無限天の空 0.5
「おやおや、これは、これは、金剛教授の息子殿。今日は可愛い彼女を連れて我が研究室を見学しに来てくださったのかな?」
「ふざけるな! 菫青はどこだ!?」
榴輝は曹灰に詰め寄った。研究室の見るからに重そうな扉の前に立ちはだかるマッドサイエンティストは、薄気味悪い笑みを浮かべながら平然と言い放った。
「菫青君なら現在も実験を継続中だ。彼は自分の意思で参加し、私も約束通りの報酬を彼に渡した。君に邪魔をされる筋合いはないのだがね」
それを聞いて、翠はひとまずホッと胸を撫で下ろした。 菫青はまだ生きている。最悪の事態になる前に、何とか間に合った。
しかし、そんな説明で榴輝は納得するはずがない。
「ふざけるな! 人の命を懸けた人体実験をするなんて……あなたはそれでも科学者か?」
「いやいや、私は科学者ではない。未知なる領域を求める探究者だ。それに、君は大切な事を勘違いしている」
曹灰は白衣のポケットからディスプレイを取り出すと、そこに映像を映し出した。紛争や飢餓、差別に苦しむ人々、ストレスを抱えて誰にも相談出来ずに電車に飛び込み、ビルから飛び降りる人の様子が次々と目に飛び込んでくる。そしてそこから生み出される苛め、暴力、殺人...。
「いいかね、よく聞きたまえ。私たちが何もしないということはそれだけで罪なのだ。今この瞬間にも、我々が何も変えられないせいで無数の人々が苦しみ、人生に絶望しながら死に直面し、自ら死を選んでいる。君は今のこの状態が延々続くことが正義だと思っているのかね? 死んでいく人間、死を選ぶ人間は死んでも仕方ない、彼らの能力不足だと君は言い切るのかね? それならば、君は誰の命に対しても同じように振る舞いたまえ。それがたとえ親友であっても、だ」
曹灰の言葉は榴輝の胸に深く突き刺さった。
「親友と赤の他人を同じように考えろと? そんな事は…………出来るわけがない」
「それが正義というものだ、悩める若者よ。君が不義の人間であることを選ぶのならば、私はそれでも一向に構わない。だがその道に進むことが出来ないのは君自身がよく知っているはずだ。できるならとっくに選んでいるはずであろう。君は知るべきなのだ。何が君にとって最大の苦しみなのかを」
「あんたの実験が……菫青の犠牲が、世界から苦しみを取り除くとでも言うのか?」
「そうだ! 彼にしてみれば、妹のためだけに実験に参加したようなものだが、実際は世界中の人々を救済する可能性となる。君が考えているよりも遥かに、この実験には意味があるのだよ。君はただ、友の無事を祈っているだけでいいのだ」
「ふざけんじゃないわよ!!」
激昂した翠は曹灰の胸倉を掴んだ。
「誰のためにやってんのか知んないけど、そんな事情はあたしには関係ねーんだよ! さっさとそこをどけ!」
「翠、止めるんだ」
榴輝が羽交い絞めにしてようやく引き剥がす。それでも翠は曹灰を蹴り飛ばそうと死に物狂いで暴れる。
「フンッ、これだから女って奴は……話の通じない客にはお帰り願おう」
崩れた白衣を直しながら、曹灰は翠を睨み付ける。榴輝は「放せ!」ともがく翠に耳打ちした。
「落ち着け、暴れたって何も解決しないだろ」
「もういい! こうなったら警察を呼んでやる!」
「それはお勧めしないぞ、お嬢さん」
曹灰がぼそっと口にした一言に、翠は暴れるのを止める。もみ合っていた二人は研究者の発言に注目した。
「警察が来たところで、君たちの友人を助けることは出来ない。そんなことはこの私にも不可能だ。菫青君が自分で戻ってくるしかないのだよ」
そう言うと曹灰は研究室の扉に手をかけ、重そうな鉄扉をゆっくりと開けた。
「君たちにも見せてあげよう。それが私に出来る全てだ」
榴輝と翠は物が散乱した薄暗い研究室に誘われる。そこは小さな体育館程の広さがある、特大の研究室だった。床には得体の知れない機械がいくつも転がり、そこかしこの机にはディスプレイが幾何学模様を描いている。そして部屋の中央、最も目立つ場所にそれはあった。
水族館でしか見たことがないほど巨大なその水槽は、部屋の中で最も明るく照らされており、半透明な緑色の液体に浸る物体を浮かび上がらせている。
「菫青!」
それを見た翠は一目散に駆け寄り、ガラスに顔を押し付けるようにして覗き込む。紛れもなく、二人が探していた人物に他ならなかった。榴輝も翠の後に続き、水槽の中に力無く漂う親友の姿を見た。全裸で、水槽の上部から伸びるコードが繋がっている帽子を被っている他、菫青は最後に見た時となんら変わっていなかった。
「どうだい? 君たちの親友は今まさに、未知の世界を探究しているのだ。応援したくなっただろう?」
榴輝はこの期に及んで癪に障るような発言をしてくるイカれた探究者に、堪忍袋の緒が切れる寸前だった。
「こんな危険な実験、よく今まで誰にも見つかりませんでしたね」
怒りを押し殺し、努めて平静を装いながら曹灰に話しかける。少しでも多くの情報を手に入れるために……。
「この部屋に至るまでの道のりにはいくつもの監視装置が仕掛けられている。それに加えて、ここの扉は私以外の人間には絶対に開けられないようになっている。さ・ら・に、最悪の場合に備えて、この施設全体を跡形も無く吹き飛ばせるほどの爆薬も仕掛けてある。まさに秘密の研究室なのさ」
曹灰は自慢げに語った。
「何か……何か出来ることは無いの?」
翠のか細い声が聞こえ、そちらの方を見る。彼女は水槽のガラスに額を重ね、ただ遠くを見るように愛する人を探していた。
「あたしに何かできることは無いんですか?」
何もせず、ただ見ているだけなんて耐えられない。翠の声はそう言っていた。
「んー……」
曹灰は顎に手を当てて考えている。そして、運命を決める一言を告げた。
「無いことも無い。ただし……君たちにも命を懸けてもらうことになる」
――――――――――
「…………やっぱり僕だけでいいよ」
もう何度目か分からない提案を、榴輝は翠に向かって告げた。
「しつこい。あたしがやるって決めたんだから、これだけは絶対に譲らない」
「でも凄く危険なんだって、分かるだろ!?」
水槽の周囲であくせくと準備をする曹灰の様子を横目に見ながら、榴輝は語気を強めて翠に警告する。
「君の菫青への気持ちは分かってる。でも、だからこそ君には残ってほしい。こんなことは言いたくないけど、もし誰も生き残らなかったら御影ちゃんはどうするんだ? 誰が彼女を支えてやれる?」
「だったら榴輝が残ればいいでしょ。あたしが一人で菫青を助けに行く」
「……それは出来ない。君一人にやらせるなんて…………僕はもう二度と、同じ過ちを繰り返したくないんだ!」
「だったら文句言わないで! あたしは必ず助けに行く。菫青がいない人生なんて、あたしにとっては何の価値も無いんだから。菫青が死ぬ時はあたしの死ぬ時。後悔なんてこれっぽっちも無い」
「……君は凄いね」
榴輝は説得を諦めた。昔から翠は三人の中で最も男らしく、一度決めたら頑として譲らない性格だった。それが菫青の事となると一層頑固になった。それでも、まさか命が懸かった場面になっても変わらないとは予想外だった。
「大丈夫。人数が多いほど助かる確率は高くなるって言ってたでしょ? あたしは必ず菫青を連れ戻す…………絶対に」
「女の感情も役に立つ時があるのだねぇ」
皮肉をたっぷりと込めた嫌味を言いながら、曹灰は二人の元にやってきた。
「曹灰教授……あなたは筋金入りの女性差別主義者ですか?」
「いや、それは違う。私は短絡的な感情を垂れ流す行為を蔑視しているのだ。その行為者に、女が多いというだけのこと」
「……最ッ低」
「ほら見たまえ。……準備は整ったぞ」
曹灰は水槽に立て掛けられた梯子を指差す。榴輝と翠は曹灰の破綻した人格に対しての怒りを堪えながら、その後に続いた。
「メディカリウムに入る前に、上に置いてある電極キャップを被りたまえ。それが君たちの意識と、菫青君の意識を同調させるだろう」
「『だろう』? 確実にそうなると分かっているんじゃないのか……?」
「なにせ、分からないことだらけの実験でね。まあ、探究には付きものだ。余計な心配をするな」
「そんないい加減な実験に参加させられるのか……?」
「いい加減にするのは君の方だ。君は自分の意思で菫青君を助けに行くんだろう? だったらそれを私のせいにするな、甘えるんじゃない」
最初に、榴輝が身に付けていたバスローブを脱ぎ、梯子を上って水槽の上部に達する。翠に全裸を見られるのはさすがに気まずかったが、それはお互い様で、今はそんなことを言っている場合ではなかった。すでに洗浄済みの榴輝の体からは薬品の匂いが漂う。水槽の入り口半分を覆う蓋の上には、確かに電極らしきものが付いたキャップが置いてあった。
「これでいいのか?」
キャップを被り、曹灰に見せて確認する。
「よろしい。その電極が君の精神重力波を計測し、深層界への潜入が成功すればDW波が出る。大波が来るよう祈る、金剛榴輝」
榴輝は一思いに水槽の中に飛び込んだ。薄っすらと緑がかった視界の中、菫青がすぐ傍に見えた。榴輝は翠のスペースを開けるため、反対側に回り込む。
少し遅れて、翠が水槽の中に飛び込んできた。泡が消えその姿が露わになると、翠は菫青に抱きつくような恰好で顔をしかめていた。
榴輝は言われた通り息を止めるのを止め、液体を肺一杯に吸い込んだ。