死のその先へ 0.2
生体物理学研究所に最も近く、それでも背の高い樹木を挟んで数十メートルは離れている理学部棟の屋上に、その者はいた。
研究所の周りには、赤いランプの光が煌々と夜の闇を照らしている。ボヤ騒ぎが起きたため、警察や消防隊員が駆け付けて現場検証を行っているのだ。
しばらくして、二つの遺体収容袋を載せているはずの救急車が一台、周囲の喧騒から切り離されて研究所を離れていくのが見えた。建物を囲う樹々の枝葉の間から、回転する赤色灯の光は漏れてくるが、緊急を知らせるサイレンの音は響かない。
これで榴輝と翠は共に、両親の元へ帰ることが出来る。二人のために出来ることは、もう無い。
「菫青……」
聞き覚えのある声がして後ろを一瞥すると、現実世界に居るはずのない彼女がそこにいた。
「クラナ……なぜ君がkokoに居る?」
「貴方にどうしても伝えなければならないことがあって……ここに来たの」
クラナは距離を保ったまま、真剣な面持ちで言った。
「それはシツモンの答えになって、ない。俺は、どうやってkokoに来たのかって、聞いている」
その者は、奥歯をギリギリと鳴らしながら、じれったそうに頭を左右に振った。
「……ごめんなさい」
クラナは彼の変わり果てた姿に萎縮し、謝罪の言葉を述べた。
「こんなことになるとは思わなかった。貴方や、榴輝さんや、翠さんが……こんなことになるなんて……私はただ、自分が自由になりたい一心で、貴方たちを騙していた……」
「…………」
「赦してもらえるなんて思っていない。でも……私にはこれしか無かったの。それだけは忘れないでいてほしい」
「君は、ジブンがdareか、知っていたのka?」
「ええ。私はもう長くは存在できない、始めからそう言われていた通りに。だから会いに来て、お兄ちゃん」
そう言って、彼女は煙の如く姿を消した。
その者が体の至るところから鎖を伸ばす度に、辺りには何かが焦げたような匂いが漂った。常にドロドロに溶けた溶岩は自由に形を変えてその者の手足となり、ビルの上を駆けるための翼ともなった。闇夜を疾駆し、消えることのない怒りの炎を冬空の下で燃やし続けた。それはその者の意思ではなく、宿命であった。
病院に着くと、長い廊下を歩いて目的の病室へと向かった。時間が止まってしまったのではないかと思うほどにその道のりは長く、そして平然と病院内を歩くその者の姿は誰にも見えていないようであった。事務室の警備員にも、ナースステーションの看護師にも、廊下を歩く患者にも。
とうとう、この日が来たのだ。
意識を取り戻した御影の姿を見る――――そのためだけに、今日まで生き地獄を耐え抜いてきた。だというのに、心は驚くほど静かで、その者が高まる心臓の鼓動を感じることは無かった。
〔E-二二-一三号室〕――――病室の扉に手を掛け、開ける。
部屋の中の明かりは点いていなかった。窓から差し込む月の光に誘われるように、彼女が待つベッドへと歩み寄る。カーテンを引くと、そこには何度も夢に見た光景があった。
「御影……」
月光を浴びる白い肌と、身体から延びる黒い影。御影は三年間横になっていたベッドから起き上がり、そこに座っていた。
「お兄ちゃん……?」
彼は妹を抱きしめようとして、それをするべきでないという心の声を聴いた。自分は相応しくないのだと、その声は言った。
「御影……俺が分かるのか?」
「分かるって…………なにが?」
彼女は何の疑問も持ち合わせていない様子で、細い首を少しだけ傾けた。
「お帰り、御影」
「お帰り……? さっきから何言ってるの、お兄ちゃん? でも…………一応、ただいま」
御影は口を押さえて笑った。
笑顔を浮かべると痩せこけた頬が一層際立ち、筋肉が落ちて細くなった腕はとても弱々しく見えた。
「お兄ちゃん……私、凄く長い夢を見ていた気がする。とっても怖い夢。真っ白い不思議な世界にいるんだけど、そこには黒いお化けがいっぱいいてね、私はお兄ちゃんと一緒にお化けと戦ってるの。おかしいでしょ?」
「いや……おかしくなんてないよ」
「それでね、私はお兄ちゃんに隠し事をしているの。それがすっごく辛いんだけど、どうしても言えなくて…………でも、夢が覚めて良かった! 実は――」
突然、御影の身体が傾いた。穴が空いて空気が抜けていく風船のように、力なく崩れていく。
「おい!」
彼は倒れてきたその身体をしっかりと受け止めた。
それはもう――――本当に、どうしようもないほどに、どうあがいても覆せないくらいに、ただひたすらに…………軽かった。
御影の身体はすでにスカスカになってしまっていた。
「私……どうしてもこれだけは言いたくて……」
胸の中から聞こえてくるか細い声。それは、最後の力を振り絞るような声だった。
「ごめんね、お兄ちゃん…………ごめんなさい……」
そんな言葉を掛けられるとは思ってもみなかった。自分は何もしてやれなかった。兄として相応しいこと、家族として相応しいこと、人として相応しいこと…………何一つ、してやれなかった。
天河菫青は生きることから逃げようとしただけの臆病者だった。自分の生きる意味を見出せず、それを妹に押し付け、降りかかる不幸を彼女のせいにした最低の人間だった。謝るべき者がいるとしたらそれは彼の方だ。だから――――
「謝るな。お前は何も悪いことなんてしていない。俺の妹は誰よりも強く、最後まで戦っていた。だから謝る必要なんてない。お前は胸を張って良いんだよ」
「じゃあ……私のこと…………赦してくれる?」
「当たり前だろ! 俺はお前の兄ちゃんなんだぜ!?」
「そっか……よかった」
御影は大きく息を吐いた。
「ホントに………………本当に……………………よかった」
それを最後に、御影は何も話さなくなった。小さく上下していた胸も、凍り付いたように動かなくなっ
ていた。
「………………御影?」
彼は妹の顔を覗き込んだ。その頬にはまだ乾いていない水滴が付いていたが、決して哀しみの表情ではなかった。苦しみから解放されたような、柔らかい笑顔だった。
「御影…………頼むから、嘘だって言ってくれ」
指の隙間から、彼女がいつも自慢していた癖一つ無い黒髪が流れた。こぼれ落ちる命をすくうように、彼はそれを腕一杯に抱えようとした。
どんなに呼びかけても、彼女が再び目を開けることはなかった。
「………………嘘だ」
病室の隅の暗闇に溶けてしまいそうなほど小さな声で、彼は呟いた。震える脚に鞭打って立ち上がり、冷たくなった亡骸を空のベッドにそっと寝かせる。
「こんなのは間違っている…………俺は…………絶対に、認めない」
彼の叫びに呼応し、周囲の空間が歪曲する。
次の瞬間、彼は果てしなく続く荒野に立っていた。
「みかげええええええええええええ! どこにいるんだあああああ!?」
彼は叫び続けた。彼女の存在を感じることが出来ないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。それが、彼の人間としての最後の行為だった。
「みかげええええええええええええええええええええええええええええ!」
銀色の空の下、音も無く吹きすさぶ風は、ただ一人残された男の叫びを世界の果てまで運んだ。
「赦してやるって言ったろ……だから…………帰ってきてくれよ」
彼女の存在はもはやどこにもなく、世界を支配する混沌の中に全てを還していった。