3.騒動(2)
時刻は午後六時を過ぎた。
外回りも終わり、会社を去る身である幸広は無駄に残って仕事を片付けるより、今はまだ本調子ではない体を休めることを選んだ。
身支度を進めているとやはり大田が意味のわからないことを言って絡んでくる。ほとんど聞いていなかったので彼が何を言っていたのかは覚えていない。
今日着てきたコートを羽織り、先日着て帰るのを忘れたジャケットを会社内で使い古されたボロボロの紙袋に詰め込んだ。
坂本に目をやると電話の受話器を肩で挟んで何やらメモを取っている。
そのままやる気のない声で「お疲れ様でした」と言い放つとフロアを後にした。
すれ違う女子社員達はチラチラとこちらを見てくるが、幸広が視線を向けると「ヤバっ」と顔を背けてそそくさとその場を去る。
そんなに大きな会社ではないが話が広まるスピードが速すぎる。この会社の人間には守秘義務という概念はないようだ。
三十分程電車に揺られ、何度も降り立った街に足を踏み入れた。
商店街に向かって帰宅ラッシュから解放されたスーツ姿のくたびれた男たちが足早に歩を進めている。
この商店街は閉店時間が早い。所々シャッターが閉まりかけている店が見られ、明かりがまばらになっている。
幸広はいつも仕事帰りに立ち寄る惣菜屋でコロッケ弁当を二つ手に取った。スーパーマーケットと併設しており商店街の中では比較的営業時間が長く、夜九時頃まで開いている。
今日はいつもより時間が早いため値引きがされていない。一人暮らしの幸広はできるだけ食費を浮かすため、閉店間際の安くなった時間帯に行くことが多い。
レジにはいつもいるバイトの男子学生が会計客の相手をしている。こちらに気付くと軽い会釈をしてくれた。
会計の順番が回ってくるとバイト学生は幸広の顔を見て「今日早いっすね。彼女と食うんすか」とニヤニヤしながら話しかけてきた。彼は幸広に彼女がいないことを知っている。「そうそう、あいつここのコロッケ好きやからな〜」と悪ノリで返す。
関西人によく見られる『ノリツッコミ』はしない主義だ。時々真顔で悪ノリをするので友人には「ホンマかウソかわからんから頼むからオトしてくれ」とよく言われるが、幸広の場合こういう悪ノリの時は半分以上がウソなので、分かる人に分かってもらえればいいと思っている。
顔なじみということでバイト君がこっそり持っていた半額のシール貼ってくれたので、結局一つあたりいつもと変わらない金額で買えた。
弁当を受け取るとそのまま真っ直ぐ家の方向へと進む。あの角を曲がればすぐ自宅だ。
(……ここであいつ拾ったんやんな)
ぼーっと考えながら歩いていると、車二台とすれ違った。
この道は夜になると交通量が若干増える。対向車が来るとお互いが徐行するほどの広さの道なので、よくあの視界が悪い雨の中轢かれなかったなと彼の運の強さに感心した。
幸広の家はその通りをしばらく行った向かって左側に並ぶ三階建アパートの二階だ。
建物の周りには何の意味をなしているのかよく分からない簡素な塀と、錆びてボロボロになったサイクルポートが設置されている。到底立派とは言えない建物だ。
サイクルポートからはみ出すように自転車が乱雑に置かれているのが見える。
それに加えて見覚えのある毛羽立った毛布も目に入った。
「……オル?あいつ何しとんねん。おーい」
汚い毛布を肩に掛けサイクルポートの陰に隠れるようにして立っていたオルヴァーハは、幸広が近づいて来ていたことに気付いていなかった様でぎくりと肩を揺らした。
そして何かを後ろ手に隠すようにこちらを向く。その拍子に肩から毛布が落ちた。
「ユ、ユキ。遅かったな」
引きつった笑顔を見せるオルヴァーハに幸広は初めて不信感を抱く。
「いや、これでもめっちゃ早い方やねんけど。何後ろ隠しとんねん。ってか毛布」
目線で毛布を拾えと指示すると「す、すまない」と慌てて抱えるように毛布を拾い上げて再び後手で隠す。
背中を見せないように壁沿いに横歩きで幸広をやり過ごすと、そのままアパートの敷地を出ようとした。
ひたすら何かを隠そうとする目の前の男に幸広は少し苛立ちを感じる。
「どこいくねん。まだ風邪治ってへんやろ」
「……いや、もう大分良くなった。ちょっと……外の空気を吸ってくる……!」
「あっコラ!」
毛布を抱えたままオルヴァーハは走り去った。
自称現役の軍人である上に重たい鎧を脱いでいるからか、ものすごいスピードで駆け抜ける彼の姿はもう見えない。
幸広は何か取られたのではと慌てて部屋に戻ったが、幸い部屋は荒らされた様子もなく、隠していた通帳や印鑑など大事なものもすべて無事だった。
何より彼の仕事道具であるはずの鎧と剣を置いて行ったということは、疑うことは何もないのかもしれない。それか本物のバカか。
幸広は何も取られていない事が確認出来ると、部屋着に着替えた。緩めのロング袖のTシャツと高校の時のジャージを愛用している。
しばらくすればオルヴァーハも戻ってくるだろうと思い、買ってきた弁当をテーブルに広げて食べずに待っていたが、一向に帰ってくる気配がない。
(あいつ、昼間外出たんかな)
今日から人探しに出る、と言っていたから一度は外に出たのだろうか。一緒にいる間は幸広が一人で近くのコンビニに出たくらいで彼は一度も外に出てないはず。
部屋に運び入れた時も彼は気を失っていたので近くの道を見ていたわけでもない。
今日外に出ていて戻ってこれたのならそこまで気にすることはないのだろうが、どうにも不安が募る。
「……迷子、かな」
幸広は捜索をすべく買ってきた弁当を急いで平らげ、休みの日にしか着ない厚手のダウンジャケットを羽織りスマートフォンと財布、鍵だけを持って部屋を出た。
確か敷地から出て左に曲がったはず。ということは幸広がいつも通勤に使う道とは逆方向の住宅街へ続く道へ入って行ったことになる。
流石に常識がある人間なら知らない家に入り込むことはないだろうと踏んで、幸広は入れる路地をしらみ潰しに探す。
少し行ったところに公園が見えた。
公園の広場は三角ベースができる程度の広さで、ベンチやペンキの剥がれた子供向けのショボい遊具がいくつか設置されている。
隅には土管が組み込まれた土の山もあるので、最悪ここで雨風を防ぐことも出来なくもない。
まさかな、と思い公園を覗くと案の定オルヴァーハの姿を発見する。長期戦を覚悟していたので、思っていたより早く見つかったのでなんだか拍子抜けした。
本当に外の空気を吸いたかっただけなのかもしれないと思ったが、先ほどの何かを隠す仕草を思い出すと再び不信感が胸にこみ上げる。
しかし今回は驚かせてまた逃げられないようにしようと声を掛けるタイミングを見計らっていると、オルヴァーハの様子が何かおかしいことに気付いた。
彼の目線の高さに淡く光る何かが見える。この時間帯はもう日が完全に落ちており街灯があるとはいえ辺りはもう真っ暗なので、その中にぼんやりと光るものが浮いているのは一種の怪奇現象にしか思えない。
よく見ると動物のぬいぐるみのような物が発光しているようにも見える。
肩から掛けた毛布を落とさないように押さえながらオルヴァーハは宙に浮く光るぬいぐるみと対面している。
幸広は見てはいけないものを見てしまったような気がしてきた。
しかし好奇心が勝ってしまい、オルヴァーハに気付かれないように彼の後ろに回る。
そして土山の陰に隠れると少しだけ身を乗り出した。
「……だから……だろう」
『いやでも……だって……』
少し距離があるためはっきりとは聞こえないが、ぬいぐるみから聞こえる声はなんだかスピーカーから聞こえる音声の様に少し籠っている。
もう少し近づいてみようとした時、急にドス黒く重い空気が流れ込んだ。
その瞬間幸広は居た堪れない気持ちになる。過去にこの吐き気のするような空気を感じたことがある。
オルヴァーハは身構え、辺りを見渡している。光るぬいぐるみはオルヴァーハの左肩の辺りまで移動する。
しばらく張り詰めた空気が漂う。
「誰だ!居るのは分かっている、出てこい!」
しびれを切らしたオルヴァーハが叫ぶ。しかし幸広には何者かがいるような気配は感じられず、もしかしたら自分の事を言われているのかと思えてきた。
元々隠れているつもりも更々ないので観念して土山の陰から出た。
しかし同じタイミングで視線の先から深い紫色に禍々しく発光する火の玉のような物が、すごい勢いでオルヴァーハをめがけて飛んでくる。
オルヴァーハは光るぬいぐるみに手を突っ込み、家に置いてきたはずの長い剣を光の中から取り出し、引き抜いたその勢いで飛んできた火の玉を弾き返した。
目の前で繰り広げられた手品に内心で「えー!なにそれ!」とツッコミを入れる。
結構な豪速球だったにも関わらず無理な体勢からそれを打ち返すこの男はきっと良いバッターになるな……などと思ったがそんなつまらないことを思ったことを後悔した。
弾かれた紫炎の玉は向きを変え、更にスピードをも増して土山の陰から姿を現していた幸広の胸を貫いた。
全てが一瞬の出来事だったが、幸広には時間の流れがゆっくりに見えた。
みるみるオルヴァーハの表情が絶望に変わる様を見て、薄れる意識の中で「言うこと聞いとけばよかった」と坂本の顔を思い出していた。
次回更新は2月18日予定です。