甘酸っぱ (溝口の……)
野球部の掛け声が聞こえる。
テニス部の帰り、副部長補佐のみのりは部室の鍵を返しに行った帰り道、フェンス越しに野球部の練習を歩きながら眺めた。
ライトに照らされて明るく見えるグラウンドに、監督が声を張り上げながらノックをしているショートが見える。
白球は一塁線ラインギリギリを走り、ショートが腕を伸ばしても取れない様に、監督からの檄がとぶ。
帽子のつばに手をやり、謝りの合図をしてまた身体の体勢をすぐさま整える。
今度はセカンド方面。
次は取った。そして直ぐに一塁へ。
次々と繰り出されるノックに食らいついているショートを、みのりはさりげなくゆっくりと歩みを止めないように、でも、なるべく長く眺めた。
校庭からはみ出して枝を伸ばす桜の木は、その葉を少しずつ落としながら冬への準備をしている。
もう、ショートを見るのには振り向かなければいけない角度になって、みのりは寂しまぎれに落ち葉を蹴る。
途端に目についた自分の太腿を見て慌ててスカートの裾を伸ばした。
それで隠れる訳ではないけれど、太い脚が気になっているみのりの癖だ。
みのりの好きな野球部のショートは、溝口と言う。
同じクラスで明るくてでもうるさくて、最初は騒がしい奴、としか思ってなかった。
夏の終わり、一年のまとめ役の副部長補佐になっていたみのりは、部室のドアの開閉、最後の鍵閉めを任された係だった。
今日は夏休み最後の練習で、部活終わりに一年女子で集まってアイスを食べよう! と約束していて、友達は皆先に行って席を取ってもらう事になっていた。
一人、一緒に残ろうか、と言ってくれたけど、暑いし先に行ってなよ! と明るく送り出して、みのりも直ぐに後を追うつもりだったのに。
校庭の端にある、黄色いボールを見つけてしまった。
テニスコートは校庭の側道を挟んですぐ隣に有り、テニスコート内のボールは全て片付けたのは皆で確認したけれど、校庭に飛んだ物までは確認しなかった。
「あー、もう! 誰よ、ホームランしたの!」
みのりの学校のテニス部は硬式で、中学は軟式でやっていて、高校から硬式に変わり初めて挑戦する一年生が多かった。
軟式テニスの癖でラケットを振り抜くと、硬式はボールが硬いのですぐホームランと言ってボールを高く遠くに飛ばしてしまう。
みのりはテニスクラブに入っていて慣れているけれど、一年生はなかなか自分の癖が抜けなくてよくホームランをしていた。
柵を飛び越えて行く大ホームランは、ホームランをした子が取りに行く約束になっているのだが。
校舎に備え付けてある時計を見ると3時半を過ぎていた。用事があって4時半までしか居られない、と言っていた子の顔が頭によぎる。
(今からだと間に合わない……)
片付けにはまた職員室に戻り、体育倉庫の鍵を借りて開けなければならない。
(でも)
みのりは一瞬迷ったが、左肩にかけたテニスバッグがズレないように手で掴みながら全力で駆け出す。
見つけたら、そのままにはして置けない。
ザザーと砂埃を上げてテニスボールを掴むと、また全力で職員室に走り出したときだった。
おーい竹内ーー! と叫ぶ声がする。
走りながら見ると、同じクラスの溝口が手を振っている。
「ごめーーん! 今、急いでるーー!!」
みのりも走りながら応えると、
「ボール投げろーー! 片付けてやるよーー!」
とまた大声が聞こえた。
ええ? と止まると、また遠くてぶんぶん手を振り、なーげれーー! と叫んでる。
これを? 片付けてくれるの?
躊躇していると、いーからなげーー! とまた叫ばれた。
みのりと溝口の間は目測百メートルは離れていそうで、とても投げて届く距離ではなかった。ちょっと考えて、テニスバッグを地面に下ろしてラケットを出すと、ワンバウンドさせたボールを普段とは逆にホームランになる様に面を上に向けて打った。
黄色いボールは綺麗な弧を描いて、ワンバウンドすると、後は小さく何バウンドかして、溝口の足元まで転がって行った。
「ナイスーー 竹内ーーーー!」
拾った溝口が笑ってボールをこちらに見せながら手を振っている。
「ありがとうーーーー!!」
みのりもラケットをぶんぶん振ると、溝口は頷いて体育倉庫の方へと走って行った。
ただ、それだけの事。
それだけなのに。
それ以来、みのりは部活が終わると、そっとフェンス越しにショートを見てしまう様になった。……教室では、あまり見ない様にしているから。
中学から一緒で親友の三村加奈から相談を受けたのは二学期が始まった頃。
加奈は隣のクラスの柏木くんと付き合っていて、初めての告白、初めてのデート、初めての恋にドキドキしている様を横で見守っていた。
みのりから見ると、大柄で身体も大きく、黙っていると結構な迫力の柏木くんが、小さくていつもにこにこと大人しく笑っている雰囲気の加奈と付き合う事にあまりピンと来てはいなかったのだが、本人が嬉しそうなので、まあ、いいか、と思っている。
そんな親友からの相談は、みのりの度肝を抜いた。
「あの……キスって、どのタイミングでするもの?」
ぐふっと、飲んでいたミルクティーを吹き出しそうになってゴホンゴホンと咳き込む。
だ、大丈夫?! と 加奈が綺麗なハンカチを出してきたので、汚れる、と手を口に塞ぎながら涙目で首を振る。
そのかわり、ペットボトルを無言で差し出すと、加奈は慌てて受け取ってくれた。
少し加奈から離れて両手で塞いでもう一度喉に絡まった紅茶をゴホンゴホンとなんとかする。
職員会議の都合で全部活が早く終わる日、加奈は相談に乗って欲しいと、前の晩にラインを送ってきていた。
その可愛らしい人柄とは違って、ラインだと言葉少なめで必要な事しか書かず、スタンプも無く顔文字も一つぐらいの加奈が、
相談にのって欲しいの
という言葉の後に沢山の……と、お願いしますのスタンプを押してきた。
もちろんだよ〜と明るい顔文字とスタンプを投げて、これはもしかしたら別れ話かも、と覚悟して来てみれば。
コンビニで買った飲み物を両手に、駅近くの小さな公園のベンチに座った加奈が、
顔を真っ赤にしながらもはっきり言った。
その表情は照れてはいなくて結構真剣なので、みのりも改めて居住まいを正す。
「自分からしたいってこと?」
「うん……」
その深刻な声に、ははーんとぴんと来た。
「まだしてない? 初ちゅー」
「う……」
かあ、と赤くなった加奈が可愛い。
「いつからだっけ付き合ったの」
「7月23日」
「あ、そうそう、終業式の日だったか」
「うん」
うん、と言った後、その時の事を思い出したのかふわっと笑う。女子から見ても可愛くて純朴な加奈が恋した相手が、まさか加奈と同じぐらいの奥手だったとは。
「なんか、普通は一ヶ月ぐらいって、いろんな所で書いてあるから……」
加奈の事だから結構いろいろ調べたんだろうな、と想像がついた。
そしてきっと一ヶ月経っても何もない事に不安になったんだろう。
相手は多分何も考えてないだけだと思うけれど。
みのりは加奈から自分のペットボトルを受け取って、そーだねぇ、と呟いた。
「私も付き合った事ないから分かんないけどさ、そうゆうのって、決まってなくてそれぞれでいいんじゃないの?」
みのりが問いかけると、加奈は頷く。
「うん……そうだと思うんだけど」
加奈はまだ蓋の開いていないホットレモンを手に持ちながら、じっと黙ってる。
みのりは、ああ、とピンと来た。
「したいか、キス」
「……」
今度はぶわぁ、とでも言うように顔を赤くした加奈が身体を折り曲げた。
ああ、耳まで赤い。可愛い。と思いながら、みのりも一つの案が心に灯って、足を組んで肘をつきながら明後日の方を向いていた。
だんだんと赤くなる自分の顔を抑えられない。
でも……
「あ、のさ……聞いてみるように、しようか、本人に」
「え? 本人って……柏木くんに? みのりちゃんが?」
「あ、いや、私じゃなくて……溝口に……」
驚いてこちらを見る加奈に、みのりは明後日の方向を見ながら応える。
しばらく黙っていた加奈が、みのりちゃん!と明るい声で言った。
みのりがちらっと加奈を見ると、目をキラキラさせた加奈がすぐ近くに来ていた。
「う、加奈、近い」
「みのりちゃん、まさか」
「なに」
「溝口くんの事?」
「……」
沈黙の肯定が分かったのか、きゃーーと両手を口元に当て、加奈が小さく叫んだ。
「いつから?!」
「……内緒」
「ずるい!」
「……上手く言えない」
明後日の方を向きっぱなしのみのりの言葉に、加奈がぷるぷるしているのが分かった。
「み、みのりちゃん……可愛い……」
「言うな!」
きゃーーと言って抱きついて来た加奈に、分かった、分かったから、と落ち着かせて、じゃあ、と策を聞かせる。
「え、でも、それでいいの……?」
みのりの策を聞いた加奈がみのりの見て気遣う。
みのりはいーのいーの、と笑いながら言った。
「ま、何て言ったらいいかなー、これを足がかりに何とか、という打算?」
からからと笑っていうみのりを加奈はじっと見ていたが、ん、分かった、と頷いた。
「でも、悩んだら、話して」
加奈がみのりの目を見てはっきりと言ったので、みのりも、ん、分かった、とちょっとだけ笑って言った。
「じゃあ、折を見て私から溝口に話すから」
「うん……よろしくお願いします」
加奈はうん、と言った後、みのりを見て一瞬迷った顔をしたが、やがてぺこりとお辞儀した。
私こそだよ
みのりはそれを見て、小さく呟いた。