契約違反 0.1
とある休日の昼下がり、極東にひっそりと浮かぶ小さな島国の首都は、いつものように無数の人々が行き交う雑然とした都市の様相を呈していた。
今となっては名ばかりとなった国家の政治的中枢は、たとえ身体を入れ替えても滅びる事のないマクロ有機体として、人類が文明の初期に発明したある種の遺伝子を引き継いでいた。頭脳とそれを代表する理性がすぐ近くに顔を持つが如く、ある種の遺伝子はシンボリックに首都の景観を決定している。それ故に、多くの人々が記号を求めてこの街に集まってくる。
両脇をコンクリートの岩壁に挟まれた谷底道。その合間をスイスイと自動運転車が走り、馴染みの三色信号灯は流れるものすべてを支配する。自分の足で歩く人も、幽霊ドライバーでさえも、その支配から逃れる事は出来ず、又逃れたいとも思わない程に、その支配は完璧に遂行されていた。
人々の関心はもはや支配-被支配の関係にはなかった。
手の平の上で作り出した自らの世界を一層拡大させ、ハブ化したあらゆるツールを用いて理想と現実の境界を曖昧にする。それと並行するように、正体不明を恐れる心の壁は飛躍的に高く積み上がる。そんな悪足掻きともとれる営みが半世紀以上も続いた。
庶民、都市レベルの技術革新が殆んど息をしなくなったこの時代においても、人間は基本的な生存条件を満たすべく、人間的な活動を脈々と続けていた。
季節は、そろそろ冬の足音が近付いてきた、といった頃だった。その日は時期にしては珍しく、比較的暖かい南寄りの風が吹いていた。
湿った空気が街全体を覆っている中、気の早い人達が羽織る厚手のコートがちらほらと散見された。休日になると特に若者が多くなるこの街の中心部において、そのような防寒対策に念を入れているのは酷く場違いだった。実際多くのロングコートは年季の入ったくすんだ色をしていて、それを着ている人の顔も同じくらいくすんでいた。
若く瑞々しい新緑と朽ち果てた倒木が混在する新しい首都の街は今、何か新しいものが生み出されそうな期待と得体の知れないおぞましさによって、沸騰寸前の熱量を持っていた。外向的で活力に満ちた一部の若者が即興パフォーマンスを行う姿は、駅やショッピングモール、何気ない道端でも日常的に見られた。新世代の文化の萌芽がいたるところに芽生え始めていた。
一方で、日向があれば日陰もある。都心部のように多くの人々が生活している場所では、ただ単純に人が多いという理由だけで“普通ではない人間”には生き辛いものとなる。
一般的には、多種多様な人の波はアブノーマルな特徴を持つ人々の隠れ蓑になると思われている。それは一面においては真実であり、同時に十分な普遍性を持っているとは言い難かった。他人の些細な言動に怯えながら暮らしている彼のような人間にとって、この街に住む事は自傷行為に等しかった――これは決して大袈裟な表現ではない。だがそれでも、日々の生活に直結する仕事の為ならば仕方がないと、彼はそう割り切っていた。
その日、天河菫青はある目的を達成する為に、オフィス街と歓楽街が一体化したようなその街の中で、若い一組の男女を尾行していた。休日になって明らかに流量の増した人混みの雑踏の只中、目標を見失わずに一定の距離を保ち続けるのは、予想以上に骨の折れる作業ではあった。
およそ一五センチの身長差がある二人の後ろ姿からは一〇メートル程後方に遅れている。対象との間には黒い頭が無数に揺れ動いていたものの、距離を詰めればいたずらに目標の注意を引く恐れがあった。しかしそれ以上離れても、今度は必要な感覚情報が届かなくなってしまう。この仕事は視覚が最も重要だが、聴覚、嗅覚、そして何より肌で感じる触覚が欠かせなかった。触覚といっても実際に触れる訳ではない。
洗練されたデザインの無機質なビルディングが立ち並ぶ通りを抜けた辺りから、人の流れは急激に周囲との代謝を高め始める。
まだオープンしたばかりの小さな雑貨店や若い女性向けの洋服屋、老舗の楽器屋、パソコンショップなどが軒を連ね、個人経営の店もチェーン店に負けない勢いで客を獲得していた。又、本流の大通りからは多くの支流が派生し、毛細血管のように街中に張り巡らされていた。その小さな支流の一つ一つに中華料理店やラーメン屋、和風の食事処など飲食系の店舗が自分達の縄張りを確保していた。
腹の声に釣られて時計の針を見れば、とうに一二時を回っていた。昼食を取っていないターゲットの二人も流石に空腹を無視出来なくなったらしく、大通りの途中で足を止めた。菫青は通りのショーウインドーに隠れるようにして彼等に見られない位置にポジションを取り、じっと聞き耳を立てた。
「昼だけど、どうする? テキトーでいい?」
「うん。ウチ、あまいものが食べたい!(^o^)/」
「え~、まずは昼飯が先だろ?」
目標は和気藹々としながら、通りに面した若いカップルが好きそうなお洒落な喫茶店へと入っていった。
彼等は傍から見ていれば十分恋人に見えただろう。しかしそうではなかった。これからそうなるのか、それともならないのかは、ある意味菫青に掛かっていると云っても過言ではなかった。
すでに何となく“答え”は出ていたのだが、恐らくこれが最終的な判断になるだろうと思い、菫青も例の喫茶店に入ろうとして、ふと立ち止まる。さっきまではちっとも気にしなくて良かった(頭の片隅にもなかった)違和感が鎌首をもたげたのだ。
菫青は品定めするような目つきでお洒落な喫茶店をジロジロと観察し始めた。
店の外観はどう考えても、プライベートで来る事は未来永劫無さそうな造りである。西洋のレンガ造りの家をモチーフにしたであろう赤茶色の外壁。垂れ下がったツタのカーテンは大きくて開放的な外開き窓を半分まで隠し、その他に小さな滑り出し窓がいくつか散見される。二階からは鉢植え専用の小さなバルコニーがちょこんと突き出ており、鮮やかな黄色や紫のパンジーが顔を覗かせている。一階の平屋部分から延びる煙突は飾りか、それともピザか何かを焼く竈でもあるのだろうか。
背筋を伝った気味の悪い違和感を振り払い、苦笑しながら木製の扉に手を掛ける。
金色の取っ手を引くと小気味良い鈴の音が鳴って不愛想な来店者を歓迎した。それに続く若い女性店員の声。いらっしゃいませ~が、軽い空気に溶けて消えた。
店の中は思いの外広かった。外観から察するに店内もこじんまりした感じだろうとの予想を覆し、ボックス席が少なくとも一〇以上。それに加えてカウンター席もあり、夜はバーにでもなりそうな雰囲気だった。どうやら通りから見えるレンガ造りの家はこの店のごく一部、“顔”の部分に過ぎず、店そのものの奥行きは見た目よりも随分深いようだ。
日曜の昼ということもあり、店内は満席に近かった。ボックス席は見える範囲ではすべて埋まっている。カップル(だと思われる)の組み合わせが多い中、女子会グループも少なくない。
カウンター席には一組の男女がいた。ターゲットである。
店に入ったきりそのまま入り口で立ち尽くす哀れな男を見かねたのか、レジの前に立っていた会計係と思われる給仕服姿の女性店員が近くまでやってきた。
「お客様、一名様でいらっしゃいますか?」
「ええ、はい」
「カウンター席でよろしいでしょうか?」
「はい。好きな場所に座ってもいいですか?」
「どうぞ、お好みの席にお座りください」
目標は六席あるカウンターの、入り口から二、三席目に座っていた。菫青は敢えて彼等との間を二席空けて、一番奥に座った。まあまあのポジショニングであろう。
「こちらメニューになります。注文が決まりましたらお声掛け下さい。どうぞごゆっくり」
会計係の店員は二つ折りのメニューと水の入ったグラスを置くと、しばし沈黙してからその場を立ち去った。
彼女は休日の昼下がりに男一人で喫茶店を訪れた、手ぶらの、不機嫌そうな顔をした、店の雰囲気に全くそぐわない客を見て、どう思ったのであろうか。
冷たい視線を背中に感じた菫青の心中など露知らず、目標の二人は仲良くメニューを覗き込みながら、何を食べるかについて甘ったるい議論を交わしていた。
「ウチ、パスタにしようかな。翔は何にする(*´▽`*)?」
「うーん、俺も同じのでいいや」
「え~、それつまんなくない(*´з`)」
「そうか? そうだな……じゃあこうしよう。佳澄が食べたい物二つ頼んでいいよ。それを二人で分けようぜ」
「なにそれ~、テキトーだなぁ(*^-^*)」
目標と一緒にいる女、椎谷佳澄は決められない男を小突いて不満を漏らすが、あれは本気ではない。一種の可愛い愛情表現という奴だ。
一方決められない男、翔は如何にも今時の男子。椎谷佳澄の満面の笑みを見て照れくさそうに、然し愛想よく笑顔を返す。
まだ数時間しかこの男を監視していないが、それだけでも十二分に分かった。頭は悪くなく機転も利く。なのに優柔不断。自分から率先して何かをやったりはしない。勉強でも友達付き合いでも何でも上手くこなす。けれど恋愛には奥手。面倒な事にはなるべく関わりたくない……。
それはさておき、こちらも何か注文しなければならない。できるだけ無駄遣いはしたくなかったが、何も頼まないのはさすがに怪しまれる。仕方なく一番安い一杯三五〇円のコーヒーを注文して、菫青は目標の観察を続ける事にした。
今回の依頼主は椎谷佳澄である。彼女の依頼は、「片思いの幼馴染が脈ありかどうか調べてほしい」というものだった。
この手の依頼は決して珍しくない。難易度としてはそれほど高くなくリスクも比較的小さい為、これまでも幾度となく受諾し、恋のキューピッドにも、悪魔にもなってきた。
血気盛んな若人や、自信が無い割に自意識ばかり過剰な中年男性の依頼主の中には、それが彼らにとって当然の反応であるかのように、上手くいかなかった時去り際に悪態を吐く輩もいた。でも、まあ、クライアントとの間に起こる様々な“いざこざ”は大した問題ではない。一番の問題は、依頼主が大金を持っていない学生に多い事だった。
見極めは慎重かつ確実に行う為、大抵は丸一日を費やす。半日で事足りるケースも少なからずあるものの、そのような場合は依頼主にとって望ましくない結果であり(ネガティブな感情は表に出やすく白黒はっきりしているのに対し、ポジティブな感情は無数の段階に分かれており判断が難しい)、それを伝えると「適当なことを云うな!」とか「金を返せ!」と無茶苦茶な事を云ってくるものである。
そんな事情もあって、最近は半日で尾行が終わったとしても一日の終わりに、電話などを通して間接的に結果だけを伝えるようにしている。どのみちバッドエンドの場合は後金を払わなくていい事にしているので、わざわざ集金に行く必要も無い。
今回の依頼も午前中の観察だけで九割近い確信を得ていたと云って良かった。それでもわざわざ日曜の午後の時間まで費やして喫茶店に入ったのは、都市の喧騒の中で判断力が鈍ってしまったのか、それとも一〇〇%の確信を持ちたかったのか…………。
「お待たせいたしました、アイスコーヒーになります」
カウンターの向こうに立ち、菫青の前にコースターとグラスを置いたのは、見かけ三十代前半の背の高いマスターだった。さっきの会計係とは違い、マスターは男の一人客に対して特別な興味を持つ事はなかった。彼の落ち着き払った大人な態度のおかげで、過敏な神経が一層逆撫でされるような事にならなかったのは幸いである。
ミルクとガムシロップを入れ、曲がらないストローを差してすする。メニューの中では一番安くても、缶コーヒーよりはよっぽど高いだけあって美味しい事は美味しいのだが、貧相な菫青の味覚ではそれほど大きな違いは見出せなかった。そんな哀しい事実も、見方を変えれば安いものでも満足できる人間なのだという事で、得な体質だと云い張る事が出来ない事も無いのかもしれない。
仕事は目標の会話を聞き流しているだけで充分だったので、菫青はひたすらボーっとカウンターの中を眺めていた。
目の前には、次の注文を待ちながらひたすら丁寧にコーヒーカップを磨き続ける寡黙なマスターの姿があった。彼は黒で統一したネクタイとギャルソンコートが良く似合う男だった。短い黒髪は整髪料で綺麗にまとめられ、整った顔立ちとのバランスをとっている。この店が女性誌かテレビ番組で紹介されようものなら、マスター目当ての女性客が殺到する事だろう。
カウンター周りのインテリアは、この二枚目マスターの趣味だろうか。ガラス戸のショーケースに並べられたワインボトルやガレオン船を収めたボトルシップ、外装がパールホワイトで統一された数冊のハードカバー、手の平サイズのポットに入った観葉植物など……。癒しと安らぎを求めて訪れる客の心理をよく見抜いている。
マスターの人柄を推測する一人ゲームを始めた菫青の目の前で、トレーに載った出来立ての料理が給仕係によって運ばれていった。
まだ湯気を立てているピザとパスタと思しき料理が通った後にはこんがり焼けたパンやら、ケチャップやら、バターやらが混じった香ばしい匂いが漂った。
一瞬前まで出来るだけ忘れようとしていた空腹感が、堰を切って頭の中に流れ込んできた時、菫青の堤防を決壊させた忌まわしき料理は、彼の席から二つ挟んだ隣に着陸した。
「Σ(゜∀゜ノ)キャー、おいしそー!」
椎谷佳澄の甲高い声に釣られて目標の二人の方を盗み見ると、注文した料理がマルゲリータとシーフードパスタである事が明らかになった。
「ほらみて! スッゴイおいしそう( *´艸`)」
「分かってるって」
「あーんしたげる( *'▽')っ(ハイ、アーン)」
「いや、イイって! 恥ずかしいだろ!!(小声)」
「えー、なんで~(・´з`・)」
(´_ゝ`)
さっさと食えよと内心思いながら、菫青はこれ以上の調査続行の必要性を本当に感じなくなっていた。
グラスの底にわずかばかり残っていたコーヒーを飲み干して、腹いせに氷をジャリジャリ云わせて噛み砕いていると、カップを磨く手を止めてこちらを見ているマスターと目が合った。
「お客さん、今日は御一人で……?」
最初に口を開いたのはマスターの方だった。さっき見かけは三十代前半だと云ったが、彼の声はそれより遥かに落ち着いていた。
「ええ……まあ、そうです」
こんな風に話しかけられるとは思ってもみなかったため、反射的に口を割って出た言葉を吟味する余裕すらなかった。しかしマスターもマスターで、普段から客と話し慣れている様子も無く、最初の質問の後はしばしの間沈黙が続いた。
一旦話し始めたのにこのまま会話が終わってしまうのでは双方いたたまれないとの感が高まったあまり、菫青自身意外な事だが、自分から沈黙を破りにいった。
「日曜日は混んでますね」
「お陰様で、平日も今日と同じくらいの入りがあります」
「へー、それは凄い。ここはマスターの店なんですか?」
「私と妻で始めた店です。妻は料理担当なんで奥にいますが。オープンしてから三年ほど経ちます」
「たった三年でこれだけ人気があるってのは、やっぱり凄いすね」
「なにぶん立地が良いですからね」
口下手のように思われたマスターも、一度流れを掴めば後はスラスラと話が続いた。彼は喫茶店を開くことになった経緯について話し始めたが、菫青はそれを聞いている間も常に目標への注意を怠らなかった。マスターと話し始めた事によって不用意に注意を引く危険があったからだ。然し実質的に、そのような心配は杞憂に終わったと云ってもよかった。
椎谷佳澄は当然の如く、店に入った時から菫青の存在に気付いていた。どういうつもりでいるのか定かではないが、彼女は今まであたかも菫青に見せつけるようにして翔への積極的なアピールをしていた。それで翔の気持ちと菫青の調査結果が変わると思っているなら、彼女は大変な勘違いをしている事になる。
(ま、男の注意を俺から逸らす事には一役買っているので、本当はそういうつもりなのかもしれない)
ともあれ、菫青は割と落ち着いてマスターの昔話を聞く事が出来た。彼の話を簡潔にまとめるとこうなる。
大学生の頃から付き合っていた彼女との結婚が決まり、大手企業への就職も果たして順風満帆な人生を送ろうとしていたマスターこと古坂優人。然し実際に入社してみると会社の雰囲気が自分に合わず、またパワハラまがいの事もあったりして精神的に病んでしまう。三年間は何とか踏ん張ったが、このまま働き続けるかどうか悩んでいた。結局、最後は妻彩子さんの勧めで退社を決意。その後、二人の夢だった喫茶店を始めようと大量の借金をして店舗を造り、ここ一年くらいでそこそこ名前が知られるようになって今日に至る、と。
「じゃあ、マスターってまだ三十路越えたばっかり?」
「今年で三十二です」
「マジかー、よっぽど大人っぽく見えるよ」
「それは老けている、ということかな?」
「見た目じゃなくて、雰囲気ですよ、雰囲気」
人柄の良いマスターと打ち解けて心がすっかり緩み切っていた矢先、突如後ろのボックス席が騒がしくなった。そのまま無視しても構わないはずだったが、そこを占領している女性客の声が無駄にデカいせいで、不本意ながらもそちらに注意が向いてしまう。
「紗希内定貰ったんだ! おめでとー!」
「ほんとのほんっとに最後だったから、ホントに良かったよ~(涙)」
「ウチ(⤵)も早く内定ほしぃーなー」
「紗希が頑張ってるのあたしら見てたし、自分のことのように嬉しいよ。今度お祝いしようね!」
「ウチ(⤴)らも頑張らんといけんね!!」
なるほど、よくある就活生の会話である。傍から見れば微笑ましい青春の一ページといったところか。だが嘘で、欺瞞で、虚言である。少なくとも周りにいる友人A、Bは心の底から喜んでなどいない。むしろそこにあるのは、“嫉妬” “妬み” “嫉み”、ただそれだけである。彼女等の心の声を代弁するならば、
A『なんでコイツがあたしより先に内定貰ってんだよ』
B『あーあ、もうやる気無くすわ。なんでウチ(⤵)ばっかりこんなに苦労しなきゃなんないわけ? 意味わかんないんですけど、マジ死んでくださーい』
声音だけで充分だった。菫青は決して彼女等の仕草を見た訳ではないし、ましてや彼女等の普段の関わりを知っている訳でもない。寧ろ今の光景を普段の彼女等を知っている人達が見たら、それこそ仲良しの友人同士に見えただろう。
普通の人は知りえない、人間の“思考の指向性”を知る――――いや、知ってしまう。
それが、天河菫青に与えられた才能だった。
その後も表の世界では称賛、祝福の言葉が、裏の世界では誹謗中傷の聞こえない言葉が重ねられていく。そこに明確な悪意があるかどうかはこの際問題ではなかった。
その場にいる他の誰も知らない、自分だけが知っているもう一つの現実に、菫青は吐き気すら感じ始めた。意識して注意を逸らそうとするが、意識する程脳裏に響く心の声は大きくなる。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
遠くの方で、マスターの気遣う声が聞こえた。
「ええ、大丈夫……大丈夫です」
とうとう限界を迎え、菫青は本来の目的も忘れて席を立った。
入り口の近くにあるレジへ向かおうとする時、ふと彼女等の方に目を向けたのは最悪の失敗だった。彼が見てしまったのは紗希という女の笑顔である。何と幸福に満ちた表情であろう。彼女の笑顔で細められた瞳はこう云っていた。
『お前らと、同じにならなくて良かった』
……***……***……***……
(やっぱり、休日の昼間に町に出るのはダメだったか…………)
店を出てから暫く、菫青は出来るだけ人気の少ない所を求めて彷徨っていた。
夢遊病者の如くつらつらと歩いていると段々気分が落ち着いてきて、徐々にではあるが本来の思考を取り戻しつつあった。気付けば、店のあった大通りから脇道に数本入ったようである。見覚えはないが、道などデバイスを使えばいくらでも調べられる。そんな事より、自分の犯した失敗に嫌気が差した。
細い道の両脇を走るコンクリートの壁に寄りかかり、思わず天を仰ぐ。
『人の多い場所では、目標以外に注意を向けてはならない』――――それが外出する時の最も基本的で、最も重要な必須要件である。
「慣れないなあ……」
上っ面だけの人間関係。それは何度も何度も味わってきた感覚だ。真正面からぶつける罵詈雑言の数倍は醜く、そしてリアルな心の声。きっと普通の人間でさえ、老若男女関係なく多くの人が抱えている悩みだろう。その悩みとはつまり、他人の本心が分からない事や、自分の心のあまりに醜い事なんかだ。だが、全く無関係の人々の心理まで知りえてしまうという苦痛は、普通の人間の比ではなかった。
この特異な能力に気付いてからすでに三年が経とうとしていたが、これのせいで自分がどれだけ多くのものを失ったかと思うと歯噛みせずにはいられなかった。同時に、これのおかげで自立した生活ができ、また妹の莫大な治療費を稼げるというのは大変な皮肉だった。
「…………帰るか」
狭い路地から覗く通りには、通行していく数多の人影が見えた。
デバイスで帰り道を検索していたら、一つ重大な事に気が付いた。
椎谷佳澄の依頼は十分完了したものだと考えていた。あとはいつも通り、デートが終わった頃を見計らって結果を伝えれば良いだけだ。しかし、今回の依頼ではイレギュラーが発生していた。それは報酬を、前金すら受け取っていない事だ。
通常であれば依頼を承諾した時点で前金を、完了した時点で後金を貰う手はずになっていた。今回は椎谷佳澄が「前金を用意できなかった」と云うので、後でまとめて払うという約束で依頼を承諾していた。こんな事は滅多に無い。大抵の場合「後で払う」と云う輩は最初から払う気が無い事があからさまなので、そもそも依頼を断るケースの方が多い。椎谷佳澄に限っては嘘を吐いている様子はなく、本当に金を払うと見込んで依頼を受けた。つまり、このまま帰ったら前金分すら受け取れなくなってしまうのである。こちとらたかが五〇〇〇円のしょっぱい依頼料を無駄にできない事情があった。
椎谷佳澄のデートが終わるまで、あと四時間はあるだろうか。今から新しい依頼を受ける程の余裕は無いが、この短い時間でも出来る事がある。
それは菫青にとって毎日欠かす事の出来ない日課であった.