第二話 皐月 琉子
懐かしい記憶。
「――こ――りゅうこ――」
……ママ?
「琉子、起きなさい」
声がして、夢から這い上がった。
「おはよう、琉子」
「おはよう、ママ」
上体を起こして目を擦る。
「パパは?」
「もう起きて朝ご飯食べてるわよ」
急いでベッドから降りて、大好きなくまさんのぬいぐるみを片手にキッチンへ走る。
「パパ! おはよう!」
「おぉ、琉子。おはよう」
「パパ、今日もお仕事?」
「ハハハ。今日はまだ金曜日だぞ」
「明日、皆で学校の準備の買い物に行きましょう」
後からやって来たママがそう言った。
「わぁい!」
「ほら琉子、幼稚園に行く準備をしなさい」
パパにそう言われ、私は元気よく返事をして支度を始めた。
私が住んでいるのは、とある国の日本人村。パパはそこのサラリーマンなんだけど、何か隠してる感じ。仕事についてはあまり話してくれない。
ママは専業主婦で、お菓子作りがとっても上手!
「行ってきまーす!」
パパと手をつないで家を出る。
「行ってらっしゃい」
ママが手を振った。
幼稚園に着き、
「琉子ちゃん、おはよー!」
「おはよー!」
友達と手をつないで自分のクラスの部屋に入る。
たくさん遊んで、お昼はママの作ったお弁当食べて、夕方にはママが迎えに来る。
「せんせー、さよーならー!」
「また月曜日ね、琉子ちゃん」
夕ご飯の時間に、パパが帰ってくる。
「パパ、お帰りー!」
「おぉ、琉子。ただいま」
パパが私を抱きしめた。
「琉子ね、今日ね、幼稚園でね――」
「ハハハ、そうかい。そりゃあよかった」
ママのおいしいごはんを食べて、パパとお風呂に入って、ベッドに入る。
「おやすみ、ママ」
「おやすみ、琉子」
ママが私の額にキスして、電気を消す。
明日の家族でのお出かけに胸が躍る。
でも、こんな毎日がどれ程平和で幸せな事だったか、当時の私は知りもしなかった。
デパートで靴を選んでいる時、
「ママ、ちょっと……」
「パパ?」
パパとママがひそひそと何かを話す。
二人は私に向き直すと、
「琉子。パパ、お仕事が入っちゃったんだ」
「ママ、琉子とお菓子作りたくなっちゃった。だから帰ろう。ね?」
パパとママは私を刺激しないよう優しく言った。だが私は、
「ヤダ! もっとお買い物したい!」
「琉子……」
ママが悲しそうな顔をする。
パパが私を叱ろうとしたとき、
――ドォォォォン!!
デパートの一角が大きく爆発した。
パパは何も言わずに私を抱え、ママと走り出した。
銃砲が雨音のようにたくさん鳴り響いた。
パパは私をママに預け、ママと顔を見合わせると炎と煙の中に消えた。
「パパ!!」
追いかけようとする私の手を引き、ママと私は走る。
大好きなくまさんのぬいぐるみを落とさないよう、しっかりと抱く。
――バシュッ
銃弾がママの足に当たり、ママが転ぶ。
「ママ!!」
泣きながらママに駆け寄る。
「琉子……」
ママは弱々しく、私の頬を撫でる。
「ママ! ママ!!」
「琉子、行きなさい……」
「どこへ……?」
「逃げるのよ。人の居る、安全なところへ……」
「イヤ! ママ、起きて!」
壁が崩れて、瓦礫がママに降り注ぐ。
「行きなさい! 琉子!!」
初めてママの本気で怒った顔を見た。
泣きながらくまさんを力強く抱えて走った。光に向かって走った。
瓦礫につまずき、顔を思いきりぶつけた。すると目の前に、銃を持った大人がいて、銃口を私に向けた。
「イヤ……」
初めて死ぬ恐怖が分かった。
死んだらどうなるんだろうとか、意識はあるんだろうかとか、そんな逃げる事よりも余計なことで頭の中がいっぱいになった。
何より思ったのが、この人は何を思って私を殺そうとしているんだろう。
銃は黒目を私に向ける。
引き金を引いた瞬間、目の前に何かが立ちふさがった。それは人影のようで、大きな猿のようだった。
銃は人影に何発も撃つ。人影は刀のようなものを持っていて、それが薄暗い煙の中でスラリと光った。
気がついたら、人影は私を守るように覆いかぶさり私を抱え、走った。
その時見た横顔を、私は忘れられなかった。
薄暗い中、赤く光る一つの眼。横顔から、若い男の人と分かった。
避難所へ逃げて毛布にくるまっていた。
何もする気が起きなくて、生きる気力もなかった。渡された食料を食べる気さえなかった。
ただ茫然と歩き、死体安置所に着く。
なぜわかったのか、二つの死体の間に私は立った。毛布を軽くはがし、その顔を見下ろす。
『今日はどのお菓子を作ろうか』
『必ず戻るから』
聞き覚えのある二人の声。
そこにあの人影の人が来た。私の前にしゃがみ、死体に手を合わせる。仏教徒なのかな、日本人なのかな。そして私の方を向くと頭を撫でた。その手は大きくて優しくて、何より温かかった。
空っぽだった心が満たされて、何かがあふれた気がした。
目が熱い。涙があふれる。喉が引っ張られるようで痛い。
その人は私を優しく抱きかかえると車に乗せ、どこかへと連れて行った。
目が覚めた。ここは……東京のアパート。
そっか。夢か。懐かしい。
目を擦ったら濡れていた。
ボロボロのくまさんに目をやり、笑顔を向ける。
「パパりん、どうしてるかな。勝手にお邪魔するのは悪いから、呼ばれたらお邪魔しよっか」
そっとくまさんを抱きしめた。
あの時とほとんど変わらない肌触りと香りだった。