季節の風の中で考えてた
国語は オレンジ
算数は みどり
体育は 茶色
図工は ピンク
・・・。
学校の予定表は1週間のものが決まっていた。
これもメガネ先生のアイデアで、僕だけの予定表が出来た。
色のシールを買ってきて、金曜日の夜か土曜日に予定表を作ることにしたんだ。初めて聞く単語には、表の中にママは絵を描いてくれた。
2枚作って、1枚は僕が家の机に置く、1枚は学校の机に置くんだ。
予定表を見ながら次の日の教科書やノートを用意するのが早く出来るようになったし、学校でもそうだった。
突然に授業が変わることがあった時は困ったけれどね。
***
運動会は秋にあった。
練習はとても苦しい。ずっと外だったし、それに大きな声を出さなきゃいけない。
出すのはまだいいんだけれど、耳に入ってくるのは、僕には雑音で頭がガンガンする。
先生は練習の時に2回テントの下で僕を休ませてくれていた。
ママが頼んだと思ったら違っていて、先生が僕のために「すわっててね」と言ってくれていたんだ。それは僕にとってパニックを起こさないですんだから、驚いたし感謝したよ。
僕は思ってたんだけれど。
他の自閉症スペクトラムの生徒の子にも、同じようにして欲しいって。僕だけが特別じゃなくてさ。僕が知らないだけで、ちゃんと応援してあげてたのかもしれないけれど。
あの校長先生と教頭先生なら大丈夫だったろうね。
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1番苦手な競技は、ボールをポンポンたたきながら、走ってゴールすることだった。
僕は運動が苦手だ。
バランス感覚ってのがないらしいし、同時に2つのことが出来ない。
とまっていて、地面にボールを叩くっていうか弾ませるのも苦手だったけど、走りながらというのはとても難しかった。
運動会の時に、大きな音で始まりのピストルの音がする。
その音にも頭がズキズキしたよ。耳栓をすると良かったと後から気がついた。
僕の順番になった。
練習の時もそうだったけれど、ボールがどこかに行ってしまう。それを持ってきて、その場所から走るんだけど、またボールが逃げる。
ほかの子達はゴールしてたと思う。
教頭先生が来て、僕を抱きながらゴールに走った。
沢山の人の大きな声は聞こえてた。
集中してて僕には聞こえなかったけれど「がんばれ」って言ってくれる人がいたり、ゴールした時には拍手があったみたいだ。
その日の夜、ママが泣いていた。
ドアはしまっていたけれど、聞こえてたよ。ソ~とあけて見たんだ。
たぶん、切り取った新聞の記事を読んでいた。
中学生の自閉症の子の運動会で、大縄跳び競技があって、力のある生徒が「参加しようよ」って、自閉症の子をおんぶか抱っこして、飛んでいたらしい。
人間ピラミッドでは、その子は1番下のはしっこに体操座り。
だから、誰も支える負担がないのに、ちゃんと参加出来たんだって。
大人だけじゃなくて、生徒でも応援出来る優しい人がいる。優しいのは大人も子供も関係ないんだね。
ママは僕を抱えて走ってゴールしてくれた先生のことを思い出していたみたいだ。
きっと、ほかのことでも、僕の知らない時に泣いていたんだと思う。嬉しい時だけじゃなくて、辛い時にも。
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3年生になると校長先生達が変わった。
ある日、朝礼の時に、僕は前の子から、たたかれたんだ。紫色になっていた。あざだ。
ほかにも僕に変なことを言う子がいたよ。
担任の先生は、叩いた子に聞いたらしいけど、「相手の子に聞いたけど、そんな事実はありません」って、わかってくれなかった。
校長先生と教頭先生は「クラスのことは担任にまかせてある」って言う。
僕は学校に行くのが嫌になってたよ。
メガネ先生は考えてくれた。
担任の先生から、メガネ先生に電話をするようにとか。
学校、メガネ先生、僕たちの3者で話し合って、ルールを作ったりすることを。
担任の先生は「話し合いは学校に来てから考えます」って、聞いてくれなかったんだ。
メガネ先生は言ったよ。「理解しない学校なら、行かなくていいですよ」と。
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困ると伝えたけど、毎日ポストに宿題のプリントが入っていた。これは僕たちにとって、とてもプレッシャーだった。
やらなくてもいい、提出する必要はないけれど、「入れておかないと、担任としての仕事をしてないって思われてしまうんです」だって。
インターホンごしに聞こえる先生のこと。
僕は、人から優しくされたことがない人なんだろうなって、かわいそうに思ったよ。
沢山の宿題プリントで勉強をすることは出来ないから、気持ちが焦ってしまうから入れないで欲しいと伝えたけど先生はやめない。
前はインターホンを押してたけど、押さなくなっただけだ。
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考えてくれる人には、お礼は言うね。
だけど、考えてくれない人や何度も説明したり、お願いしても伝わらない人には、ママもメガネ先生も僕も困るだけだ。
僕たちの話しを全部、聞いて言う通りにしてほしい、そんなことじゃないんだ。
前の先生達みたいに、全部は無理だけど出来ることは応援しよう、話していきましょうっていうのがあると良かったのにね。
ママは、
「こうちゃん、別の学校に行きたい? 行きたくない? 今は、わからない?」
「僕をわらう子。たたく子。その子達を注意してくれる学校なら、行きたい。」
調べるのには、どのくらいかかったのかわからないけど。
「話を 聞いてくれる学校が あるかもしれない。」
「そこに行きたい。」
「『あるかもしれない』だよ。絶対だと やくそく できない。
だから、いっしょに 見にいきましょうか?」
「うん。」
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フリースクールに行くことになったんだよ。
最初の先生は男の先生。
僕は、その頃は、ずいぶん話すことは出来た。なぜか敬語も使っていた。
読み書きは別だ。努力の問題じゃなくて、生まれつき脳回路が変わってるんだから、ゆっくりの練習がいい。
僕が出来ないことや漢字の練習をいっぱいした。
プリントが進まない。
何していいかも、プリントの答えもわからない。
漢字の練習をするとね、僕は「例」を見て、そのとおりに書きたかったんだ。同じように書けるまで、何度も消しゴムで消して、繰り返すから進まない。
怒られることはなかったけれど、先生はずっと足を動かしたり、鉛筆をトントントンと動かしていた。
納得がいくまでしたい。
こだわるという個性だけど、良い言い方をすると丁寧なんだ。
1年生の時からそうだったんだけど、消して直すからプリントやノートの紙がやぶれることもあったよ。
メガネ先生のアイデアで、解消されていた。
「きれいな字 だね。
3回書いたら つぎの字 を 書こうね」。
フリースクールの先生は、アイデアを知らなかった。
僕は漢字や読む練習も辛かったけれど、先生の仕草が怖くて早く帰りたかった。
自分が出来ないことで人がイライラしてるのを見ると、イライラが感染したみたいに苦しいんだ。
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女の先生に変わった。
先生と同じ本を見るけれど読むのは先生だし、3か4ページだけだ。
その後には手を繋いで外を歩き、青信号と赤信号のことを声に出しながら、止まったり歩いたりした。僕が危なくないように確認してくれたんだと思う。
信号のことは、小さい時から知っていたよ。お兄ちゃん達と外に行く時に何度も聞いてたから。そう話すと「知ってたんだね」と笑ってくれた。
先生と料理もした。僕は料理が好きだったから楽しかった。
家でも、お兄ちゃん達とチャーハン作ったり卵を焼いたり、苺を切って甘い料理にしたりしてたし。
台所が高いから、お風呂の椅子を持ってきて、のぼって料理するんだよ。包丁はお兄ちゃんも僕も子供用だ。
それでね、ママが出かけてる間に料理を作っておいて、ママのお昼ごはんにしたことあったんだよね。
ビックリしてた。嬉しいからって、写真もとっていたよ。
毎日じゃなくて決まった日にしか行かなかったけれど、楽しくて好きな場所だった。
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フリースクールって、塾みたいなものだよね。たくさんの生徒がいたんだよ。僕みたいに困ってしまう子や、ほかの理由で学校に行けなくなった子が。
どうして、ここだとみんな大丈夫なんだろう。
普通の学校よりも、先生の生徒への見方が違うし応援の方法を研究していたからだろうね。
最初の男の先生のように慣れてない人や「相性があわない」こともあるけれど、代表の先生に言えば変えてもらうことは出来ていた。
「居場所」というか「行ける学校」で、嬉しい場所。
困り感が、少ない所。
でもね、フリースクールがあること自体が、この社会自体が、「少数に属する人」と普通の人とを分けてしまうことには、変わりがないんだよ。
某SNSで、この作品のリンクを紹介しましたら、「僕」と同じような立場の方々が、読んで下さったようでした。
ありがとうございます。
私の文章や表現の方法が、わかりにくいかもしれません。
これからも、読んで下さるかもしれないので、行間をあけました。
見直して、句読点も、多くしてみます。
ただ、皆さんの「困り感」が、私にわかりません。
この話に興味を持って下さったのに、読みにくかったら、ごめんなさい。