7.出会
7
重い。
空気が、体が。
ゆらゆら、ゆらゆら
水に揺られるような感覚が渦巻いている。
苦しい。胸が痛い。
ああ、もう死んでしまいたい
目を開くとまた見覚えのない天井が見える。
部屋は小さな明かりでぼんやりとオレンジ色に照らされている。
起き上がり周りを見渡すが誰もいない。
ベッドのサイドテーブルにはストラッシュが用意してくれたであろう食事が置いてあるが、食べる気はしない。
体に重いようなだるさは残っているが、のぼせた時の気持ち悪さは今は感じない。
幸広は靴を履くとそのまま廊下へ出た。誰もいない。
なんとなくそのまま廊下を進む。
ここへ来た時に見た中庭が広がる。空はまだ暗い。
(そういえば泉があるんやっけ)
フラフラと中庭に向けて足を運ぶ。
廊下と中庭の境界に立ち、おもむろに手を伸ばすが、特に何もおかしいことは起こらない。
特別な時に、特別な人間しか入れないように結界が張ってあるらしいが、入ったら警報がなるとかそういう仕組みでもないらしい。
今度は思い切って足を踏み出した。体はもう中庭の敷地内に入っている。
「何やねん、嘘か」
小さく舌打ちをする。余所者には本当の事は話せないということか。
そちらの都合で連れてこられたにも関わらず、先ほどからどうも余所者扱いされている感覚が拭えない。全員が全員悪い人ではないのはなんとなくわかるが、もしかすると自分だけいいように使われて捨て置かれる可能性もある。警戒はしておいた方がいいかもしれない。
なんだかここ最近でかなり心が荒んでいる。かといって直接人に文句を言えるほど根性が座っている性格ではない。内に秘めて後で誰もいないところで爆発させるタイプだ。
そんなことを考えながら泉を目指して中庭を進む。
しかし思っていたより広く、自分が今どの辺りにいるのかよくわからない。最悪端を目指して歩けばどこかの壁か廊下に出られるはず。
すると月明かりが差し込む開けた場所に出る。
そこには幸広が目的としていたであろう泉が凛と佇んでいる。ここは空気が違い、何か不思議な印象を受ける。神聖な場所、というのは嘘ではないらしい。
「思ってたより小さいな」
キラキラと月の光が反射して綺麗だ。泉の側まで行くとゆっくりと腰を下ろした。
水面には月が映る。膝を抱えてそれを見つめていると、何となく心が落ち着く気がした。
(俺ホンマ何しとんやろ)
少し寝たからか、頭は冴えている。
王女の病気を治すために、連れてこられた。
何だかよくわからないが呪いをかけられた。時折痛むこの心臓を何とかしようと思ったら王女の病気を何とかしないといけない。誰が?自分が?
日本ではもうすぐ自分の居場所がなくなる。むしろもうすでにないのかもしれない。
戻ったら仕事を探さなければ。
いや、いっそ自分の好きなように生きようか。
何をしよう。好きなこと?好きなことってなんだろう。何が好きだった?何がしたい。わからない。
仕事を始めてから会社を行き来するだけの生活だった為、自我をなくしてしまったのではないか。
何の為に生きているのか。自分の存在意義とは何なのか。幼い頃はもっとあれがしたい、これがしたいと希望に溢れていたはずだ。あの頃の自分はどこへ行った。
黒いモヤモヤが胸を覆う。一度気持ちがマイナスになり始めるとどうにも止められなくなる。
ああ、いっそこのまま消えてしまいたい……
「そんなことさせない」
自分の負の気に飲まれそうになった時、背後から声が聞こえた。
慌てて振り返るとそこには月明かりに照らされ銀色に輝く長い髪を地面いっぱいに広げる可憐な少女だった。
あまりにも美しく長い彼女の髪は、月明かりに照らされているからというよりも自分で淡く発光しているようにも見える。
しかしその見た目に反して、少女は大股でズカズカと幸広へ歩み寄ってくる。そして幸広の顔を掴むと、そのまま勢いをつけて自分の額を幸広の額にぶつけた。
「いっ……!」
「……たぁ……!」
少女は自分の額を押さえてうずくまる。痛いと言いたいのはこちらのセリフだ、と言葉にしようとしたが、痛すぎて声にならない。逆に少女の額が割れていないかが心配になる。
「なんやねん、お前……」
震える声でようやく言葉を発するが、力は入っていない。少女は涙目で額を押さえている。
「あなたこそ何なの……!人の秘密の場所でそんなどす黒いもの出さないで!」
白い布を簡単に切り取っただけのようなシンプルなワンピースを纏った少女は見た感じ中学生か、頑張って高校生くらいだ。
痛みが落ち着いたのか、少女はひょろりとした腕で引きずっていた髪をかき集めている。
「そもそも、どうやって入ったの?結界が張ってあるはずなんだけど」
「結界?普通に入れたけど」
「ハァ?」
少女は髪を集めながら「あの人たちサボってるんじゃないか」などとブツブツとつぶやいている。
髪を集め終わった少女はパタパタと毛先のホコリを手で払うと、それをマフラーのように首に巻き、幸広の隣に座った。
「え」
「何?」
「いや、まさか隣に来るとは思わんかったから……」
少女はムッと口を尖らせる。足を泉につけるとチャプチャプと波を作って遊びだした。
「ここは誰も入ってこられないから、私の秘密の場所にしてたの。夜はだいたいここにいる。そうしたら闇の力が全開のあなたがいたから驚いた」
闇の力……?確かにモヤモヤが最高潮に達していた。そのことを言っているのか。
それにしても、誰も入れないというが二人ここにいる。ご自慢の結界は穴しかないのか、全く意味をなしていない。
この少女は何者なのだろう。こんな時間にこんなところで何をしてるんだろう。
疑問は浮かぶが聞いてもしょうがない。
「聞けばいいのに」
「へ?」
「聞きたいんでしょ?私が誰なのか。なぜここにいるのか」
相変わらず足で水を弄ぶ少女に心を読まれる。なぜ考えていることがバレたのか。
「だって、あなた心の声が強すぎるから」
ちらりとこちらを見る少女の瞳は吸い込まれるような輝きをしており、目が離せなくなる。
心の声?本当に?なんでも読まれてしまうのか。
「言っておくけど全部分かるわけじゃないから。強い部分を断片的に感じるだけ。そこまで万能じゃない。それに全部拾ってたら私の精神が死んじゃう」
と言いつつやはり読まれている。この少女の魔法か。
見つめられているのでなんとなく目を逸らしてしまう。変なことを考えないようにしないと……と思えば思うほどドツボにはまってしまう気がする。
しかし少女は幸広の目をじっと見て離さない。
「な、なに?」
綺麗な少女の瞳は月の光で照らされ、淡い赤色だと分かる。
少女とはいえど、こんなにも真っ直ぐ女性に見つめられることはそうそうないので、幸広はどうしたもんかとたじろぐ。
「あなた……」
やっと言葉を発したと思うと、少女の顔が悲しそうに少し歪む。
「あなた、辛いことがあったのね……心が悲鳴をあげてる。かわいそう」
「かわいそうって……」
「小さい時に」
ざわ。
血の気が引く。
「とても一人では抱えきれない」
「やめろ」
心がざわめく。
それ以上言うな。
「かわいそう」
やめろ。
かわいそうとか言うな。
幸広は膝を抱えて頭を埋める。
いつも周りの人間は見て見ぬ振りだった。
だからずっと自分を強く見せようとしてきた。誰にも気付かれないように。
みんなの前では『明るい幸広くん』を演じなければいけない。
そうしなければ自分を保てなかった。
そうする自分が「自分」を維持することが出来た。
ずっと考えないようにしてきた。蓋をしてきたんだ。今更開けないでくれ。
心臓が痛い。息ができない。
嫌いだ。自分のような奴は生きていてもしょうがない。
こんな自分、嫌いだ。
ああ、消えてしまいたい。
「そんなこと言わないで」
ふわり、と頭を何かが覆う。
「何があったのかまでは私には分からない。でも辛いのは分かる。ごめんなさい。そんな悲しいこと言わないで」
少女は小さな腕で幸広を抱きしめ、髪を撫でる。
その行為に幸広の目から静かに涙が伝う。
人の体温に触れたのはいつぶりだろうか。
これまで決して人に話したこともなかった。これからだって話すつもりもない。
人はあまりにも辛いことがあると全てを忘れてしまうことがあるらしいが、それは幸広には該当しなかった。
今でもあの惨状は目に焼き付いている。平静を装うのに全神経を使うほどに。
幸広は我に返り、無意識に涙していることに猛省した。
自分を見失ってはいけない。ここで崩れていてはこの先到底生きていけない。自分はこの過去を抱えて生きていかなければいけないのだから。
抱きしめる少女をゆっくりと押し退ける。
「ごめんな、初対面の子に情けないとこ見せてもたな。大丈夫やから、気にせんとって」
「でも……」
幸広は何事もなかったかのような笑顔を見せる。
しかし少女の表情は曇ったままだ。
「そんな顔せんとって。君には何か能力があるんやろうけど、人には触れられたくないことがあるねんて。もうちょっと大人になったら判るかな」
そう言って少女の顔から視線を外す。少女はムッと幸広に指を突きつける。
「ちょっと!子ども扱いしないで!っていうか、私のが断然あなたより大人なんだけど!」
「ハァ……?どういう……」
「あなた、年齢は」
「二十……」
最後まで言い終わる前に、最近同じようなやり取りをしたことを思い出す。ちらりと少女の顔を見ると、その幼さが残る顔は勝ち誇ったような表情をしている。
(やられた……)
この世界では幸広がいた世界より時間の流れが速く、かつ長寿だとプロロクツヴィが言っていた。
「どうしたの?何なら私の年齢を教えてあげても良くってよ」
先ほどからの少女の言動からは他人の心情や過去を読み取ることができると推察される。ということは、幸広の大体の年齢はもうバレていると考えるのが筋だろう。
ニヤニヤとかなり近距離に詰め寄ってくる少女の顔を両手で防ぐ。少女の表情は先ほどとは打って変わり明るくなっていた。
クスクスと屈託なく笑う少女に、幸広の荒んでいた心も若干は和らいだ気がする。
「さっきは本当にごめんなさい。これ以上は聞かない」
「うん、ありがとう」
少女は立ち上がると、白いワンピースの両側の裾を指先で持ち上げると、美しく礼をした。
「わたしはミシュレンカと申します。よろしく」
その仕草に育ちの良さが滲み出る。生活階級が高い人間特有の嫌な感じは彼女からは感じられないが、その崇高な雰囲気が感じられた瞬間劣等感のような恥ずかしさがこみ上げてくる。
「あなたは?」
「へ?」
「あなたの名前」
腰に手を当て、先ほどまでの生意気そうな雰囲気に戻る。
「ゆ、幸広です。よろしく」
「ふふふ。じゃあ親しみを込めてユキって呼ぶね。キレイな響き」
どこかの誰かと同じ呼び方をされ、少し笑えた。
しかし彼女の名前は横文字でややこしく、幸広はすでに思い出せない。そんな幸広の心境を読み取ってか彼女は少し怒って改めて名乗る。
「もう!私はミシュレンカ!覚えてよね!まぁ仲良くなった証として特別にミーシャと呼ぶことを許可するわ。光栄に思いなさい」
「めっちゃ上からやな」
歯を出して笑うミシュレンカは再び幸広の隣に腰掛け、泉に足を浸ける。
「ユキはここで何をしてたの?」
「んー、現実逃避?」
「ふーん」
「……」
緊張しているのかいざ会話をしようとすると続かない。
女性と話す事など職場以外ではほぼ皆無だった幸広に、今この状況はとてもハードルの高いものだった。ましてや若い(?)人と話をするスキルなど持ち合わせていない。
というかこの世界に来たのはつい先ほどなので、こちらでの話題など全くわからないし、そもそも共通している事など何もない。
幸広が話題提供に手こずっていると、ミシュレンカが沈黙を破る。
「明日からお祭りだね」
「え、あ、そうみたいやな」
ミシュレンカは相変わらず足で水を弄んでいる。
「ユキは外の人?お祭り、参加したことない?」
「そやなぁ、ここのお祭りは初めてやな」
「へー。ユキのところにもお祭りってあるの?」
「あるでー。国中どこかしらで何かしらのお祭りしよるわ」
「へぇ!そんなにお祭りが盛んな国に住んでるんだ!どんなお祭りがあるの?」
「えっと……」
興味を持ったらしく、かなり前のめりで尋ねてくる。幸広が知るお祭りの説明を簡単にしてみるが、説明が下手なのでうまく伝わっていない気がする。こんな時にスマートフォンがあれば楽なのに。
しかしミシュレンカは目をキラキラさせ、しきりに「へー」「すごーい」などと反応してくれるので、話をしている立場からしてみると悪い気はしない。
だが次第にずっと会話をリードされているような感覚に陥り、このままでは関西人の名が廃ると思いつく中で最大に共通する話題を探す。
「ここのお祭りはお祈りするんやろ?どんな感じなん?」
「そうだなー、説明は苦手なんだけど……この国一番って言われてる祈祷師さんたちが集まって、『これまでありがとー、これからもよろしくねー』って感じの魔法をこの泉に入れるの。この泉は東の聖山からの恩恵を直接受けていて、その魔法は聖山に直接送られる。それを聖山が受け取ったよーってお返事に山から光をわーって届けてくれて……」
「わーっと、ね」
説明をしながらだんだんと身振り手振りが追加され、最後には全身で光の軌跡を表現するミシュレンカに、なんとなく地元のことを思い出す。
「わ、わかってないわけじゃないんだからね!ちゃんと習ったし……!」
焦って弁明するミシュレンカの顔はみるみる赤くなっていく。そんな彼女を今度は幸広がにやけ顏で見ている。
「その!光の恩恵で!この国は栄えてるの!」
「そーかー」
「信じてないでしょ!」
ぽこぽこと殴られるが、痛くはない。
徐々に彼女の面白い反応に魅了されていくのが分かる。こんなにも笑ったのはいつぶりだろうか。このまま笑って過ごせれば幸せなのに。
するとどこかで誰かが何かを叫んでいるのが聞こえる。
「ん……?なんやろ」
「さぁ」
一瞬この立ち入り禁止区域に入ったのがバレたのかと思ったが、そうではないらしい。
聞こえるか聞こえないくらいの声だったが、誰かを探しているような声だ。そして何だか聞き覚えのある声で……
「ユキヒロ殿ー!」
『おーいユキヒロー』
名前が聞き取れた段階でようやく幸広はハッとした。
「俺か!」
聞き覚えのある声はストラッシュとパネンカだった。そういえば誰にも何も言わずに部屋を出てきたので、探し回るのは当たり前だ。
「ごめん、ミーシャ。俺そろそろ行くわ。相手してくれてありがとう。楽しかった」
「うん」
幸広は立ち上がると同じように立ち上がろうとしていたミシュレンカの手を取る。その手をミシュレンカは握り返す。
立ち上がってもすぐに手を離そうとしない彼女の顔を覗き込むと、ミシュレンカは顔を上げ潤んだ瞳を幸広に向ける。その表情に一瞬心臓が跳ね上がる。
「また、来てくれる?」
その表情からは切実、といった感情が読み取れる。そんな少女に対し愛しささえ感じ始めていた幸広は、軽く頭を振り「現実を見ろ」と自分自身を諭す。普段なら人に対して特別な感情など生まないようにしている。この神聖な雰囲気の漂う環境のせいだろうと、幸広は自分の感情に蓋をする。
今にも泣き出しそうなミシュレンカの頭に手を置いた。ツヤのある銀の髪が指に馴染む。
「そやな、ちょっと自分でも今後どうなるかわからんから絶対とは言えへんけど、また来る」
その言葉を聞き頭の手を払いのけると、少女は満面の笑みを浮かべた。
「子ども扱いしないでってば!絶対だからね!毎日ここで待ってるから」
「いや、毎日は無理やって」
「廊下まで連れてってあげる!来て!」
ミシュレンカは幸広の返事を待たずに、手を取り真っ直ぐ目の前の草むらに飛び込む。人が通る道ではないことは確かだ。掻き分けて進んでいくので、その反動で戻ってきた木々の攻撃を食らう。肌が露出している部分にはどんどん傷が増えていく。
幸広の手を引きながら、ミシュレンカは淡々と口を開く。
「ここ、立ち入り禁止区域だから入ったこと絶対誰にも言っちゃダメだよ」
「言うたらどないなるん」
彼女の足が止まる。くるりと真顔で振り返ると、親指を立てて首の前に一本の横線を引いた。
この世界でもこの表現をすることに幸広は驚いた。
「大丈夫、俺友達おらんから」
「えー」
心から覚めたような目で見られ、幸広は笑う。釣られたようにミシュレンカも笑うが、すぐに真顔に戻る。
「ねぇ、お願いがあるんだけど」
「さっきのまた来てねっていうやつ?」
寂しがりやの少女をあやそうと彼女の頭に再び手を置こうとするが、その真剣な眼差しに制止される。
「あなたがこれからする事、多分とても大変だと思う。あなたを巻き込んだ事、私からも謝ります。ごめんなさい。でも、必ず……必ず叶えて欲しい」
ワンピースの裾を握る手は小刻みに震えている。その姿を見て、不思議と幸広はその言葉に応えなければならない義務感が生まれる。自分は『ある目的』のためにここに来たのだと。
幸広は引っ込めかけた手を改めてミシュレンカの頭に置き、くしゃりと撫でる。
「わかった。俺に何ができるかは今はわからんけど、役に立てるなら」
こんな幼気な少女に切に願われると応えない訳にはいかない。
「……ありがと」
言葉と同時に俯いた少女は、片手で目元を拭う。
「よし!じゃあさっさと行きたまえ!」
勢いよく顔を上げた少女は幸広の後ろに回り、背中を押す。
「いや、誰が引き止めとってんな」
お互いに笑いあうと、幸広を草むらから押し出した。
そこには廊下が見える。
幸広は最後に手を振ろうと振り返るが、そこにはすでに少女の姿はなかった。
「なんや、あっけないさよならやな」
そうは思うが、廊下に出てしまうと人目に付きやすいので、いつまでもダラダラしていられない。なんせ、見つかればクビが飛ぶらしいのだ。
さて、問題はここからだ。
「ここはどこかなー」
中庭に入った場所とは違う場所に出てきたことはわかる。しかしまさかこの中庭がここまで広いとは思わなかった。ミシュレンカに案内してもらう際に一番近いところをリクエストすればよかったと後悔する。
特に方向音痴とかではないが、さすがに初めて来る場所は案内なしでは目的地にはたどり着けない。
このままここにいても誰かが通るとも限らないし、仕方がないので適当に歩いてみることにした。迷子になった時はその場から動くな、と小さい頃に教わったのだが。
幸広独自の方向感覚を研ぎ澄ませ、勘で進む。すると背後から声をかけられた。
「ユキ?」
振り返るとまさに救世主。このときすでに懐かしく感じた声の主は地元の人間だ。
「オル!なんか久しぶりやな」
「ああ」
「俺さぁ、迷子になって……」
「そうか」
幸広が最後まで言い終わる前にオルヴァーハは幸広の横を通り過ぎる。
「ちょ、ちょちょちょ!」
ひらひらと旗めくブルーのマントを両手で掴む。その反動でオルヴァーハは立ち止まった。
「なんだ?」
「なんだやないやろ。道に迷ってるって言うてる奴おんねんから助けろや」
「ああ……すまない」
オルヴァーハは自分のマントに幸広をつかまらせたまま再びフラフラと進む。この男、何かがおかしい。
「オル……?」
恐る恐る声をかけるが、すでに何も聞こえていないようだ。仕方がないのでそのまオルヴァーハについていくが、この感じだと幸広の望む場所にはたどり着けない気がする。身に覚えのない道をどんどんと進んでいく。
「なぁ、これどこ行きよん」
「……」
無視。というよりは心ここに在らず、といった方が正解かもしれない。
見覚えのあるような、ないような道を進まれ、埒があかないので幸広はオルヴァーハの正面に回り立ちはだかった。
「おい!いい加減にせぇ!お前どこ行くねん!」
「!?」
目の前に突然現れた人物にオルヴァーハは心底驚いた表情を浮かべる。
「ユ、ユキ……!え、お前いつ城に……」
「いつもクソもさっき会話したやろが……」
ボケ倒しである。城下町で別れてから会うのは初めてだったが、確かパネンカが到着の報告をしに行ってくれていたはず。オルヴァーハは聞いていなかったのか。何かあった王女のことで頭がいっぱいだったのだろうか。
ぼんやりとしているオルヴァーハにため息をつく。とりあえず現状を打開しなければ話は進まない。
「俺、迷子やから」
「えっ、そうなのか、大変だ。俺が客室まで連れて行ってやろう」
「よろしく」
自分で迷子を申告するのは何だか変な感じだが、この際文句は言ってられない。案内すると言っているのでその言葉を信じよう。今度はオルヴァーハの視界に入るように隣を歩く。
しばらく沈黙が続く。オルヴァーハとこうやって二人で過ごしたのが随分と前のように感じる。
こちらの世界に来てからというもの、幸広はいろんな人に出会ったが一応一番付き合いが長いのがオルヴァーハだ。一緒の布団で寝た仲だ。一種の友情のような感情が芽生えているのを幸広は自覚している。それは自分だけに芽生えているものかもしれないが、こうやって目の前でテンションが低い人がいると何とかしてやりたいと思ってしまう。自分には何もできないかもしれないが。
幸広はオルヴァーハの様子を伺いながら話を切り出す。
「オル、大丈夫か?」
「ん?何がだ」
「いや……さっきすごい慌ててたし」
馬車の中でのオルヴァーハの焦りを今でも思い出す。そもそも、こちらの世界に来てからというもの、オルヴァーハは焦りと悲哀に満ちあふれている。
「ふふ、ユキにまで心配されてしまうほど態度に出してしまうなど、俺もまだまだだな」
「聞けることあったら話聞くけど……俺なんか役に立たんかもしれんけど」
本当に何かができるとは思えない。自分の状況ですらまだちゃんと受け止めきれていないのだから。しかしそれでも少しは頼ってほしいというか、仲間に入れてほしいと思ってしまう。
「ありがとう、ユキ。大丈夫だよ」
オルヴァーハはまたあの悲しげな曖昧な笑顔を向ける。やはり出会って数日の奴にそう簡単には心を開いてもらえない事は分かっていた。
「そっか……」
再び沈黙が襲う。しかし、いつまで歩いても見覚えのある道は見えない。
覚えてる限り、自分の客室まではほとんど一本道だったはずだが……
「なぁ、オル」
「なんだ」
「ここはどこや」
「……」
出てきたのは城門だった。
「ここ出たら街やと思うねんけど」
「……そう、だな」
「おいこら」
「ははは。すまん」
オルヴァーハはうなだれるように頭をさげる。
そこに、ずっと幸広を探し回っていたストラッシュが走り寄ってくる。
「ユキヒロ殿ー!」
かなり走り回っていたのだろう、息を切らし滝のように汗が流れている。
「いた……!ユキヒロ殿……!どこ、どこに、行ってたんですか……!」
「あー、ごめん。ちょっと散歩に……」
「ひ、一言……ひとこと……!」
「ごめんって!」
これ以上逃すまいとストラッシュは幸広の袖を力一杯掴む。
正直ここまで必死になって探してくれる人がいることなどこれまでいただろうか。幸広はこの目の前の青年の行いに少し胸が熱くなった。
『それで?なんで旦那とこんなところにいるんだ?』
「ああ、俺が迷子になってたとこにちょうど通りかかったから部屋まで連れて行ってもらおうとしててんけど……」
皆の目線は城門に注がれる。直後、ストラッシュとパネンカはじっとりとした目でオルヴァーハを見た。そんな目線を受けてオルヴァーハは申し訳なさそうに笑う。
「ユキヒロ殿、今後道に迷った時は決して副団長殿には道を尋ねてはいけません」
『一生目的地にたどり着けねぇから』
「……身をもって感じたわ」
「一生ってひどくないか」
オルヴァーハはパネンカに、幸広はストラッシュに連れられてお互い目的の場所へとたどり着いた。まだ慣れない部屋だが入るとなんだかほっとする。
「ユキヒロ殿、今後は何かありましたら必ず!必ずお声掛けください」
「いや、さっきはだって誰もおらんかったし」
「……」
「すみません、気を付けます」
無言で鋭い目を向けられるとこれ以上言い訳は出来ない。
しかし、先ほどのあのオルヴァーハの状態が気になる。あまりにも惚けており、まともとは言えなかった。幸広は持っている情報が少なすぎて状況の理解に時間がかかるとストラッシュに訴えると、簡単にだが話をしてくれた。
オルヴァーハは昔王女直属の護衛だったそうで、王女ともかなり近い存在だったらしい。それが「ある事件」でその任を下された。その事件のせいで王女は「病」にかかり、オルヴァーハは魔力を失った。その事件の原因はオルヴァーハだったそうだ。
ことの詳細ははっきりと知ることはできなかったが、オルヴァーハが何故あそこまで王女に執着していたのかがやっと納得ができた。だからオルヴァーハは深く責任を感じているのだ。
「王女さん、何があったんやろ」
「その件について明日軍師殿より我々に通達があるそうです。今日はもう遅いのでお休みください」
明朝迎えに来ると言い残し、ストラッシュは部屋を後にした。
人がいなくなった客室は再び広く大きな空間と化し、とても寒く感じた。