沢山ある内の一つ、選び取った一つ
沢山ある内の一つだよ、と彼女は言った。
淀みない黒目が俺を射抜き、俺もその目を見詰めながら笑ったのを覚えている。
苗字は作間、名前は不明。
彼女を名前で呼ぶ人は、校内では一人も見られず、学年生徒教師問わず、作間、作、作ちゃんと呼ぶ。
かくいう俺も、彼女を作ちゃんと呼んだ。
名前不明で、ミステリアスかと言えば、実際の本人はミステリアスというよりも不思議という言葉が似合う。
マイペースに自分なりの思想と思考を持ち合わせ、こだわる物事は少ないが少ないそれには決して譲らない信念も理想とある。
とどのつまり、自分の確固たるもの以外には、興味を示さないのだ。
そうして、興味を示さない、淀みない黒目で俺を見据えて「沢山ある内の一つだよ」と言った。
抑揚のない、感情の込められていない声で、まるで鈴を転がしたような響きで。
***
夕日で赤く染まった教室に、作ちゃんと俺の二人が残り、作ちゃんは詰まらなさそうな顔で、ハードカバーの小説を捲っていた。
紙の擦れる音を聞きながら、日誌にボールペンを走らせる。
「ごめんね、作ちゃん」
「……何が?」
「待たせちゃって」
日誌から視線を上げれば、怪訝そうに眉を数ミリ動かした作ちゃんが問い、答える。
日直としての仕事を一日分終えて、さあ帰ろうとしたところで、作ちゃんに一緒に帰ろうと声をかけたのは俺だ。
そうして帰り際、担任の先生が「これ忘れてたわ」と日誌を手渡してきた時には、作ちゃんが横であーあと呟いたのは忘れない。
結果、日誌を受け取ってしまった俺は今に至り、作ちゃんを待たせている。
眉を元の位置に戻すと、嗚呼、と短く頷いた作ちゃんは「別に」と答えた。
「一緒に帰ることを了承したのは、ボクでしょう。だから待ってるだけだよ」
「……優しいなぁ。作ちゃんは」
心の底からの言葉だが、今度はあからさまに顔を歪められた。
俺がその顔を目に映せば、直ぐに無表情に戻り、本を捲る。
もう後半戦らしく、捲るスピードが早くなっている気がした。
「……崎代くん」
癖があり長く茶混じりの黒髪をサイドに寄せて、耳の下辺りで結い上げている作ちゃんは、その髪を軽く払いながら俺を呼ぶ。
顔を完全に上げ、本に黒猫のブックマーカーを挟んでおり、俺も手を止めてしまう。
「現在人類は七十億以上の個体数を誇っているのだけれど」
「ん?」
「全人類それぞれと一秒ずつ目を合わせようとすると、二百年は必要になるらしいよ。そんな中で、人は出会って恋して愛して結婚して別れて涙する。まるで、奇跡だね」
閉じた本の上に手を置いて言う作ちゃんは、相変わらず何を考えているのか分からない顔をしている。
まるで遠い国の物語でも読み聞かせているような、薄いベールをまとった声で言うので、素直に頷いてしまう。
しかし、作ちゃん本人は、納得がいかないように、首を左右に数回揺らす。
「……なら運命の赤い糸は?知ってる?」
「うん。小指にあるっていう……確か男は右手で女の子が左手の方だったよね」
「……そうだけど、そこまで知ってるんだね。まあ、良いや。運命の人と結ばれた場合には糸はそのままピッタリ繋がってるのだせれど、運命の相手じゃない場合にはその糸はリボン結びされるわけだけれど」
俺の出した豆知識のような小ネタに、溜息を吐いた作ちゃんは、自分の前髪を軽く掻き上げながら言う。
紙に落としたインクが滲みながら広がるように、ゆっくりと確実に言いたいことが分かり始める。
本に取り付けてある、薄い紙のカバーを爪で叩く作ちゃんは、僅かに細めた目を俺に向けた。
淀みない黒目は、良くも悪くも生気が感じられない。
一部で作ちゃんを人形のように可愛いだとか、綺麗だとか言うのは、その目も一つの要因だろう。
「恋でも結婚でも良いけれど、その結ばれた赤い糸の中でどれだけの数が確かに繋がれた糸なんだろうね?」
「そっちの方が数は断然多いんじゃないかなぁ、と俺は思うよ」
「そうだね」
カツリ、爪が音を立てる。
本のカバーに爪を立てるように、引っ掻くようにしている作ちゃんは、黒目をくるりと動かして教室を見た。
赤い光で色付いた教室は閑散としていて、僅かにズレて並んだ机が人がいた証明のように思える。
壁に引っ掛けられた時計が、秒針を動かす音が響き、沈黙を埋めようとした。
遠くから聞こえる運動部の掛け声も、BGMにしては音量が足りず、作ちゃんが小さく浅く吐いた息が聞こえてしまう。
「沢山ある内の一つだよ」
淀みない黒目が俺を射抜き、俺もその目を見詰めながら笑う。
俺は作ちゃんの答えを知ってて、作ちゃんも俺の答えを知っている。
***
「……うー、ん?」
ピピピピピピ、絶え間なく響く一定の音に重い瞼をこじ開け、手を伸ばす。
ナイトテーブルに置かれたスマホを手に取り、親指で下から上へなぞれば、ピタリとその音が止まる。
「煩い」
「ごめん……」
隣からやけに透明度の高い声が聞こえ、寝ぼけ眼のまま謝る。
寝起きとは思えない滑舌に身動ぎ、隣にいる人物の顔を見た。
しっかりと閉じられた瞼は白く、長いまつ毛を完全に伏せている。
誰をリスペクトしたのか『SUSHI』と書かれた、カレーの描かれたTシャツを着ていた。
正直そのセンスが分からず、一度パジャマをプレゼントしたのだが、着込んでいることを見たことがない。
あれー?と首を傾げたのはここ最近の話だ。
身内贔屓も込みだが、容姿が良いだけにセンスが方向性を間違っていると目立つ。
ズボンは黒白ボーダーで普通の短パンだが、余計に目立つのを本人は分かっているのか。
それでも俺は最終的に、可愛いなぁもう、という気分になる。
高校時代よりも伸びた癖毛を白いシーツの上に広げ、健やかに穏やかな寝息を立てる作ちゃんの顔を覗き込み、掛け布団を引き寄せながら思い出す。
懐かしい夢を見た、高校時代――正確には五年は前の夢だ。
「『沢山ある内の一つ』かぁ……」
不健康なほど白い頬を撫でれば、僅かに形の良い眉が歪む。
「運命じゃなくても、沢山いる人の中から作ちゃんを見付けて選べた奇跡が、俺は、運命よりも尊いと思うよ」
表情筋が働く機会の少ない作ちゃんは、頬が柔らかい。
不健康なほど白い頬を手の平で撫で、包むと、カッと音がする勢いで目が開かれ、じっとりと据わった目を向けられる。
「同意のない行為は犯罪だよ」
「まだ何もしてない!!」
「……『まだ』って時点で予備軍だから」
乾いた舌打ちが聞こえてきそうな言葉に項垂れると、体を起こす作ちゃん。
落ちてくる前髪をサイドに流しながらこちらを見る作ちゃんは、やはり寝起きには見えない顔色で溜息を吐く。
「……選べるのも、選ばれるのもある種の特権だねぇ。まあ、今でも趣味は悪いと思うけど」
薄い手の平で俺の頭を撫で、細い指先で頬をなぞっていく作ちゃん。
良く分からないTシャツで胸を張り、フッ、と鼻から息を抜くように笑い、寝室を出ていく。
揺れた癖毛が、同じシャンプーの匂いを残していき、俺は再度ベッドに転がる。
軋むスプリング音を聞き、喘ぐような唸り声を上げれば、煩いんだけど、と戻って来た作ちゃんに白い目を向けられたのは言うまでもないだろう。