2.羽翼
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目を覚ますとそこには知らない天井があった。
体の感覚がいつもと違う。どうにも重く感じ、気持ちが悪い。
男はぼやけて見える目とまだ眠っている頭を覚醒させようと身を捩ると、あまり上質ではない獣の毛で作られた布が体に纏わり付く。
(……暖かい)
確か[パネンカ]と別れた後、人通りの多い場所へ出ようとしたが道に迷ったのだ。
しばらく彷徨っていたところに雨が降りはじめたとこまでは覚えているが、そこからの記憶がどうにも曖昧だ。これまでの経緯を思い出そうとすると響くように腹の虫が鳴いた。
そういえば[ココ]に到着してから何も食べていない。出発前にあれだけちゃんとメシは食えとクギを刺されていたのに完全に忘れていた。こんなことだから[アイツ]にうるさく言われるのだ。
首に掛かる長さの髪も先程まで雨に濡れていたが今はしっかりとドライされており、赤茶けた毛先はツヤが出ている。眠っていたせいか少し乱れてはいるが、ふわふわといつもより触り心地がいい。
なんとなく居心地がいいと思えてしまうこの部屋は、物で溢れかえっておりお世辞にも綺麗とは言えない。
ご丁寧に装備まで外され、きちんとまとめて部屋の隅に置かれている。
(ここは一体どこだ。何故こんな所にいるのか……)
考えが整理できずにいると、隣の部屋からいい香りが漂ってくる。空腹を訴えていた男の腹はこれまでで一番の大音量を響き渡らせた。
「あ、起きた?メシ作ったから食べて」
部屋の境にぶら下げられた暖簾を上げることなく頭で押しのけ、室内に若い男が入ってくる。
この部屋の主であろう男は両手に少し深めの容器を持って、毛布に包まって警戒する男の側にあった足の短い卓の上に置いた。器に盛られているものは全体的に茶色く、ツヤツヤとした少し太めの麺が絡み合っている。自分の祖国にも麺はあるがこんなにも茶色がかっているものは初めて見た。湯気が立っているということは暖かいものなのだろう。
男は質の悪い毛布を頭から被りそれを眺める。再び家主であろう男が二本の棒と銀色のフォークを持ってきた。小脇には小さなボトルが二本。
「ほい。あんた外国人さんやろ?焼きそばやけどフォークでいいやんな?ほれ、ビールも」
無理やり押し付けてくるので危うく落としそうになる。
家主は男の隣に乱雑に座るとボトル上部の突起物に指を引っ掛けて手前に引いた。プシュッと空気が飛び出す音が鳴り、そのまま口に運ぶとグビグビ音を立てて飲み込む。
首から所々ほつれた長めのタオルを下げ、白い無地のシャツに何度も履き古したと見られるボロボロのジャージを腰の辺りまでずらして履いている。ボロだが動きやすそうだ。
髪に目線を向けると、短くて少し硬そうな髪質だが黒くてしっかりしたものを持っている。この国の住人は短髪黒髪の人間も多く、薄い顔をしている。
この部屋に運ばれるまで何十人と顔を見てきて全体的に幼さが残った顔立ちの者が多かったが、目の前にいるこの男の顔は幼さというより少し女性を彷彿とさせた。しかし体格と声などで女性とは見間違わない程度だ。
「ぶはー。やっぱいつ飲んでもうまいなあ」
家主は二本の棒を巧みに操り、麺を掴むと口へと運んだ。着色されている茶色は光が当たってツヤっぽくも見える。
「うんまー。俺天才。次の仕事は焼きそば屋でもしょっかな。無理か」
一人で喋る家主を、押し付けられたフォークを握りしめながら目で追う。それに気付いた家主は卓に置いてあったもう一つの器を手に取り押し付けてくる。その間も口はもごもごと動いている。
「日本語わかるかなぁ。これ食べて!食べてって英語で何やっけ……あ、プリーズ、イート!焼きそば……わからん。ディスイズヤキソバ!イートイート」
身振り手振りで食べる真似をする。
一応この家主の話す言葉は理解できているが、警戒していたため男はこれまで一言も発していない。そのためか目の前の彼は言葉が通じないと決めつけ、何やら片言で話しかけるが余計に何を言っているか伝わらない。
おそらくこの男はこちらがこの「ヤキソバ」なるものを口に運ぶまで訴えかけてくるのだろう。
目の前で堂々と毒味をする家主の様子をずっと観察していたので、危険な食べ物ではないと認識は出来ている。そしてついに意を決して握りしめていたフォークを使い「ヤキソバ」を口へと運んだ。
食べた瞬間に口の中に味わったことのない旨みが広がる。
目の輝きが変わったのを見て、家主はニッと笑った。前歯には緑色の小さな何かが付いている。うまい。手が止まらない。
空腹時に腹に入れるには充分過ぎるほどの旨さだった。
「よかったー、ソースの力は偉大やな!運んだ時は死体みたいに体冷えてたからやばいかなーと思ってんけど、その感じやと大丈夫そうやな」
家主はヤキソバにがっつく男の姿を嬉しそうに見ている。
腹が減っていたので急いで口に運んだせいか、きちんと咀嚼できず喉につめる。
むせる男に家主は先ほど自分が飲んでいた飲み物を慌てて手渡してきた。
それを受け取った男は喉に詰めた物を流し込もうと一気に液体を注ぎ込むと、口の中に広がる刺激に驚き、思わず盛大に口の中身をぶちまけてしまった。
その拍子に喉のつまりは取れたが、それと共に頬張っていたヤキソバも同じように宙を舞う。
「うわーごめんなぁ。喉詰めてるのにビール渡すとか俺アホすぎ。めっちゃ笑てもうた」
その見事な光景に家主は大声で笑いながらぶちまけられたそれを片す。
男は口の中に残る刺激を思い出す。ビールというらしい。何となく麦の味がしなくもない。
男は恐る恐る先ほどのボトルを手に取ると、ゆっくりと口へ流し込む。相変わらずパチパチと刺激は強いが、ゆっくりと味わうと何とも心地良い苦味が体に染み渡る。
久しぶりに胃に入れたものがどちらも旨いもので、小さな幸せを感じた瞬間だった。ただアルコールが入っているようで、少し目がまわる。
「兄ちゃんゆっくり食べぇや。何やったらおかわり作るで」
そう言うと片付けを終わらせた家主はゆっくりと立ち上がるが、心なしかふらついているようにも見える。
そんな背中を見送りながらヤキソバを頬張りながら自分が何故[ココ]に来たのかを思い出していた。
目的を見失ってはいけない。とにかく急いで[ナドヴァ]を見つけて戻らなければ……。
そう思うものの、新たにヤキソバを追加してきた家主に目を輝かせてしまう。
やはりうまい。いやいかん、流されている。
男は本題にうつるため、ヤキソバを口一杯に頬張りながら家主に向き合った。
「モゴモゴ……うぐ」
「へ?なに?ちょっと食べ終わってから……」
「……っ。助けてくれたようで感謝する。俺の名はオルヴァーハ。イェギナ王国王国騎士団副団長を務めている。キミの名を聞かせては頂けないか」
ようやくヤキソバを飲み込んだオルヴァーハは捲し立てる様に聞いた。
助けてもらっている立場にも関わらず口調が若干上からなのは自覚している。
オルヴァーハはこれまで長い間軍人の上官として働いてきた。そのためこのような一般の人間と話す機会がほとんとなかったのだ。
できる限り丁寧に話したつもりだが、家主はぽかんと口を開けたままオルヴァーハの顔を見ている。
言葉が認識できなかったのだろうか。そういえば[ココ]に来てから一緒に来た[パネンカ]以外の者と会話をしておらず、きちんと言葉が通じるかを試していないことを思い出す。今思えば準備不足にも程がある。
家主は数秒間固まっていたがすぐに目を輝かせ無理やりオルヴァーハの手を取り、上下に振る。
「すごいやん!日本語ペラペラやん、どこで覚えたん?あ、自己紹介やんな。俺は小林幸広。日本の関西在住、二十八歳独身。職業は、まあ一般企業の一会社員、って感じかな……一応」
幸広は言いながら目線を外す。後半の語尾が小さくなっていくのは気のせいではない。
少しクセのある話し方なので先ほどから若干意味の認識に時間は掛かるが、心配した言葉の壁はどうにかなりそうだ。
「それにしても騎士団って……すごいなあ、ホンマにあるんやな。軍人さんかあ。え、そういう設定?ガチの方?いやでも鎧とかどう見ても本物にしか見えへんし……外国やったらありえるんやろか」
感心しているのか何なのかは分からないが、やはりブツブツと一人で喋る幸広を観察する。
出会って数分でこの人物を評価するには短すぎるが、少なからず悪人ではないことは分かった。
このまま無闇矢鱈に[ナドヴァ]を探し回ってもラチがあかない。幸いこの辺りに目標がいることはわかっているので、ここは冷静に事を進める必要がある。
男は居住まいを正し、幸広に正面から向き合った。
「俺はある目的のため、ある人物を探している。この辺りにいることはわかっているのだが、何せ初めて来た場所なもので幾分困っている。出会って間もないキミに頼むのは間違っているかもしれないが……頼む。手を貸してはくれないか」
深く頭を下げ、幸広に協力を要請した。
「え、手を貸すって……何したらいいん?」
オルヴァーハにつられてか、幸広も座り直す。
「人を見つけるまででいい。この部屋を拠点として使わせて欲しい」
「ここに住むってこと?えー……大丈夫かな……」
さすがに初対面の得体の知れない男を家に置くような人間はそうそういない。
分かってはいるが、オルヴァーハには一刻も早く目的を果たさなければいけない理由があった。
「こんな出会って間も無い不審者を住まわせるなどはた迷惑なのは分かっている。分かっているが……頼む」
頭を下げるオルヴァーハの悲痛な雰囲気に、幸広は慌てて手を横に振った。
「えええ、頭上げて!いや、あ、そうか。その問題も……ごめん、ちゃうねん!このアパートの大家さんうるさいから、急に同居人増えるってなったら家賃とか増やされそうやし大丈夫かなーって。信用とかそんなんは俺が先にあんたをここに連れ込んでるから、その辺は気にせんでええよ。どんどん使こてくれてええから」
笑いながらそう答える幸広にオルヴァーハは少し不安を覚える。頼んでいる自分が言うのもなんだが、もう少し警戒した方がいいのでは……
しかしこちらの要望を飲んでくれるのであれば、何も文句はない。
「この恩は必ず返す。家賃はすまないがここでは収入を得ることが難しいので別の面で協力出来ればと思っている。しばし世話になるが、よろしく頼む」
「ぶはっ。めっちゃ武士やん。ええよ、気にせんといて!よろしく。えーっと、名前なんやったかな」
「オルヴァーハという」
「オル……ごめん、覚えられへんわ。『オル』でええかな。俺のことは幸広でも何とでも呼んでもろたらええから」
「ユキヒロ……ではこちらは『ユキ』と呼ばせてもらおう」
「なんや子どものころ思い出すな……まあええか」
互いに固く手を握り合い、オルヴァーハは必ず[ナドヴァ]を見つけると誓った。
次回更新は2月11日の予定です。