17. 冀望
17
ゆらゆらと揺れる中、ぼんやりと声が聞こえる。
ふと指を動かすとふわりとした感触がする。動物の毛のようで、それは全身に感じられた。
(ヴィー……?)
腕を持ち上げる力が出ない。目を閉じたまま手が当たっている部分をゆるりと撫でる。
頭が働かない。
(眠い……もう少し寝ててもいいかな)
不規則なようで規則的な揺れは疲れた体に心地よく、幸広を深い眠りに落とした。
「……」
目を開くといつもの汚い天井ではないのが分かる。イェギナ王城の客室はまだ一泊しかしていないはずだが、感覚的にはもうずっとここにいるような気がする。
窓の外は暗かった。いつから眠っていたのだろうか、ベッドに潜り込んだ記憶がない。
幸広は靴を履き、部屋を出た。中庭が目に入るが、何故だか今はここに入ってはいけない気がする。
中庭を通り過ぎるとどこからか金属を打ち付け合うような音が聞こえてきた。
音に誘われるまま足を運ぶと、闘技場に差し掛かる。音はここから聞こえてくる。
覗くとオルヴァーハがハルヴァが剣を交えていた。何度も何度も甲高い金属音が響く。
一際大きな音が響くと、ハルヴァの持つ剣が弾き飛ばされた。肩で息をしながらハルヴァは地面に大の字で倒れこむ。
「はぁ……オルフ、そろそろ休まないか……かれこれ何時間やってるよ」
「もうちょっと、相手してくれないか」
「いや、すまない……もう無理だぁー」
横たわるハルヴァにオルヴァーハは一礼し、今度は一人で剣を振るう。
「……なぁ、そんなに背負い込まなくてもいいんじゃないのか?今度のことは想定外のことだったんだろう?何人か負傷したとはいえ、一応皆の命に別状はなかったんだ」
オルヴァーハは剣を止め、ハルヴァの言葉を聞いた。しかし、無言で首を横に振ると再び剣を振るう。ハルヴァは大きくため息を吐くと「ま、ほどほどにな」と一言こぼし、その場を後にした。
静かになった闘技場には空を切る音が響き渡る。
負傷したとは誰のことだろうか。何か、あったのだろうか。
何故そこまで必死になるのだろうか。オルヴァーハは王国騎士団の副団長を務めるくらいだし、団長であるハルヴァを負かすくらいの強さでは足りないのか。
幸広は掛ける言葉が見つからず、ただ剣を振る姿を見ていることしか出来なかった。オルヴァーハは悲痛な表情を浮かべながら汗を流している。顔を伝うそれが涙を流しているように見える。幸広はそれが本物の涙であることを確信していた。
あれは『誰の為の』涙なのだろうか。
「少年」
いつの間にか背後にプロロクツヴィが立っていた。気配なく近付いてくる彼にいつも驚かされる。
長い間顔を合わせていなかった気がして何となく酷く懐かしく感じ、そして出会った当初から感じている焦燥感が溢れ出る。
「こんなところで何をしている」
「……いや、別に何も……」
ただ一人剣を振るうオルヴァーハを、彼を知りたかった。彼があんなにも一心不乱に剣を振るう理由を知りたかった。その理由の中に自分がいてほしいと思っている自分に、気恥ずかしさと罪悪感のようなものが沸き立つ。それをプロロクツヴィに悟られないように背を向けた。
「俺もうちょっと寝てくる……」
「その様子だとまだ聞いてないようだな」
「え?」
意味深な話し方をするプロロクツヴィの目線はオルヴァーハに向けられていた。
「南の独立国での話だ」
「あ……」
そうだ。王女奪還で南に向かったのだ。どうして忘れていたのだろうか。中庭で得体の知れない奴に出くわした所までは覚えているが、そこからの記憶が曖昧だ。あの後どうなったのだろう。どうやって帰ってきたのだろう。
混乱する幸広を見てプロロクツヴィは深いため息をつく。その口数の少ない彼のつくため息には色んな意味が込められている気がする。
「結論から言えば王女奪還は失敗だ。原因は君の闇の呪いが暴走し、爆発したこと。辺り一面が吹き飛んだ」
「え……?」
「うちの面々は負傷したものの、ティトリーの機転で咄嗟に防魔を張り命に別状はない。ただ魔力の消費が多くしばらくはまともに動けないだろう」
「負傷って……!誰が……!?それ、俺のせい……」
「……怪我をしたのはストラッシュだ。まぁ……君の護衛を頼んだが少し荷が重かったのかもしれんな」
プロロクツヴィの顔を見た。表情を変えずに淡々と、ただ真っ直ぐ前を見据えている。目線の先ではオルヴァーハが剣を振るっている。
「君の傍にいたオルフと敵の手中にあった王女は……敵方に守られた。王女はそのまま連れて行かれたが」
「お、俺……全然……」
覚えていないで済むのか。
不意に自分の腕を見る。そこには黒い刺青のような紋様が刻まれていた。
「それが闇の力を持つ者の証だ。おそらく呪いが力に変わったのだろう……君はもう闇に落ちてしまった」
紋様から目が離せない。次第に手が震えてくる。
ずっと幸広の中から溢れ出ようとしていた黒いモノは、自分の中にあった闇の力だったのだ。街で闇に取り込まれそうになったあれは、その時にはすでに自分のモノだった。
もしかして『あの時のあれ』もそうだったのか……?
「しかしそれでも自我を保てているのはナドヴァだからなのかもしれないな」
耳に心地よく響くプロロクツヴィの声に思わず顔を上げる。月明かりに照らされた彼の表情はこれまで見た中で一番穏やかで、何かを諦めたようなものに見えた。
「オルフが何故あの様に躍起になっているか分かるか」
「……」
「君を守れなかったからだ」
(え……)
オルヴァーハは無心で剣を振るっている様に見える。見えない敵と戦っているかの様に。
「彼は君と王女を天秤にかける様なことをして君には申し訳ないことをしたと……だが眠る君に何も出来ないと真っ直ぐここへ来た。また自分のせいで、今度は君を失うかもしれない。その自分への戒めと次に何か起こった時に対処し同じことを繰り返さない為に」
以前オルヴァーハのせいで王女に大怪我を負わせたと聞いた。出会った頃には幸広に怪我をさせたと何度も頭を下げて来た。
彼は自分の行いで周りの人間が傷付くのを極端に恐れている。
幸広には自分には何も出来ないと言う気持ちが痛いほど分かった。誰かの為に何かをしたいと思ってもその方法が分からない。だから自分に出来ることを磨く事しか出来ない。時に見ているだけしかできない自分を何度呪ったか。幸広は考え込むように俯いた。
それを見てプロロクツヴィは幸広に聞こえないくらいの音で舌打ちをした。
「少年。君は恵まれているよ。こんなにも思われ、必要とされているのだから」
「え……なんて?」
普段表情を崩さない人形の様なプロロクツヴィが、今日はなんだか普通の人間に見える。
聞き取れず聞き返すがプロロクツヴィは話を逸らした。
「……君はオルフが何故王女のことになると阿呆になるか知っているか」
「あほうって……いや、直の護衛やったから守るとかそういうことじゃなくて……?」
「今から二十年ほど前に事故が起きたことは知っているな」
「あぁ、オルが魔力を失ったきっかけの……」
何らかの事故があって王女は怪我を、オルヴァーハは魔力を失った。
「オルフと王女は恋仲だった」
「へ」
思わず大きな声を出しそうになったが自分で口を塞いだ。
「恋仲、という表現が正しいのかは分からないが、お互いに惹かれあっていた。二人の立場上周りには大きく知らせてはいなかったが、王妃は二人の関係を認めていた」
突然の他人の恋愛事情を聞かされ、幸広は驚いた。この男は何故急に人の恋愛話を持ち出してきたのか。そもそもこの男に恋愛話が出来たことにも驚きを隠せない。だが特にコメントも思いつかず、ただ黙って話を聞くほかなかった。
「彼らは真剣に愛し合っていた。しかし彼らは決して結ばれてはいけない関係だった」
「え、なんで」
プロロクツヴィは懐から魔具を取り出し、二つの円を描いた。
「それには魔力が大きく関係している。この事件でわかったのは、大きな力を持つもの同士がまぐわうと互いの魔力がバーストし、力の弱い方が爆ぜるということだった」
「それって……」
空中に描かれた円はゆっくり重なり合うと、混じり合うと思いきや片方が激しく弾け散った。残った方の円はつなぎ目が切れ、内側からどろりとした何かが流れ出る。
「王女の器は壊れ、流れ出た王女の魔力に直接触れたオルフの魔力はその力の大きさに耐えきれず、爆ぜ散った。原因は分かっていないが王女の器に傷が入っていたのではと推察される」
弾け散った円は粉々に空中を舞っている。この円はオルヴァーハと王女の魔力の器を表現していた。
王女の魔力は壊れた器から止めどなく溢れ出る一方で、オルヴァーハの魔力は愛する王女の魔力に負け、儚くも散った。
「その時二人は互いに大怪我を負った。ただ愛し合ったというだけで、だ。オルフはその自らの魔力の暴発で瀕死の重傷を負った」
「……」
「事を知った国王がオルフと王女の関係を裂こうとしたが、これまでのオルフの功績と周囲の反対、王女の必死の抵抗、怪我の状態を加味され騎士団の脱退は免れた。一般騎士に降格となったが、それから十年の間で治療とリハビリの末今の地位に収まった」
「……魔法で怪我治せんかったん?」
「魔法で治療をしてもそれだけかかった。魔力が暴発した時の傷はなかなか完治しないと言われている。本来ただの暴発なら時間が経てば再び魔力は蓄積されていくはずだが、彼の場合それがなかった。おそらく王女の魔力に触れたことが要因となっている」
視線の先でがむしゃらに剣を振るうオルヴァーハの気持ちが、幸広には何となくわかるような気がした。
不安なのだ。これまで使い慣れていた力を一夜にして失い、何もできないただの人間になってしまったから、今の自分の力が信じることができない。だからそれを信じられるように、劣化しないようにひたすらに鍛錬を積む。再び手に入れたものを失くしてしまわないように。
「じゃあ、王女の病気って」
「そうだ。その時のバーストが元で器が完全に破損し、湧き出た魔力が流れ出るようになった。あらゆる方法で修復をしようと何度も試みてはみたが元に戻すことができなかった。そこでナドヴァの話が持ち上がったのだ。一度、魔力を移してから修復をしようとしたのだ。そしてやっと自分の力で動けるようになった当時、オルフは自責の念から自らナドヴァを探す役を買って出た」
オルヴァーハは事件のことを気に病んで、当時怪我も完治していなかったが王女のためならなんでもすると、禁忌で何が起こるかわからないという高いリスクを背負い、世界間移動を使いナドヴァを探しに出た。それにより右目の視力と左耳の聴力を失った。そのハンデもあり今彼は必死になっている。
「オルの視力と聴力……もうどうにもならんの?」
プロロクツヴィは首を横に振る。
「こればかりは……それが禁忌だから」
「そう、か……」
一度雲に隠れた月が再びプロロクツヴィの顔を照らす。その作られたような美しい顔に何となく違和感を感じる。
「少年、頼みがある」
「は、はい」
いつの間にかこちらを向いていたプロロクツヴィは幸広に向かって深く頭を下げた。
「オルフを助けてほしい」
「え」
「私は幼い頃この国に来てからずっと彼のことを見ていた。私は……これ以上彼が傷付くのはもう見たくない。私の感情は彼に捧げた。もう戻ってはこない。粗悪品の私が彼に出来ることはもうない。後は、君のナドヴァだけが頼りだ。頼む」
「え、え?どう言う……」
下げられた上半身から黒く艶のある髪が地面に向かって流れ落ちる。いつまでも頭を上げないプロロクツヴィに幸広は慌てふためく。
「ちょ、軍師さん、頭上げて……分かったから!俺が何か出来るんやったら何とかしてみるから、頭上げて……!」
肩に手を置いて彼の体を起こす。その肩はやはり華奢で、女性を意識させる。しかし、上げられた彼の顔には一切の感情がなかった。声のトーンからしてかなり苦痛の表情を浮かべていると思っていた幸広は眉間にしわを寄せた。プロロクツヴィはそれを見て鼻で笑う。
「ふふ、そうなるな。わかっている。私は感情を顔に出せない。オルフを君の世界に送り込んだ時に同じように禁忌に触れ、その機能が壊れたのだ。オルフの目が見えないのと同じだ。これで周りに不快感を与えているのは理解しているが、禁忌故立場上周知する訳にもいかなかった」
「感情を捧げたって……そういうことか」
禁忌。禁忌魔法。太古より一般の使用を禁止された魔法。
仮にも王国の軍師や騎士団の副団長がそれを使用することがどういうことなのか、幸広にもそれは理解できた。
しかしそれでも王女は複数の人間が大きな代償を負ってまでも救わなければいけない存在なのだ。そして幸広はそのために連れてこられた。
「少年、巻き込んでしまい本当にすまない。だが君が王女の魔力を受け入れてくれるだけでオルフと王女が、いやこの世界が救われる。王女を受け入れるだけで君の呪いも浄化される。……だから、頼む」
何故この男はここまで必死なのだろう。
感情が顔に出ない?
そんなことを感じさせないくらいこんなにも必死に訴えてきているじゃないか。
そんな状態が雨に濡れた猫のようにどこか頼りなく感じる。
あぁ、そうか。これは……
「わかった」
「……いい、のか」
幸広はこうやって面と向かって頭を下げられるのに弱い。
いつからだろうか、どんな厄介ごとでもこうやって頭を下げられると引き受けてしまう。
過去からの影響で、人と接する上で「頼みごと」とは自分の存在を確かなものだと思うのに一番魅力的なものだったから。それが原因で周りの人間にいいようにも使われてきたが、それでもいいと思ってきた。
だが、それだけではなかった。おそらくこの男はオルヴァーハに対して決して叶わない気持ちを抱いている。叶わないと分かっていても、それでも彼のために何かをしたいのだ。
それを感じてしまった幸広は心臓を掴まれたような感覚を覚える。
そして今のプロロクツヴィは弱々しく、何となくその姿に言葉では言い表せない優越感を感じた。彼の願いは、今幸広が握っているのだ。
「まぁ、そんだけ頼まれたら……断れへんやん」
嘘だ。本当はそんな気持ちで返事をしたわけではない。
どうしてだろうか、この男が弱っている姿を見るとどうしても嬉しくてしょうがない。
(……ちょっと待て。俺今何考えた?今最悪なこと……)
闇の力の影響なのか……考え方が人として決してありえない方向に向かっている。
しかしそんな幸広の心情など気付く様子もなく、プロロクツヴィは月明かりを背景にとても安心したような笑顔を見せた。
「ありがとう……」
一瞬の出来事で見間違いかとも思ったが、確実に見た。
「え?顔!顔!」
「?」
禁忌で失ったものも、もしかすると元に戻せるのかもしれない。何が起きたのかを理解できていないプロロクツヴィには詳細を黙っておくことにした。先程の笑顔を見たことでストラッシュが想いを寄せるのも何となく理解出来る気がした。
だがその瞬間……
****
『俺の子じゃねぇのに何で育てなきゃなんねぇんだよ』
『あんたなんか……産まなきゃよかった……!』
『……気持ち悪い』
『冥くん……本当に君はかわいいねぇ』
****
「……少年?」
ハッとするとプロロクツヴィが幸広の顔を覗き込んでいる。辺りを見渡すが、闘技場内にオルヴァーハがいるだけで他には誰もいない。全身から冷や汗と脂汗がにじみ出ている。
「どうした」
「いや……何でも、ない」
幸広は手のひらで額を拭う。じっとりとした汗が手にまとわりつく。
(……なんで今思い出すねん)
空気が重い。胸の中の黒い部分がざわめき出す。
ふと見ると腕に刻まれた紋様から黒いモヤが溢れ出している。
「うわ、わわ……!」
プロロクツヴィは幸広の腕を掴むと魔具を取り出し、尖った先を直接腕に突き立てた。
「……っ!」
「我慢しろ、少年。一時的だが抑える」
ペン先から出た紫色の光が黒いモヤを包み込み、腕の中へ押し込んだ。
「もう……!なんやねん、これ!」
黒いモヤは落ち着いたが幸広の内心は乱れていた。他人のために何かをしている場合ではないと思えてくる。正直静かに暮らしたい。目立たずにひっそりと……
すると少し離れたところから爆発音が響いた。かなり大きい。
それに反応したオルヴァーハが幸広達を発見し、駆け寄ってくる。
「お前らこんなところで何してるんだ!さっきの爆発……!」
「行こう」
プロロクツヴィはオルヴァーハが合流するとすぐに走り出した。出遅れて幸広も走る。
「言い忘れていたが、少年。君もこちらに来る際に禁忌に触れている。君の中で何かが壊れてしまっているかもしれない。すまない」
「え……それ今言う?」
しかし何となく思い当たる節がある。もしかすると、この考え方が安定しないのはそれが原因か?ただ自分が弱くなっただけなのかもしれないが、今の所考え得るのはそのくらいしかなかった。
空に向かって上がる煙は禍々しい魔力を放出している。音の根源は中庭の辺りだ。




