第五話 幼き思い出
雲の切れ目から満月が覗く。
青白い月、蒼月。
嫌な事があろうが無かろうが、いつも夜空を見上げていた。
未知の世界、月。そこに何があるのか、どんな場所なのか……。人々は知らなかった。だから興味を抱き、そこに楽園を求めた。
いつも兄の尊と比べられていた。それが嫌だった。だって僕は――。
少年が一人。
走って、走っていた。家が、家族が、人が嫌で嫌で、飛び出した。
森の中をひたすら走った。護衛も宮女も撒いて。
「うきゃっ!」
石につまずいて、斜面を転がった。
回る世界が止まった。目の前に川が広がる。白い岩と砂利、日光に輝く水。
ヨタヨタと川に歩み寄り、体の泥を落とす。傷に砂が入り込んでいて痛い。棘が体中に刺さっていた。
「んなトコでおなごがなぁにしとんじゃ」
後ろから声がして振り向くと、顔が目前にあった。
「うわぁ!」
驚いて尻もちを着いた。
「お前……無茶して森ん中にでも入ったろ? 裸足じゃ無理だ。ほれ、傷を見せろ」
腕をつかまれそうになり、思わず身を引いてしまった。
「大丈夫。俺はまだガキだから力もねぇし、手当くらいしか出来ねぇから」
その子は小さな布袋から薬草を出すと、それを傷に擦り込んだ。
「いっ……!!」
「これくらい我慢しろ!」
頭を軽く叩かれた。
「……っし。これでいいだろ」
傷に布を巻かれた。
「痛くない……」
「だろ? この薬草スゲーんよ」
その子は持っていた衣服を川で洗い始めた。少年はしばらくそれを見ていた。
絞られた衣服を持っていた籠に入れ、その子は伸びをして、束ねている髪を解いた。黒くて、少年と同じように長かった。
少年はその様子に少し見とれていたが、
「あの、名前は……」
「うん?」
その子は大きな瞳で彼の目をじっと見ると、にっこり笑い、
「禊」
「へ?」
「だから、禊。御神がくれた」
少年は禊が差し出す手に掴まり、立ち上がりながら、
「僕……ヒメ。本当の名前は知らない。宮女がそう呼んでる、女の子だからって」
そっか、と言い、禊は少年の手を引く。
「あの、何処へ……?」
「決まってんだろ。お前、逃げてきたんだろ?」
自分の全てを見られてしまった様な気分だった。
「なら、俺らの家に行くだけだ!」
「俺らって……?」
「俺の仲間」
禊はまた、眩しい笑顔を見せた。
「お前、随分お洒落な格好してんなぁ」
禊がまじまじと少年の服を見る。
「こ、これは……! きゅ、宮女たちが可愛くおめかしするとか言って……!」
「ふ~ん」
小さな鹿の角に透ける絹の飾り布がついて、花飾りと石がついていた。
――――――。
ヒメが王宮を逃げ出す前の事だった。
禊と嫌好はいつも通り婆様の処へ行くと、見知らぬ女の子がいた。薄汚れていて髪も長く、髪で顔がよく見えない。
「昨日連れてこられたんだ。どうやら盗賊に親を殺されたみたいでね、この前始末された族の中に居たんだ」
婆様は部屋の隅に座る女の子を見た。
禊がその子に近寄る。なんとなく不安で、嫌好は禊の腕を引っ張った。
「その子は言葉が話せないみたいでね。こっちの話は聞こえて理解はできるみたいだが……」
婆様は女の子に上着を着せると、
「一緒に遊んでおいで。ほら禊、嫌好、優しくするんだよ。禊は特に、度が過ぎてこの前、弟を泣かしたろう」
そう言われ、禊は口を尖らす。
禊は人懐っこく女の子の手を引いて、いつも遊ぶ原っぱに向かった。
「――コイツ、本当に何も話せないんだな」
禊が難しい顔をして腕を組んだ。
「名前も無いし……」
禊は何かを思いつき、
「名前……良いのが思いついた!」
女の子が少し顔を上げる。
「言の葉……コイツに足りないもの。言葉と書いて、ことはって読む」
前髪の隙間から、女の子の輝く目が見えた。
「お前、それでいいか?」
女の子は一生懸命うなずいた。
禊は膝を折って女の子と視線の高さを合わせると、女の子の頭を撫でた。
女の子は上着から手を出し、前髪を分けると笑顔を見せた。
「あっ、あー……」
何かを伝えたいが、言葉を話せずに困惑していた。その様子を見た禊は嫌好に、
「そうだ。コイツに話す手段を教えるか」
「話せないのにどうすんの?」
「ほら、身振り手振りっていうか……」
嫌好は納得したように頷いた。
それから、禊と嫌好は言葉の為に会話方法を考えた。
「これが、ありがとう」
禊は深々とお辞儀をする。
「これが、こんにちは」
にっこり笑い、軽く会釈する。
言葉は真剣に禊の動きを見て、手足を動かして真似をする。
最初は一つ一つの行動がたどたどしかったが、半年で禊らが追い付けないくらい速く会話できるようになった。
『嫌好のバカ』
「バカってなんだよ!」
言葉は嫌好に向かって舌を出す。
禊の元に駆け寄り抱き付くとニッコリ笑い、
『私、禊と結婚する』
「ハァ!? 禊は俺と……!」
「良いんじゃねぇの?」
「ハァ!?」
言葉と仲睦まじそうに微笑む禊を血眼で見つめた。
『禊大好き!』
「いいから禊から離れろ!」
言葉は親指を地面に向ける。
「このブス!」
嫌好は地団太を踏む。
言葉は頬を膨らませ、
『クズ! タコ! 泣き虫! 12にもなってまだおねしょするし!』
「なっ……!?」
「えっ。嫌好、マジ?」
「違う!」
『あらあら~? 何泣いてるの?』
嫌好は地団太を踏んで怒った。
「泣き虫じゃねぇし!」
腕で涙を拭う。
――――――。
ヒメが消えた。王宮の内は大混乱だった。王である父に知られたらどうなるか。今は戦に行っていていないのが幸いだが、もしこの場に居たら……。王子はそう思った。
「殴られるどころじゃねぇよ。真っ赤な鉄を背中に押し付けられるに違いねぇ」
ヒメの部屋、物置、ヒメらがよく入れられる牢、馬小屋、井戸、畑に庭、宮女部屋……ありとあらゆる場所を探した。
「敷地の外に出してねぇだろうな!」
王子は護衛の一人の胸倉をつかむ。
「いっ、いえ! そんな事は……!」
どいつもこいつも使えねぇ。誰も信じられねぇ。王子は他人を疑ってばかりいた。
「俺の馬を出せ! そことそこに居るお前! あと宮女を三人準備させておけ!」
「どちらへ行かれるのですか!?」
「森に探しに行くんだよ!」
王子は武具を抱え、駆け足で行く。
何かにつけて兄と比べられていたヒメ。学力も武力も美術的な面も、人付き合いも……。きっとそれが嫌になって飛び出したんだろう。王と妃は二人目は女がいいと言っていた。だが、生まれたのは男で、二人は非常に嘆いた。帝に献上するものが無い、と。そこで親は、何でもできる全知全能な、美しい娘に育て上げようと考えた。確かにヒメは、生まれた時から眉目秀麗で、着飾るとそれはそれは美しい娘の様だった。
でもだからって、弟を女にするなど……王子はそれが気に入らなかった。
髪も女のように長く伸ばし、あまり筋肉の付かないようにさせ、周りを宮女だけにし滅多に男との接点を無くした。
「やぁっ!!」
馬を走らせ、森を駆け抜ける。
「お前はあっちを、お前はそっちを探せ」
「わかりました」
護衛と別れ、一人で探し回る。
斜面を下り川辺に着く。向こうに高原が見えるから、そこに向かった。
少し走ったところで、馬の前に子供が飛び出した。急いで馬を止める。子どもは驚き、尻もちをついた。
「この俺の前に飛び出すとは何事か!!」
子供は唖然としていた。そこにもう一人が駆け寄る。
「嫌好!」
「禊……」
「この俺を誰と心得ておる!?」
二人目もまた唖然とする。
だが、二人目は笑い出した。
「なっ……!?」
王子は子供の様子に呆気にとられた。
「兄ちゃん、何言ってんの? この俺を誰って……!」
一人目も小さく笑う。
「会った事も見た事も無いのに……」
腹が立った王子は剣を抜き、子供二人に向ける。
「俺は次期大王となる者、この地の大王の息子だ!」
剣を振り上げた時、
「兄さんやめて!!」
聞き覚えのある声だった。
「ヒメ……」
「兄さん! この子たちは何も知らないんだ。僕が勝手に……!」
ヒメは王子の剣を持つ腕にしがみついた。
「帰るぞ!」
王子はそんなことお構いなく、ヒメを無理やり馬に乗せようとした。だが、
「痛い……!」
ヒメは王子の手から離れてしまった。
二人目の子供がヒメを大事そうに王子から離す。まるで、宝物を奪われそうな子供のように。そして王子をキッと睨む。その大きな目に吸い込まれそうだった。
「黒曜石……」
王子はふと、心の声を漏らした。
顔の見えない少女が子供らに駆け寄る。ヒメが子供らを安心させるように視線を送り、一歩前へ出る。
「兄さん、話があるんだ――」
子供たちと王子の馬は高原の少し向こうで遊んでいる。草を食む馬の上に子供が座る。
「家から逃げ出したことは反省している。嫌だったんだ」
ヒメは足元に視線を落とし、手をぎゅっと結んだ。
「二日も居なかったんだ、父上に何をされるかはわかっているんだろうな」
「だから……! だからあそこには居たくないんだ!」
「あのガキどもを見ろ! お前はあいつらとは違う。お前は幸せ者なんだぞ! 宮女に囲まれ、上質の衣、あいつらが口にできないような食い物。強き父上に、美しい母上。それに頼れる兄である俺も居る! 一体何が不満だって言うんだ……!」
「それが不満なんだよ!」
王子は初めて反抗するヒメを見たかもしれない。
「もういやだ……。僕、わかってるんだよ。僕が兄さんと同じ人間だってこと」
「ヒメ……?」
「ヒメなんかじゃない! 姫なんかに……なれっこない」
「お前……」
「もういい、僕は帰らない。帰るくらいなら、死んだ方がましだ……!」
ヒメは子供の元へ走って行った。
日も暮れてきて、護衛と合流した。
「王子、どうでしたか?」
「……居なかった」
「そうでしたか……」
王子はしばらく、ヒメのことは放っておこうと思った。面倒だったのもあった。
次の晩。風呂に入りに行くと、青白い月光の下であざだらけの体を抱き、泣いているヒメが目に入った。
自業自得だと王子は心で吐き捨てた。心の中で少しそう嘲笑った。むしゃくしゃしているのもあって、虐めてやろうかとも思った。
「あの子が……」
ヒメが口を開いた。
「黒曜石の子が、殺されそうだったから……かばった。そしたら、赤い鉄を、腹に当てられ……鞭で打たれて……!」
王子は少し自分と重なった気がした。ヒメの細くて白い体は濡れていて、長い髪が貼り付いていた。
ヒメを優しく抱きしめた。冷たくて、小さくて、震えていた。
「お前は娘になんか、俺の妹なんかになれない」
王子はヒメの手をつかんだ。
「お前は俺の弟だ。大事な唯一の――」
何年経った頃か、ヒメは両親の目の前で髪を切った。
王と妃は声も出なかった。
何もかも兄と比べられて嫌になって、兄の全て奪って自分のものにしてしまえば兄に勝てる、父上母上に認めてもらえると思った。
ヒメはここから、兄への報復が始まった。
「僕に無いものを兄さんは持っていて、兄さんが持っていないものを僕が持っていた」
三年ほどして、王子は18歳、ヒメは16歳になっていた。
今宵は満月。生暖かい風が吹くから、あの時の川に向かってヒメは馬にまたがった。
川面が月明かりで輝く。馬から降りて月を見上げる。すると、月の下に岩が来て、その上の人影が月と重なった。
「――それはないよぉ!」
楽しそうな声。でも、そこにあるのは一人だけで他の声は特にしない。頭のおかしい奴だろうかと思った。
だが、そうやって逃げるのでは今までの自分と変われない。そう思い、思い切って声をかけてみた。
「あ、あの!」
「え!? う、わぁあ!!」
その人は驚きのあまり、岩から川へ滑り落ちた。
急いで駆け寄ろうとしたら、その人は岩の上によじ登り、
「大丈夫! さっきも足を滑らして落ちたから……」
上裸の体から目を逸らせなかった。宮女と似た、小さいながらも同じものがあった。
彼女……と言っていいのだろうか。
「君もこっちへおいでよ! 今日は良い風が吹いてる」
彼女の手を取り、岩の上の彼女の隣に座る。
「上着、着なよ」
ヒメは上着を脱いで渡した。
「ありがとう。俺の服、まだ乾いてなくてさ」
「……君、名前は?」
「尋ねる方から名乗るのが礼儀だろう」
ヒメは申し訳なさそうに頭を掻くと、
「そっか。僕はニノミヤ……って、皆から呼ばれてる……」
「そう。俺は禊」
「禊……」
黒曜石――その言葉が真っ先に浮かんだ。
禊は優しい笑みを向けると、
「嫌な事でもあった?」
「え? ……まぁ」
月を見上げる。
「話してみ。愚痴を聞くのは慣れてるからさ」
禊は無邪気に笑った。
「……家が嫌なんだ。ずっと親の人形で居たら、家族って何だろうって思って……」
「その顔のアザは?」
「父に殴られたんだ。兄さんよりも劣ってるから……」
「それはたまたま、兄さんが出来過ぎているだけなんじゃないの?」
「え?」
「兄さんを基準にするのが悪い。だからと言って、自分より劣ってる奴を基準にしちゃあいけない。もっと基準の数を増やすんだ。もしかしたら君は、その多い数の中で真ん中なんじゃないかな? 所詮は君の周りの中だけの考え方で、もっと範囲を広げたら変わると思うよ」
そんな感がえ方もあるんだ、とニノミヤは納得した。
「それに家族って、血がつながらなくてもいいんだよ。家族って思えれば、それは家族なんだよ」
禊はそっと微笑んだ。
――――――。
兄の名をイチノミヤと言った。正式な名はまだない。そもそも名なんてものは食った試しもない。
「……暇である」
武術も学力も芸術も、全てにおいて父が認める自慢の息子であった。
だが、暇をつぶす方法を知らなかった。
ふと思いつきで作った、黒曜石を磨いた首飾りも完成してしまった。
「黒曜石――」
ある顔が浮かび、イチノミヤは立ち上がった。
服装もできる限り庶民的な感じにして、小刀を懐に仕込み、屋敷をこっそり抜け出した。
柔らかい昼の光の指す森をしばらくさまよった。三年も経っているから、顔も大きく変わっているかもしれない。もしかしたら、もうオッサンになってるんじゃ……!? そう悶々と考えながらイチノミヤは足を運ばせる。
ふと、白い影が目の前に出た。その瞬間、白い影はイチノミヤを押し倒した。
「おわっ!?」
後頭部で結んだ髪がイチノミヤの顔に垂れる。女かと思ったが、荒い息遣いと共に漏れる声は少年のように低めだった。それはイチノミヤの手をつかみ、人も出入りしなさそうな森の奥へ連れて行った。
「こ、こんなところに連れてって何すんだよ?」
「お前、貴族だな」
何故バレた、とイチノミヤは自分の身なりを確認し始める。
「耳飾りと首飾り。少ないにせよ、装飾品がここいらのもんじゃねぇ。早く家に帰ぇりな」
彼をまっすぐ見た目は、あの時の黒曜石だった。
「お前……ヒメと遊んでた禊ってやつか?」
「貴様は誰だ?」
「ほら! あの、三年前の! 王子だよ! 今はイチノミヤ様って呼ばれてるけどな!」
禊はしばらく考え、
「……あぁアイツ。なんとなくそうだとは思ったんだ。で、何しに来たんだ、王子様?」
禊は飄々とした顔で訊ねた。
「お前を迎えに来た」
決まった……! そうイチノミヤは心の中で言いガッツポーズをする。
「禊は俺の嫁」
1人の男が後ろから急に現れ、禊に抱き付いた。
「嫌好……!?」
イチノミヤは急に現れた嫌好に驚いた。
「俺はお前の嫁じゃねぇ! そもそも嫁じゃねぇ! 俺は言葉の旦那だ!」
禊は嫌好を引きはがそうともがく。
「また~この恥ずかしがり屋さんったら~♪」
嫌好の表情の硬さにイチノミヤは疑問を抱いた。
イチノミヤはため息をつくと、
「……めんどくさい奴も出てきちまったが、お前も来い」
「おいしい物でも出てくる?」
「うんとな」
「行く!」
屋敷の中へ入る。
「俺の部屋に居れば大丈夫だ」
イチノミヤは自室に案内した。
「お邪魔しまーす」
禊らは物珍しそうに部屋を見渡す。そこには見た事も無い家具や骨董品が並べられていた。
イチノミヤは琥珀を一つ手に取り、
「これは琥珀っつぅんだ。こうやって日光越しに見ると……」
「すげぇ。綺麗だな! まるで夕景だ……」
禊は目を子供のようにキラキラさせて見つめた。
「やたらと触るなよ嫌好!」
イチノミヤに怒鳴られ、嫌好が苦い顔をする。
ふと、禊が一つの石に近づく。
「それは黒曜石だ」
「真っ黒」
「……ほんと、禊の目みたいだよな……」
(……ほんと、禊の目みたいだよな……)
「うん? 今なんて?」
禊が首をかしげる。
イチノミヤは声に出てたことに気づき、焦りだす。
「兄~ぃ~さ~ん……?」
ふと、肩口からニノミヤが顔を出した。
「おわっ!?」
イチノミヤは驚きの余り飛び跳ねた。
気づいた禊が軽く手を振ると、
「あ。み、禊……ちゃん……どうも」
「お前、今ちゃん付け……」
「なぁに兄さん」
ニノミヤににらまれ、イチノミヤは黙ってしまった。
ニノミヤは何事も無かったように微笑み、
「なんか騒がしいから来てみたら、女――」
咳払いをし、
「お友達を連れてきてたなんて」
「え?」
普段よりも腹黒さのあるニノミヤにイチノミヤは恐怖を抱いた。
「あ。そもそも兄さんにお友達なんていないか」
「うるちゃい!!」
「イチノミヤ様ー!」
「やばっ! 使いが来た、お前ら隠れろ!」
イチノミヤは禊を布で仕切られている寝所に放り込み、嫌好をそばの馬小屋に放り込み、勢いでニノミヤまで寝所に放り込んでしまった。
全身に力を籠め、飛び込むように座布団にドッカと座る。
やって来た使いが、少し窺うように部屋を見渡した。
「な、何だ? 要件を早く言いたまえ」
「あ、はい。巫女様がお越しで」
「通せ」
巫女が身を構えやって来た。
「イチノミヤ様。少々、ご相談が」
「金か?」
「何故、私が来るたびに金の話になるんですか。この女たらし」
「あぁ!?」
「……そんなことはどうでもいいんです。本題です。――私の力の事は存じておりますね」
「あぁ」
「そして、近頃の国の状況は存じておりますね」
「あぁ。……全てにおいて危険な状況だ」
「そこで、私に案がございます」
「何だ」
「儀式を執り行うのです」
「儀式?」
イチノミヤは嫌な予感がした。何とは言えないが、胸騒ぎがした。
「はい。生贄です」
「……それは、動物か何かを?」
「いえ、今回はそんなものではこの国を救えません」
「では、何を……」
「人です。それも、子供を。本当は赤子を使いたいところですが、どうもちょうど良い者がなく……」
「それで?」
「えぇ。そこで、貴方に許可を頂きにまいりました」
「目星はついているのか?」
「はい。それはそれは素晴らしい、今回の器にはもったいないほどの者が……!」
イチノミヤは少々迷ったが、この国を少しでも良くできるのならと、
「……そうか、許可しよう。任せたぞ」
「ありがとうございます!」
巫女は満足げに去って行った。
ため息を一つついたとき、懐にあったはずの小刀がイチノミヤの首筋に当たった。
「……何を企んでいる……」
嫌好の低く唸った声が耳元に流れた。
「嫌、好――」
イチノミヤは唾を飲む。
「馬小屋に入れといたはず……」
「俺はお前を殺すつもりだ。忠告する、あの巫女の言う器は禊だ」
「何を根拠に……」
「婆様が言ってた」
「……は?」
「お前らなら知ってるはずだ」
婆様は前巫女の、王の巫女を務めていた者だった。
「言っておくが、お前らを殺すのなど俺には朝飯前だ」
背後が冷たかった。
(どさくさに紛れて僕を放り込みやがって)
ニノミヤはため息をついた。
「……ニノミヤ、ちょっといいか?」
禊は低く声を押し殺して言った。
「ん?」
「お、重い……」
「ご、ごめん!」
ニノミヤは急いでその場をどこうとしたが、体が何かにつかまって動けなかった。
「……兄さん、寝所に罠を仕掛けてるんだった……」
「何で」
「防犯って言ってたかな……」
禊がため息をつく。その息が前髪にかかる。もがいてもどうにもならなく、首が疲れてきたから禊の上に頭を置かせてもらった。
「……くすぐってぇ……」
「ごめん」
「何で謝るんだよ……ふひひっ、毛が首に当たって……ひへへっ」
「変な笑い方……」
二人で笑った。
禊がニノミヤを見下ろす。ニノミヤは女の子になった気分だった。本当は禊は男で、ニノミヤは弱々しい女の子、そんな妄想を少しだけしてみる。
「……かっこいい……」
「うん?」
「な、何でもない……」
禊の腹の上下が肌で感じた。
「痛っててて……」
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫大丈夫。ただ、足が挟まって……」
「ちょっとまって、僕がどうにかなれば……うわっ」
禊の顔が近くなる。
「あっ、あぁ……」
ニノミヤは肌が白いためもあってか、顔が赤くなったのが良く見えた。
「ニノミヤ、大丈夫か? あ?」
禊が頬に触れた。武骨で細い指がニノミヤの白い肌を滑る。
「お前熱いぞ?」
頬を指先で揉む。
「おっやわらけぇ、へへっ」
ニノミヤは心の中で決心し、禊の目をじっと見つめる。
「ニノミヤ……?」
「だぁらっっしゃぁぁぁぁいぃぃぃ!!!!」
寝所の幕が開いて、光が差し込んだ。
「禊、大丈夫?」
腰をさする禊に、心配そうに寄り添う嫌好。
「意外に大丈夫だった。痛かったけど……」
「変な事されてない?」
「ありがとう、嫌好。逆に俺がしたかもな」
嫌好は首を傾げた。
「このクソ弟」
「このクソ兄」
イチノミヤとニノミヤが睨み合う。
「同時に言ってるよあの二人」
禊は指をさして笑い、
「さっき何があったんだ?」
「専属の巫女が来てな」
「で?」
「……まあ、金の話だ。金にうるさいヤツでな」
「ふーん」
「ここだけの話、見た目は若いが実際29なんだってな」
イチノミヤは声を潜めて言った。
「うわ、オバサンじゃん」
「しっ! 奴は地獄耳だからな」
四人で腹を抱えて笑った。
「帰れる? 近くまで送ろうか?」
イチノミヤは声をかけた。
「お前らよりもここの土地には詳しいぞ。それに、お前らが一緒だと変に目立つ」
「ついてくんなー」
「黙れ嫌好」
「またね!」
大きく手を振る。
また会えるといいな。
でも、会えなかった。会えた時、それは僕らの死に時だった。
儀式が執り行われてから、どれくらいたっただろうか。誰の頭にもその事がちらつかなくなった程だった。
国はどんどん大きくなっていった。でもその分、民衆の生活は苦しくなる一方でもあった。近隣の国とも折り合いが悪くなっていき、国はどんどん孤立していき、周りの国全てを荒んだ目で見ていた。
それに影響されてか、イチノミヤは以前と比べ、随分と荒んだ様子だった。
――誰も居なくなった禊の家を掃除する言葉。
「言葉、もう禊は居ないんだ。そんなことしたって……」
玄関に佇む嫌好の影が言葉にかかる。
『邪魔しないで! 禊は私の旦那様になってくれた。だから、私はお嫁さんとしての仕事をしなくちゃいけませんの。いつでも帰ってきていいように……』
言葉の目から涙が溢れ出た。
「言葉……」
「うっ……ぐ、み……そ……うぁ……わぁぁ……」
言葉は持っていた花を握りしめる。茎が折れて、花の頭が垂れた。
蒼月の満月。
ニノミヤは黒曜石でできた腕輪の中に月を入れて見た。
「変なの……特に仲が良かったわけでもないのに、心の中に穴が空いたみたいだ」
ふっとため息を漏らす。
物見やぐらに上って景色を見た。月明かりに照らされる町は白く輝くはずが、この日ばかりは一面が明るく赤かった。
「炎……? 火事だ!」
ニノミヤは急いで知らせに走って行った。
「は……はは……何コレ……。違う――私のせいじゃない……私じゃない! 私は何も……!」
巫女は神木の横の、小高い岩の上に立って村々を見下ろしていた。ふと、後ろの何かに気付き、振り返った。
「違う、私は――!」
「えあぁぁぁぁっ!!」
――ズシュッ
巫女の腹に剣が刺さる。
「あ……あぁ……私……」
「……まれ……」
巫女は聞き耳を立てた。
「……黙……れ。死ネ……全部……壊す……!」
赤い目に睨まれ、巫女は全身の血が凍るのを感じた。剣が抜かれると、肉体だけの巫女が倒れた。
何かは剣を引きずりながら足を進める。
炎の間を走り抜ける言葉が、目の前でつまづくのが見えた。何かは獲物を見つけたかのように口角を上げると、飛び跳ねて言葉に襲い掛かった。
「きゃぁ!」
振った剣は言葉の額をかすり、前髪を切り落とした。そして何かは言葉に掴みかかり押し倒すと、馬乗りになった。
言葉は首に当てられた剣を払おうと刃を握った。手のひらに食い込み血がにじむ。
「ウゥゥ……ァァァ……」
何かの声は苦痛にもがくようでも快楽に唸っているようにも聞こえた。
『そんな……何で、禊?』
言葉は信じきれなかった。一生懸命笑いかけようとするが、体は正直でうまく笑えなかった。それどころか目の前の何かから逃げなければならないと本能で感じていた。
――ザシュッ
剣は言葉の細い首を断ち切った。
何かは立ち上がり、大王の屋敷の方向を睨むと、そこに向かって走った。その際に出くわす人を次々切り殺していく。
「ヴォアアアアア!!」
熱く熱を帯びていく腕は血を浴びるたびに焦がしていき、何かからは屍の焼ける匂いがした。
「なんだこれは!?」
戦から帰ってきたばかりのイチノミヤが、国の状況を目にして肝を潰した。
「ニノミヤ……」
真っ先に弟の身を案じ、屋敷に向かって走る。
「ニノミヤっ!」
イチノミヤが部屋に飛び込むと、目に入って来た光景を疑った。
「わぁぁ!!」
何かが弟の髪をつかみ、床に叩きつけていた。
「フーッ、フーッ――」
何かの口から牙がむき出しになり、血が滴っていた。乱れた髪の間から見えた顔で、イチノミヤは何者か判断した。
「やめろ!!」
イチノミヤは剣を振るい、何かから剣を振り飛ばした。
「ア"ァァァァ!」
何かの腕の表面にひびが入り、皮膚が細かく剥け落ちると、中から人の腕とは思えないものが露になった。焦げた屍のような黒い左腕と神の衣のように白い右腕。
何かの鋭く尖った左腕が振り下ろされる。思わず身を守るために出してしまった腕に爪先がかすめ、爪は深く腕に食い込んで血がこぼれた。腕の傷を押さえて後ろに下がる。
何かの後ろで立ち上がる弟が見えた。イチノミヤは負傷した腕をかばいながらも、剣を振るい叩きつけたが、何かの腕は鎧以上に固く剣を弾いた。
そして、何かはイチノミヤの剣を銜えるとそのまま噛み砕いた。
「何……!?」
粉々になった剣が乱反射して散らばる。その中から何かが飛び出し、イチノミヤを押し倒した。そしてイチノミヤの腕に爪を突き刺すと、床に刺して固定してしまった。
「ウゥゥゥ……」
何かは赤い目で睨み唸っていた。歯から滴る血が顔に落ちる。
イチノミヤは壁にもたれるニノミヤと視線を交わす。
「……俺の判断が間違っていた……。お前の友人に言われたとき、やめときゃ良かったなぁ……」
全てを悟ったような気がした。イチノミヤの顔は死を受け入れる優しい微笑みだった。
何かはイチノミヤの首に噛みつくと、肉を噛みちぎって持っていく。
「あ゛ぁぁぁぁぁっ!!!!」
かすむ視界に、噛みちぎった肉を吐き出すのが見えた。
「好いた奴に殺されるのなら……本望だ……」
「ウァァァ……」
「俺を……殺せぇ……み――!」
「ヴォォォア゛ァァァ!!」
死に際の言葉は咆哮でかき消された。
何かは両手でイチノミヤの鎧を引きはがし、腹に指を刺すと胸骨もろとも肋骨を体から剥ぎ取る。部屋の壁も床にも血が飛び、一面真っ赤になり、骨、内臓が飛び散る。
吐き気を押さえながらニノミヤは走り逃げた。何かにやられた足を引きずりながら、必死に喘ぎ喘ぎ逃げていく。気づかれまいと声を押し殺したつもりだが、恐怖に声が漏れてしまう。
何かは腕に着いた血を舐め、ゆっくり立ち上がると、足元のイチノミヤだった死体を踏みつけて部屋を出ていく。
「あ、あぁ……いっ……!」
ニノミヤは後ろを振り返りながら走る。
襲われた場所からはかなり離れたいたはずだったが、いつの間にか背後にいた何かに足をつかまれ倒れた。顎を思いっきり地面に打ち、痛みが全て頭に響き視界にノイズが入った。
「い……嫌だ! 離せぇ!!」
大きな左手に両足をつかまれ、引きずられ連れていかれる。酸でもかけられたように、つかまれている部分が痛い。幸い自由だった右足で何かの大きな手を蹴るが、全く反応が無く傷一つつかない。
「離せ離せ離せっ!!!! 痛い! 嫌だ!!」
何かが振り返る。赤い目が笑った。
「笑った……?」
むき出しになった牙は赤く、ぬめり光っていた。
何かは右手を伸ばし、ニノミヤの白い腹に差し込んだ。
「いっ痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い!!!! 痛いよ! 助けて! 助げでぇ!!!!」
何かは右手を動かし、腹の中をかき回す。ニノミヤの口から血が溢れ出た。
「ゴフっ、あ……グブっ……うぁっ……い゛っ……!!!!」
ニノミヤは必死に抵抗するが、抵抗すればするほど体が崩れていく。
腹に刺さった手が離れたかと思うと、右手で取り出された、まだつながっている自分の心臓が見えた。状況が理解できず、ただ目の前の恐怖に全身を震わせた。奥歯からガチガチと音が鳴る。その音を何かは心地よさそうに聴き、口を開くと赤黒い蛇のような舌を伸ばし、心臓を舐めまわした。
「兄さん……助けて……」
もう生はどこにもなく、目の前に死が佇んでいるだけだった。
涙が胸を濡らす。
そして、何かは心臓を握りつぶした。生き血が顔を赤く染める。
何かは肉となったニノミヤを放り投げると、剣を拾ってまた歩き始めた。
剣を引きずりさまよっていると、嫌好が飛び出し頭を蹴った。腰を蹴り、腹を殴り、左腕をつかむと、膝で思いっきり骨を折った。最後に何かの足を蹴り転ばせる。
倒れた拍子に馬乗りになり、首に何かの持っていた剣を当てる。視界の隅で折れた左腕が再生するのが見えた。
「――貴様ぁぁ!!!!」
嫌好は感情を露にして怒鳴った。
「……け、ンん……こ……」
何かの口が言葉を放った。嫌好は疑うように見つめる。
「逃げろ……アァ……お前を、殺した……ヴォァァ……無イ、ア゛ァァ……ッ!」
「じゃあ……じゃあ何で他のも殺したんだよ!!!!」
「ウゥ……アァァァァァ!!!!」
何かの口から飛んだ血が顔にかかる。
「家族……みんな……ゥゥ、逆らえな……」
「何に!?」
「ァァァ……ヴァァァァァ!!!!」
何かの声は葛藤しているようだった。
「ゥゥ……願い……ァァ……」
「願い……? 意味わかんねぇよ、答えろよ! 答え――」
何かは嫌好をつかむと、森に向かって投げた。木に当たり内臓に振動する。腹を抱えて重い体を起こした。
炎の逆光により影しか見えなかった。変わり果ててしまった何かは、隣国からやって来た兵士を、まるで小石を蹴散らすように次々と殺していく。
嫌好は走った。恐怖と悲しみで潰れそうな心を抱え。
「何で……何で、何で何で何で何で!!!!」
曇天は月を隠し、怒る何かに答えるように雷鳴をとどろかせた。重い雨は涙を隠すように嫌好を濡らしていった。
「――ヴゥゥゥォォォォォォォォア゛ァァァァァァァァァァァァ――!!!!」
濡れた夜を乾かすように、何もない白い朝がやって来る。
日が出たから、嫌好は村に戻った。
そこには何もなく、黒いガラクタがあるだけ。
何かに投げられた衝撃で肋骨が折れ、それが内臓に刺さっていた。倒れそうな体を支え、屋敷に向かう。
ふと、屋敷の近くに落ちていた、イチノミヤが作った黒曜石を磨いた首飾りが目に入る。
『アイツの誕生日にでもあげようと思ってな』
腹の立つ声が頭に響いた。
首飾りを拾い上げると、強く握りしめ、
「――ぁぁあ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
声を押し出すように苦痛に叫んだ。
「クソっ! クソぉ!!!!」
地面を何度も何度も拳で叩いた。
「……おのれぇ……!」
溢れる感情に体が震え、血の涙が溢れた。
白い雲が少し泳ぐだけの、洗い立ての真っ青な空に向かって叫んだ。
「いるなら返事しやがれ!! 神様よぉ!! 俺に! 復讐する時間と、力をよこせぇぇ!!」
その言葉は俺のじゃない。
「絶対に!!」
違う。
「復讐して!!」
欲しいのは、笑い合う時間だ。
「壊して!!」
守りたいんだ。
「――――――――!!!!」
体が急に重くなり、嫌好は倒れた。
「……追いかけ……ないと……」
そのかすれた言葉だけは、本音に聞こえた気がした。
――――――。
いつまでもこんなところに居たくなかった。
だから何かは山を越え、谷を越え、川を泳ぎ、滝を下り、海を泳ぎ、森を抜け、野を走り、砂漠を泳ぎ、とにかく走った。
自分さえも、他人さえも、何もかも見えなくなり、御神さえも見えなくなった。
聞こえない。分からない。ここは何処? 只々何もない白い世界。
死んだかどうかもわからない。でも、死んでない。死ねない。誰も居ない。辛い。
「後悔、したくなかったのになぁ……」
何かの黒い目から大粒の涙が溢れる。
「もう嫌だ……何も、もう知りたくない……! 生きたいだなんて思わなければよかった! これ以上知りたくないよ!! ――生きたくないよ――」
すると、後ろから御神が目を両手で覆った。
「……死ぬのが怖いよ……」
喉が痛かった。
胸が痛かった。
目が痛かった。




