美波、異次元の扉を見て驚く
家に帰ると、パパが獲ってきた魚を手早く
料理してくれた。
伊勢海老は、殻のついたまま包丁でブツ切りにし、輪切りにしたイカ、スライスしたニンニクと一緒に小麦粉をまぶし、オリーブ油でカラッと揚げる。
鯛は土鍋に入れて強火で蒸す。
カサゴのような小さい魚もオリーブ油でカリカリに揚げる。
デザートは今日はスイカだった。
パパの作った料理は頬っぺたが落ちそうなくらい美味しかった。
「パパって、料理上手かったんだねー!
私、全然知らなかった」
と美波が感心した。
「いやー、ネタが新鮮だからな。パパの料理は全部ママの真似だよ。ママには敵わない」
とパパが頭を掻きながら言った。
「ママ今頃どうしてるかな? 美波、何も言わずに出てきたから、絶対心配してると思う。もう警察に捜索願出してると思うよ」
と美波が心配そうに、濃い眉毛を八の字に寄せながら言った。
「心配しても始まらないさ。食事が終わったらこれから先のことを話し合おう。どうやってこの世界から抜け出すかをな」
とパパが言う。
「うん、分かった。この島に異次元の扉があるって話ね」
と美波が察しよく言った。
◇◇
食事が終わると、パパは、
「美波、お前に見せたいものがあるんだ」
と言って、松明に火をつけ、
美波と一緒に外に出た。
二人は神殿から百メートルほど離れた所にある石碑の前まで歩いて行った。
石碑の前の地面は草地ではなく土だった。
二人はその土の上を歩いた。
平らに固められた地面の上には、白い砂がきれいに撒かれていて硬かった。
土の地面は石碑の前から神殿の前まで縦に長く伸びている。
地面は周囲を縁石で囲まれていて、地面に向かって草原全体が緩やかに傾斜していた。
[ここで、何か儀式でもやるのかな?]
と美波は思った。
その石碑は、長方形の平べったい形をしていた。横幅が五メートル、縦が二・五メートル、厚さは一メートルほどだった。
表面がザラザラしている。
花崗岩で出来ているようだ。それが地面の中にしっかりと埋まっている。
パパが松明をかざすと、表面には古代ギリシャ文字が一面に書かれていた。
アルファベットによく似ていたが、
意味は全く分からない。
全体をよく見ると、その石板は四辺が窪んでいて額縁のようになっていた。
真ん中には、上から下まで縦に細長い線の切れ込みが入れてあった。石板の中心にはドアの取っ手のような窪みがある。
美波は驚いた。
それは、まさに扉の形を石に彫ったものだったから。
「これが、異次元の扉? まったく扉そのものじゃない」
と美波が言った。
「そうなんだ。パパも最初は、これが何だかよく分からなくて見過ごしてたんだけど、満月の夜にこれが開くのを見て、初めてドアだと気づいたんだ」
とパパが言った。
「えーっ、開くってどういうこと?」
と美波が訊いた。
「文字通り、これが満月の夜だけ開くんだ。どういう仕組みか分からないけど、左右両側にスライドしながら開くんだ。開いたドアの向こう側は、淡い金色に光っていてよく見えない。だけど、これが開く時はクリオネたちが騒ぎ出すし、扉の向こう側から鳥が出て来たりするんだ。だから、パパはこれが異次元の扉だと確信したんだ。たぶん、この島の住人たちも、この異次元の扉から自分たちの本来の世界に帰って行ったんだと思う。冥界に船で出て行くはずはないと思うんだ」
とパパが言った。
「えっ、クリオネって何? 美波よく分からない」
と美波がキョトンとした顔をした。
「ゴメン、ゴメン。クリオネっていうのはパパが勝手につけた名前なんだ。満月の夜になると海の方からやって来て、神殿やこの石板の周りで飛び回る光のことさ。多分、冥界からあの円柱の境界線を越えられるのはクリオネだけだと思う。その光がクリオネの形によく似てるから、パパはその光にクリオネってネーミングしたんだ」
とパパが言った。
「へーっ、そんな光が来るの?」
と美波は半信半疑で呟いた。
「まあ、実際に見てみないと想像つかないと思うけどな、可愛いやつらなんだ」
とパパが言った。
「ふーん、分かった。だけど、じゃあ何で今まで、パパはこのドアを通って美波とママの所に帰ってこなかったの?」
と美波が訊いた。
「それは、パパの足が遅いからだ」
とパパが言った。
「パパ、何を言ってるの? 頭大丈夫?」
と言って、美波は吹き出した。
「大丈夫だ」
とパパが真面目な表情で答える。
「美波、よく聞いてくれ。これは冗談でも何でもないんだ」
美波はパパの真剣さに気おされた。
のんびり屋のパパがこんなシビアな顔になるのも珍しい。
「分かったよ、真面目に聞くから」
と美波が言った。
「いいか、美波。この扉は満月の夜、神殿の前に埋め込まれた敷石の内側に人が居る時だけしか開かない。扉の前で待っててもダメなんだ。パパ、二度目の満月の時に試してみたから間違いない」
と言ってパパは一旦言葉を切り、こう続けた。
「一度目の時はクリオネを初めて見たんで驚いて神殿の方まで行ってみたら、この扉が開き出したんだ。ちょうど満月が神殿の真上にさしかかった頃だった。その時は何が何だか分からなくてな、ただ驚いて見てただけさ」
美波は興味津々でパパの話を聞いている。
「二度目の時はもしかしたら元の世界に帰れるかもしれないと思って、スーツに着替えて革靴をはいて、カバンも持って、あの扉の前で待機してたんだ。だけど、満月が神殿の真上にさしかかっても一向に扉は開かないんだ。クリオネたちもパパの方には近寄って来なかった。十分経っても二十分経っても扉は開かなかった。パパはいろいろ草原の中で立ち位置を変えてみたけど開かないんだ。諦めて神殿の前まで行ってみると、敷石を越えた途端『ゴオー』っと石と石が擦れる音がして、振り向くとあの扉が開き始めたんだ。パパ慌てて走ったよ。全然間に合わなかったけどな。あの神殿の前には、まるで陸上のスタートラインとしか思えないような敷石が埋め込まれているんだ」
と言って、パパは一旦言葉を切った。そして、
「さらに驚いたのは、あの扉からルルが出て来た事だ」
と言った。
「えっ! ルルが?」
と美波が驚いて声を上げた。
「そうだ、ルルがこの扉から出てきたんだ。一回目の時は鳥が群れをなして何羽も出て来たんだけど、二回目の時はルルが出て来た。だからパパはなおさらあの扉が元の世界に通じていることを確信したんだ」
とパパが力を込めて言った。
「じゃあ、今ルルはこの島のどこかにいるの? 早くルルに会いたい!」
と美波が興奮して言った。
「いや、残念ながらルルは三度目の満月の夜にあの扉から帰って行った」
「えー、何で! もう、悔しい!」
と美波が叫ぶ。
「だけど、ルルが来てくれてこの一カ月は心が和んだよ。訳の分からないこの島に来て二カ月、パパもお前たちと会えなくて寂しくてな、気が狂いそうになってた時だったんだ。二回目の時は、あの扉から何か動物が出てきたような気がしたけど、ルルの動きが速過ぎてよく見えなかった。扉が閉まってパパがスーツ姿で呆然と立ち尽くしていると、足元にルルが居てパパの脚に体を擦りつけててな、『ニャー』って鳴いてるんだ。もう、ビックリしたよ。それからは、パパの家で一緒に暮らしてな、どこに行ってもルルはついて来た。漁をする時なんか『ニャーニャー』言って大喜びでな。パパがとってきた魚を美味そうにパクパク食べてたよ。だけど気まぐれだから時々どこかにフイと姿をくらましてたけどな」
とパパは笑いながら懐かしそうに言った。
「じゃあ、今は満月の二日後だから、私がここに来る二日前までルルはこの島に居たのね?」
と美波が訊いた。
「そのとおりだ。ルルと入れ替わりでお前がこの島に来たから、ルルがパパをお前に引き合わせてくれたような気がしてな、嬉しかったよ」
「ああ! 思い出した!」
と美波が素っ頓狂な声を上げた。
「どうした?」
「ゴメン、パパ。私、今日の昼間パパと話した時、ルルのこと言うの忘れてた! 実は、神社であの黒いボールに飲み込まれる直前まで私、ルルと一緒に居たの。あの神社に行った朝、ルルが玄関で私を待ってたの。そういえば、パパが居なくなって直ぐ、ルルも姿を見せなくなったの。私とても寂しかった。だから、神社に行った朝、玄関の前にルルが居るのを見た時は凄く嬉しかった。じゃあ、あれはこの島からルルが帰った後だったのね」
「じゃあ、あの黒いボールはルルが呼び出したのかな?」
「それはないと思う。ルルはあの時、怖がって物凄い鳴き声を出して逃げたのよ。あの黒いボールとルルが仲間ならそんなことしないと思う」
「そうか。じゃあ、ルルはあの変なボール以外の方法でこの島に来てることになるな。ということは、俺たちが元々住んでいた世界のどこかに異次元の扉があって、ルルはその扉の場所を知っていることになるな」
「じゃあ、あの変なボールは一体何なの? 私たちの味方? それとも敵?」
「分からない。俺たちを再会させてくれた点では味方のようでもあり、あの存在の不気味さと、最初に俺たちを引き離した点では敵のようでもある。まあ、結論を急ぐ必要はないさ。それより、今はあの扉を通り抜ける方法を考えよう」
「分かった。それで、三度目の満月の時はどうしたの?」
「走りやすいように、この服より裾が短い古代ギリシャの戦士服を着てあのスタートの敷石の内側でルルと一緒に待った。腕時計のストップウォッチで時間を計るために、この時計を右手に握り締めてな」
と言って、パパは左腕に巻いた時計を指さし、こう続けた。
「そのうち、また海の向こうからクリオネたちが飛んできた。あいつら最初は神殿の方で飛び回ってるんだけど、満月が神殿の真上にさしかかると、あの扉の前に移動して飛び回るんだ。『クイーン、クイン』って可愛い声で鳴きながらな。クリオネたちが移動を始めたからそろそろかなと思って、パパはルルと一緒にスタートラインで構えて待った。そのうち、『ゴオー』って音を立てながら扉が開き出したんだ。パパはスタートを切って全力で走ったさ。だけど、今回も全然ダメだったよ。ルルは凄く足が速いから、パパの先を物凄い勢いで駆けて行ってな。しばらく扉の前で、早く来いと言ってるように飛び跳ねながらパパの方を見て待ってたんだけど、扉が閉まる直前に、諦めたように後ろを向いてスッと扉の向こう側に消えて行った」
とパパは残念そうに言った。
そしてまた、こう続けた。
「だけど、収穫はあった。扉が開閉する間の時間が分かったからな。この扉は開き始めてから閉じ終わるまで十三秒かかるんだ。そして、スタートの敷石の所からこの石板までの距離はちょうど百メートルだ。これもパパは自分の革靴のサイズを基にロープを使って正確に測ったから間違いない。美波、百メートルを十三秒以内で走れるか? それができればお前はママの所に帰れるはずだ」
「えーっ、急にそんなこと言われても分かんない。でもママの所に帰れるんだったら、私、何でもやってみる!」
と美波は意を決して言った。
「そうか、よし、その意気だ! それじゃあ、明日からまた二人で陸上の練習だ! パパに超特急の実力を見せてくれ! あと一カ月近くあるから、お前だったら、ひょっとしていけるかもしれない。もし無理だったら、またその次の満月まで頑張ればいいだけの話だ」
「だけど、パパはどうするの? 私、パパと一緒じゃなきゃ嫌だ」
「パパはまだ無理だ。この間の満月の時は、あの扉の十五メートル手前までしか行けなかった。パパは年も取ってるし、あと半年から一年はトレーニングが必要だと思う。パパもこの三カ月、ずいぶん階段ダッシュとかやって頑張ったんだけどな。なかなか若い時みたいにはいかない」
「じゃあ、私もパパが速くなるまで待つ。そうじゃないと、私、苦労してここまで来た意味がないじゃない」
「馬鹿、何言ってるんだ! ママが心配して待ってるんだぞ! お前が早く帰らなかったら、俺たち二人を失ったと思ったママは、絶望して死んじゃうかもしれないんだぞ!」
とパパが大声で美波を叱った。
美波は両手を口に当て、ハッとした顔をする。
「いいか、美波。パパがこの島で元気に生きていることは確認できただろう。それだけで十分じゃないか。お前は先に元の世界に戻って、パパが元気にしていることを早くママに伝えてくれ。そうしないと、ママは死んじゃうかもしれない」
とパパが美波を諭した。
「うん、分かった。私、間違ってた。パパの言うとおりだわ」
と言って、美波はパパの腕の中に飛び込んで泣いた。
パパは優しく美波の背中を撫でながら、
「心配するな、美波。パパだって若いころは野球をやって、ずいぶん鍛えてたんだ。パパがその気になれば十三秒くらい切れるさ。高校の頃なんて、十二秒台前半で百メートルを走ったことがある。陸上のスパイクもはかずにな。パパも必ず後から帰るから、ママによろしくな」
とパパが言った。
「うん、必ず帰ってきてね。パパ、約束だよ」
と美波は泣きながら言った。
◇◇
翌朝から二人のトレーニングが始まった。
美波は先日トレーナーの下に来ていた白いTシャツと紺の短パン、ピンクのジョギングシューズだ。
パパは半袖と丈の短いスカートが一体になった古代ギリシャの戦士服に着がえた。
腰には赤い帯を巻いている。
足にはいつもの幅広の革で編み上げたサンダルをはいている。
「キャハハ、パパ、何それ! スカートみたい」
と美波が笑った。
「パパはスーツしかないから仕方がないんだ」
とパパは照れながら言った。
二人は家の前の草原で準備運動をした。
ストレッチには特に念を入れた。
柔軟性は体の可動域を広げる。
短距離走には不可欠な要素だ。
次に、神殿前の草地を軽くジョギングする。
土のコースの周囲だ。
その後、昨日の急な階段でダッシュを繰り返す。三十メートルを五本ほどだ。
次にゆっくり林の中を歩いて移動し、村を通って先日美波が苦労して登ってきた山道の階段に着いた。
「うわー、ここ懐かしい。昼間だとこんな感じだったんだ! 全然怖くないね」
と美波が嬉しそうに言った。
昼間見ると緑の木々の間から陽光がキラキラと漏れてきて、とても明るい。時折吹く風も爽やかで心地よかった。
二人は滝ツボまで降りて行き、また階段ダッシュを始めた。
百メートル地点の踊り場で少し休憩し、さらに百メートル駆け上がる。
百メートルを速く走るには瞬発力と持久力がいる。
この階段は幅が広いし距離もあるので、瞬発力と持久力を鍛えるのに最適だった。
トップスピードを最後まで維持するためには、適切なフォームも必要だ。
美波は下半身の力に比べて、上半身の力が弱かったので保育園の時から今まで、ずっとアンバランスなホームで走ってきた。
その上、美波は前半の五十メートルまでは異常に速いが、百メートルの最後の最後まで加速しようとするので途中で疲れてしまい、余計にフォームが乱れアゴも上がってしまう。
いかに前半のトップスピードを後半まで維持できるかが課題だった。
パパはそのことを美波に丁寧に分かりやすく説明した。
美波は納得したようだった。
小一の時とは違い、今回は真剣にパパの言うことを聞いた。ましてや、こういう状況だ。
ママのためにも早く正しいフォームを身につけなければならない。
「要するに、グレースみたいに綺麗なフォームで走れってことね」
と美波が言った。
「そうだ。だけど、何から何までグレースちゃんの真似をする必要はない。お前にはお前に合った適正なフォームがあるはずだ。それを見つければいいだけの話だ。問題はいかに効率よく、無駄なく走ることが出来るかどうかなんだ」
とパパは言った。
そして、パパは練習中も、
「美波、もっとアゴを引いて、腕を振って、モモを上げて!」
と美波の後ろを走りながら常に声をかけた。
山道の階段ダッシュを二本こなすと、二人はまた神殿前に戻り、今度はパパがタイムを計った。
神殿前のコースはあまり荒らしたくなかったが、慣れておく必要があるので、一日五本程度は一番端のコースを全力で走る訓練をする。
このコースなら石板に激突する心配はない。
午前中の練習はこれで終わりだ。
美波は神殿前に埋め込まれたスタート盤に前足をかけスタンディングスタートのポーズをとった。
クラウチングスタートを習得するにはかなり時間がかかるし、道具もない。
パパはスタンディングスタートで勝負することに決めていた。
「位置について、よーい、ドン」
パパが大声で言う。
パパは腕時計を持って石板の辺りで待っている。美波はフォームを意識しながら走った。
五十メートル過ぎた辺りから、力まないようになるべく体の力を抜いて走る。
パパが教えてくれた通り、
[腕振り、モモ上げ、顔真っすぐ」
と心の中で呪文を唱えながら走った。
「おおー、美波、いいぞ。十三・五秒だ。あと一秒縮めればママに会えるぞ!」
とパパが言った。
「えっ、〇・五秒じゃないの?」
と美波が訊いた。
「いや違う。この扉は正確に言うと、横幅が五二〇センチあるんだ。ちょっとした算数の問題みたいだけど、両側の扉が左右にスライドして開き切り、また閉じるまで十三秒かかる。開ききった時はもう六・五秒しか時間は残されてない。その残された六・五秒の間に扉は五二〇センチ進む。ということは、五二〇センチ割ることの六・五で八〇センチだろう。つまり、この扉は一秒間に八〇センチ進むわけだ。お前の肩幅が大体四〇センチ弱だから、この扉を駆け抜けるためには、少なくとも十三秒より〇・五秒速い十二・五秒のタイムを出さなきゃいけないんだ」
とパパが言った。
「あっ、そうかゴメン! 肩幅のこと、全然考えてなかった」
と美波が言った。
「分かればいいんだ。でも美波、これだけは気をつけてほしいんだけど、扉の隙間が足りなくて無理だと思った時は、すぐ減速してくれよ。トップスピードでこの石板に頭から突っ込んだら死んじゃうからな。無理だと思ったら、直ぐ諦めろ。また来月頑張ればいいんだから。自分で余裕があると思った時だけトライすればいいんだ。大ケガしたりしたら、せっかく練習したのに元も子も無くなっちゃうからな。ママにも会えなくなる。後、普段からケガと病気だけには二人とも気をつけような。この島には病院なんかないんだから」
「うん、そうだね。分かった、充分気をつけるよ」
交代して、美波がパパのタイムを計ったが、パパのタイムは十四・七秒だった。
「うーん、まだまだだな。パパは肩幅が広いから、あと二・五秒くらい縮めないとダメだな」
とパパが残念がる。
「パパ、頑張って!」
と美波が励ました。
◇◇
昼間は暑いので、練習はしない。
夕方涼しくなってきてから練習再開だ。
日中は神殿の方が家の中より涼しいので、神殿の大理石の床に寝そべって昼寝をしたり、ゼウス様にお祈りしたりして過ごした。
「最初の頃は、早くお前たちに会いたくてゼウス様の像の前でずいぶんお祈りしたんだ。あの黒いボールをまた呼び出してもらおうと思ってな。一日中お祈りしたこともある。だけど、一向にあの黒いボールは現れてくれなかった。異次元の扉が開くのを見て、もうそういうお祈りは止めたけどな」
とパパが大理石の床に寝そべって言った。
美波も横に寝そべっている。
大理石はヒンヤリとして気持ちがいい。
練習で疲れた体を癒してくれる。
時折吹く風も心地いい。
「あの黒いボールって一体何なのかしら? ひょっとしたら宇宙人の仕業じゃないの。あの変なボールで人間を一人ひとりさらってこの島に連れてきて、人間の行動を観察してるのかもしれないよね。パパ、宇宙人がどこかで私たちのこと見てたらどうする? そう考えたら私、怖くなってきた」
と美波が不安そうな顔をして言った。
「そうかもな。この宇宙で人間が認識できる物質は全体の五パーセントくらいらしいな。残りの九十五パーセントはダークマターとかダークエネルギーとかいうもので出来てるらしい。たしかに望遠鏡を覗くと、星とか銀河とかは見えるけど、そのほかの暗い闇の部分には何があるのか分からないもんな。科学の世界では、昔はアインシュタインの相対性理論を使ってこの大宇宙の法則を解き明かそうとしていたんだけど、最近は量子力学の研究が進んで状況が変わったらしいよ。相対性理論ではこの宇宙で一番速いのは光だと考えられていたんだが、最近の量子力学の研究では光より速く動く物質があることが分かってきたらしい。量子力学というのは分子とか原子とか極小の世界を研究する学問なんだけど、パパの体も美波の体も突き詰めれば分子とか原子とかの物質で出来てるわけだろう? 宇宙人の科学をもってすれば、光よりも速くパパたちの体を動かして、別の次元に移動させることが可能なのかもしれないな。多元的宇宙論によると、宇宙は人類が認識しているこの宇宙のほかにも、いろんな次元に何個も別々の宇宙が存在してるらしいからな。異次元の世界も否定はできないと思うよ。現に今、俺たちはこうして元いた世界とは時間の流れ方が全く違う異次元の世界を体験しているわけだしな」
とパパが言った。
「えーっ、何よそれー。美波、そんな難しいこと言われてもよく分かんないよ。量子? ダーク何だっけ? 多元的宇宙? 私、ちんぷんかんぷんだわ」
「ゴメン、ゴメン。美波にはまだ難しかったかな。パパが言いたかったのは、この宇宙の謎は人類の科学ではまだ十分に解明されていないってことなんだ。だから、この宇宙では人間が想像もできないようなことが、いろいろと起こり得るんじゃないかって、パパは思うんだ。バミューダ海域でよく航空機が消えたりするだろう? あの砂浜の零戦だって、地球のどこかにある異次元の扉を通り抜けて、こっちの世界に来たんじゃないかってパパは思ってる」
「バミューダ海域なら、美波も聞いたことあるよ。魔のトライアングルでしょ? そっか、それなら私も分かるわ。もっとそういう風に、分かりやすく説明してよ。それじゃあ、パパは宇宙人の存在も否定しないのね?」
と美波が訊いた。
「ああ、否定はしない。だけど、もし宇宙人の仕業だったとしても、それほどの悪意は持ってないんじゃないかな。少なくとも俺たちの命を奪うことが目的ではないと思うよ。しかもここには異次元の扉があって、島の人たちもあそこから出て行った可能性が高い。ルルもあの扉を通り抜けてこっちに来たわけだし。もしこれが、お前の言うように宇宙人の実験で、奴らがどこかで俺たちを見てたとしてもいいじゃないか。もしそうなら、俺たちの力を逆に見せつけてやろうぜ。なあ美波、もっとポジティブに考えよう。ネガティブな気持ちでビクビクしてたって何も始まらないぞ。人間ってのは結局、与えられた状況の中で一生懸命に生きて行くしかないんだ。だから、俺たちはとにかく練習を積んで、あの扉を駆け抜けることだけを考えよう。さあ、もう涼しくなった。午後の練習の時間だ」
と言ってパパが立ち上がった。
「うん、そうね。ポジティブか、分かった。私、パパの話聞いてたら、だんだん元気出てきたよ。私、もう心配しない!」
と言って、美波も元気よく立ち上がり、運動会でやった沖縄のエイサーを踊り始めた。
『イーヤーサーサー』と言うところを 、
「ポジティブ、ポジティブ!」
と言い代えてエイサーを踊る。
「ねえねえ、見て見てパパ! これが美波のポジティブダンスだよ!」
と言って、美波はとても楽しそうに踊った。
パパはニコニコ顔で、
「美波、いいぞ、その調子だ!」
と言って、美波の頭を撫でた。
◇◇
午後の練習では、フォームを正しくするためのトレーニングに重点を置いた。
パパが草原の平らな場所に二本ずつ平行に何本も杭を打ち、それにロープを張った。
それをハードルに見立てて、モモを高く上げて走る練習を何度も繰り返した。
腕の振り方にも注意してそのトレーニングを何回も行う。ゆっくりやったり、ピッチを上げてやったりした。
スタートの練習も非常に重要だ。
パパの掛け声とともに、繰り返し何度も練習する。
美波の爆発スタートは保育園の頃からサッカーをやっていたおかげで申し分なかったが、パパは美波に三十メートル付近までもう少し前傾姿勢を保ち、最初の十メートルは歩幅を小さく刻むアドバイスをした。
そうすれば無駄な力を使わなくてすむし、空気の抵抗も少なくなって一層加速度が増す。
美波の上半身も鍛えなければいけないので、腕立て伏せや腕振りの練習も熱心に行った。
漁に出た時は小舟も漕いだ。
美波は最初、オールの使い方が分からず慣れるまで大変だったが、パパから丁寧に教えてもらうとだんだん上手くなってきた。
小舟を漕ぐのは腕立て伏せと違って、背筋や腕を引く力を強化するのに役立った。
しかも、船の上でパパの漁の手伝いをしているだけでバランス感覚が養われ、体幹を強くするのにも最適だった。
最初の一週間が過ぎた頃、二人は再びタイムを計った。
美波は十三・〇秒。
何と、一週間で〇・五秒もタイムが上がっている。
「美波、凄いぞ! これなら次の満月にはママに会えそうだな。あと三週間も時間がある。この調子で頑張ろうな!」
とパパが大喜びで言った。
「走り方をちょっと変えるだけで、こんなにスピードが上がるなんて思わなかった。私、今ならグレースに勝てる自信あるわ。今までは六〇メートル過ぎた辺りでスピードが落ちるのが自分でも分かったの。それで、もっとスピードを上げようと力んで後半はクタクタになってたんだけど、今日は逆にスピードが上がる感じがした。余計な力が抜けて、足が勝手に前に出る感じ。パパのコーチのおかげよ!」
と美波も興奮して言った。
パパのタイムも少し上がった。
十四・五秒。
「パパだって、凄いじゃない。〇・二秒もタイムが上がってるよ」
と美波も大喜び。
「本当か? やった!」
とパパもガッツポーズ、
「美波が来てくれたからパパも練習に気合が入ってな、今日は二人ともよかったな」
とパパも嬉しそうに言った。
〈作者注〉
オリンピック発祥の地、古代ギリシャの遺跡では、バルビスと呼ばれる陸上競技のスタートに使う石製の「足止め器」が発掘されています。