野球を始めたんだ。おじいちゃんがグラブを買ってくれてな、パパは球が速いからピッチャーをやってたんだ。野球は大学三年の時まで続けたよ。だけど、肘を壊して止めちゃったけどな。でも、パパは今でも野球が好きだ」


とパパが言った。


「うわー、いいお話ね。美波、感動しちゃった! 長嶋選手かあ、今度元の世界に帰ったらどんな人かまた教えてね」


と美波が言う。


「ああ、長嶋選手の動画なんていくらでもあるからな。明るくて楽しい人だぞ。今度、向こうの世界に帰ったらユーチューブで見せてやるよ。王選手やイチロー選手も凄いけど、長嶋選手も同じくらい凄い選手だったんだ」


とパパは胸を張って言った。


そして、パパはこう続けた。


「パパは人生で困難にぶつかった時、いつもあの長嶋選手のホームランを思い出すんだ。長嶋選手も今は年をとって、体が少し不自由になったけどな。それでも諦めずに毎日リハビリに励んでるんだ。あんなに心の強い人はいない。王選手やイチロー選手も長嶋選手を尊敬してるし、パパも長嶋選手をリスペクトしてる。だから、パパも諦めずにこの島で最後まで頑張ろうと思うんだ」


とパパは言った。


「本当に?」


と美波が目を輝かせる。


「当たり前だ。パパを馬鹿にするな。パパだって昔は足が速かったんだ。この四カ月で一秒近くタイムを縮めたんだ。あと十カ月もあれば、あと二秒くらいは縮められるさ」


と力強くパパが言った。


「分かったよ。美波、パパのこと信じる! 私が先に向こうに帰っても、パパもあきらめずに頑張って必ず帰ってきてね。お願い、約束よ!」


と美波が言った。


「ああ、任せとけ。必ず帰ってくる。約束するよ。パパが本気出したら凄いんだぞ!」


とパパは威勢いせいよく言って笑った。



◇◇



その日は雨の影響えいきょうで、

土のコースでの練習は中止した。


昼間の強烈な日差ひざしのおかげで、夕方くらいには地面も大分乾かわいて来ていたが、コースを荒らしたくなかった。



だから二人は、それ以外の練習メニューを

淡々《たんたん》とこなした。



夜になると、星明りや月の光が消え、海の方にオーロラが現れた。夜空を見上げ、


「うわあー、綺麗! パパ、見て見て!」


と言って美波は喜んだ。


「あー、こりゃ凄いな!」


とパパも感嘆かんたんの声を上げた。


二人ともオーロラなんて初めて見た。


淡い緑色の神秘しんぴてきな光が、大空でカーテンのようにユラユラ揺れている。とても壮大で幻想げんそうてきながめだ。


これも、例の不思議な現象の一つに違いなかった。北欧ほくおうやカナダ、アラスカでもないのに、オーロラがこんなにハッキリ見えるなんて考えられないから。



そのオーロラは一時間ほど消えなかった。


振り向くと、山の方にもオーロラが見える。

オーロラが島全体を取り囲んでいるようだ。


冥界(めいかい)の力が強くなって来ているのかもしれない]


とパパは思った。



◇◇



翌日、昼頃起きて二人は海に行ってみた。



明日はいよいよ満月の夜をむかえる。


二人は就寝時間と起床時間をこの一週間でじょ(じょ)に後ろにずらしてきた。



海岸に着くと、波に当たらないように気をつけなければいけなかった。


桟橋が海の中に沈んでいたから。

ボートも沈んでいる。


遠くの方を見ると、もう零戦ぜろせん残骸ざんがいも海の中に飲み込まれていた。


あの円柱の部材がたくさん置いてあった作業場みたいな場所も半分ほどは海の中だ。


大きな古代の船の残骸も同じように半分は海の中にある。



パパは美波を後ろで待たせ、崖の階段の上から波が足や体にかからないように注意しながら銛を海の中に突き立て、深度を測った。


「良かった。昨日からほぼピッタリ一メートル水位すいいが上がってる。五メートルとかじゃなくて安心したよ」


とパパがホッとしたように言った。


美波も胸をでおろす。


「あー、良かった! 水位が上がり過ぎると、パパの練習期間が短くなっちゃうもんね。美波もホッとしたよー」


「魚は捕れなくなったが、まだあの湖と川がある。ウナギと川魚があれば、タンパク源は何とか確保できるから大丈夫だ」


とパパが言った。



◇◇



二人は丘の上に戻り、午前中のメニューを淡々とこなした。



午後のメニューは、今日は土のコースを使って夜十時頃から十二時頃まで練習を行った。


満月に近い月が出ていて、夜でもかなり明るかったが、中盤がやはり見にくい。



パパが試しに、コースの中盤にかがり火をともしてみた。


「これなら、中盤も見やすいね。パパ、ありがとう!」


と美波が言った。


「だろ? 準備しといてよかった」


とパパが笑顔で答えた。



今日はタイムを計るのは止めておいた。


もしタイムが悪かったら、二人とも

自信をなくすかもしれないから。

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