1.契機
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「……今、何て言いはりました?」
終業間際、呼び出された時点では予想もしていなかった言葉を浴びせられ、全身から血の気が引いていくのを感じていた。
「受け入れ難いのはよぉ分かるで。小林君が頑張ってくれてるんは知ってるねんけどな。悪いけど、君には来月末にはこの会社から出て行ってもらうことになります」
「それって」
「すまんなぁ。言い辛いけど、もう決定事項やねん」
人事との面談が終わる頃には膝の上で握られていた拳は小刻みに震えていた。湿る掌には赤く爪の跡が残っている。
小林幸広は齢二十八歳にしてリストラ勧告を受けた。こんなことが実際にあるのかと、テレビドラマでも見ているような感覚が体を支配する。事の理由は単純に業績不振による人件費の削減。幸広の他にも数人の対象者がいるようだが、今はそんな事はどうでもよかった。
確かに仕事が一番の仕事人間では無かったが、かと言って何も貢献していなかったということも無かったはず。元々そこまで大きくない会社ではあったが、大学を卒業してすぐ入社した会社だったので少しは思い入れはある。その会社の先行きが危ういのであれば、今回のこの話は会社に貢献する、ということになるのだろうか。
人事は伝える事だけ伝えると「もういいよ」とさっさと幸広を会議室から追い出した。頭に熱がこもり、思考が停止する。震える手で少し長めの前髪を搔きむしるが、目の前が暗くなる現象は一向に改善されない。
その影響で足元はおぼつかないが、今の感情を出来るだけ表に出さない様少しだけ意識して席に戻った。
「小林サン、人事何やったんすか」
中途で最近入社した後輩の大田が席に戻る幸広にすかさず話しかけてくる。
年齢は幸広より二つ下だが、大田には本能的に本心を隠すように体が出来上がっている。
普段から髪の毛とスマートフォンばっかり気にしてロクに仕事もしないし、口を開けばしんどい、帰りたい、昨日の合コンがどうだなど無駄なことばかり。誰かが何かを相談したら次の日にはその内容が社内に広まっていたということも聞いたことがある。
裏では「歩くスピーカー」と呼ばれているが、時折本人も自覚している様なそぶりを見せる。しかし上司や先輩に良い顔をする習性があるので、大田の本性を知らない上司なんかは騙されても「こいつならしょうがない」と可愛がってしまうのだ。
幸広は無意識に舌打ちをしそうになるのを慌ててごまかす。
「顔色悪いっすよ。アメちゃん食べます?さっき受付の由美ちゃんからもらってぇ」
普段チャラチャラしているが、しっかり人の顔色(今に限っては文字通り)を見ながら行動する奴だ。しかし一見人の心配をしているようにも見えるが、結局自分の話に持って行こうとするのがこの男。
大田を適当にあしらって、身支度もそこそこに会社を後にする。
正面出口を出る頃には空は闇に飲まれ、アスファルトの濡れる匂いが漂っていた。周りの人間は傘を広げ始めているが、そんなことすら気にも留めず、幸広はただ機械的に足を動かしていた。
昔から人が嫌がる事を押し付けられることが多かった。学級委員をはじめ、掃除当番のゴミ捨て係や関係のない殴り合いの喧嘩の仲裁……。毎度最後に貧乏くじを引くのが幸広だった。
『こいつに言っておけばどうにかなる』なんて結局都合のいい奴として周りから認識されていたことは自覚している。今回の事に関してはおそらく「こいつでいいや」の分類に入るだろう。
可もなく不可もなく、会社に大きな功績を残した優秀な社員でもなければ、今後何かを残せるような人材でもないということだ。確かに自分自身も人事の立場でリストラ対象者を選ぶのであれば同じような人間を選択するだろう。
この状況を作ったのはきっと自分の性格が原因だ。自分を一言で表現すると「八方美人」だと思っている。誰にでも適度に愛想よく振る舞い、当たり障りなく人と接する。人に嫌われたくないという思いが強いからか、どうしても人前では「明るい幸広くん」で居ようとする。
人によってはこれが気に食わない事もあるのだろう。何か面倒臭い選択を迫られた時にはこちらが断らないことをいいことに体よく押し付けられる。
昔から都合のいいように扱われることは受け入れてきたし、同じようなことを繰り返し経験してきているので、大概の出来事には慣れているはずだった。しかしこれまで触れてくることのなかった非現実的な「リストラ」という事柄に直面し、自分がここまでショックを受けているということに正直驚いている。
思っていたより仕事が好きだったのか、はたまた「役に立たないクズ」の烙印を押されたからなのかはわからない。
三十分ほど電車に揺られて駅に降り立つと、この時期には珍しく叩きつけるような雨が待ち受けていた。そこに時期特有の気温の低さが加わり、立っているだけでも自分の体ではないような錯覚に陥る。幸広はそんな中に傘もささずに足を踏み出していた。
元々そんなに強いメンタルを持ち合わせていたわけではないが、さすがに今回の件に関してはそれは見事にへし折られている。
脳内ではほんの数十分前に聞かされた言葉が何度も繰り返し再生されている。雨の中見上げると星どころかどこに空があるのかもわからない。そういえば朝の情報番組では今日の気温は平年を下回ると言っていたが、着ていった安物のジャケットは会社のロッカーに入ったままであることを思い出した。
「あー、つら」
ツンと目の奥が熱くなるが、今自分がどんな表情をなのか考えるだけでも嫌気が指す。
自分のどの部分がダメだったのか。指摘された部分を直せば撤回して貰えるのか。いや、何年も勤めてきて向こうもこちらを見極めての結論だったのだろう。
情けない。情けなくて今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られる。
ふらふらとおぼつかない足取りだったせいか、周りの人間は接触を避けようと幸広を中心に大きな空間を開け、危ない物を見る様に遠巻きにしている。
駅からの距離がここまで長いと感じたのはこれが初めてだ。本来ならば最寄りの駅から自宅まで徒歩で十五分も歩けばたどり着くはずだが、体感ではもうすでに二十分以上は過ぎている。
商店街を抜け、まっすぐ行ったその角を曲がれば後少しで家に着く。でも今はその角までの道でさえもまだ何キロも先にあるように感じる。
頭上から降り注ぐ雨が今の自分の心を表現してくれている、と無駄に詩人のようなことを思っていた。
(あ、洗濯物……)
朝見た天気予報で気温の変化と降水確率について念押しされていた事を覚えている。にも関わらずいつもの習慣で洗濯物をベランダに干して家を出たのだ。
自分のこういう無意識に行動してしまうところも嫌いだ。また洗い直さなければ。そんなことを考えていられるということは案外へし折られたメンタルは回復してきているのだろうか。
しかし歩いても歩いても前に進まない。再び空を見上げるといよいよ本降りになってきた雨が容赦なく目や口に入ってくる。
そのまま重い足を踏み出すと何かに足を引っ掛け、無様にも大きく倒れこんだ。
「もうこのまま死んでもええか……」
自分にも聞こえるか聞こえないか程の声量でつぶやいた独り言に、乾いた笑いがこみ上げてくる。
地面に雨が叩き付けられるサマを倒れた状態のまましばらく見ていたが、何の変化もなさそうなので起き上がった。しかし思ったより体が冷えていたらしく、ゆっくりとした動きになる。顔にはゴロゴロとした黒い小石がいくつかくっついている。
上半身を起こしたところで視界の端に何かが映り込んだ。目線だけで辿っていくとそれは人であると分かった。おそらくこの人物に足を引っ掛けて倒れ込んだのだろう。
横たわるその人は身動き一つ取らない。
まさかな、と思いのほか冷静に脈を測ろうと手を伸ばす。すると獣のうなり声にも似た低い不可解な音が辺りに響いた。音の正体は目の前に横たわるこの男の腹の音だった。
「行き倒れ……?マジか」
あまりの雨ではっきりとは分からないが見た感じ幸広と同じくらいの年代か。髪は赤みを帯びた澄んだ茶色で、伏せられていて少ししか見えない顔立ちはソース寄りの醤油といったところか、日本人には見られない「シュッとした」顔立ちだ。
ただ一つの違和感を除けばきっとモテているのだろうと推測する。人の趣味に口出しする訳ではないが、これはどう見ても……
「コスプレやろ……」
街中の視線を集めただろうその衣装の作りはなかなか精巧な作りをしており、背中のマントから覗く鎧や剣も本物と見間違うほどだ。触れてみると本当の金属で出来ている。
もしかすると幸広が知らないだけで、「それ用」の軽い金属でも販売されているのかもしれない。
アニメ好きの外国人が何かのイベントに参加しにきたのだろうか。最近の外国人は一人で日本にやってきて聖地巡礼や観光をする人も多いらしいので、この人もその過程で倒れてしまったのだろうか。
先ほどまでどん底までテンションは落ちていたはずが何だか不思議なこの状況に、自分が置かれている状況を忘れそうになる。
すると再び男の腹から無言の訴えを受ける。今度は短くぎゅっと絞り出す様な音だ。
何故か目の前に倒れる男と自分が少し重なって見えた。
何を思ったか幸広は男を担ぎ、引きずりながら帰路へつく選択をした。腹が減って倒れているだけなら食べさせてやろうと考えたのだ。
今日の出来事と長時間大雨に打たれていたせいで思考力が低下していたからだと心の中で言い訳をする。
行き倒れ男は布という布で水分を吸収している上に、装備されている本物さながらの鎧や剣の重さも相俟ってこれまで以上に歩くスピードは落ちた。
家にたどり着くまでの間、男の腹は獣の唸り声を鳴らし続けていた。