夜の王と血 1.4
菫青はひたすら前に進もうと、鉛のように重い足を何とか引きずっていた。つい先ほどまでいた大きな部屋を出て、階段へ繋がると思われる通路を壁伝いに進んでいる。
(早く……逃げないと)
後ろに迫る死の足音はだんだん大きくなってくる。いや、待てよ……これは死の足音なんかじゃない。それはパトカーのサイレンの音だった。何らかの事情によって、警察がここで起きた事件を知ってしまったのだ。
光の世界に戻って来たんだと一瞬ホッとした反面、警察が必ずしも自分の見方になってくれるのではないという事に気付き、前へ進む脚に再度力を込める。今の菫青にとって、警察官は志垣と同じくらいかそれ以上に会いたくない相手だった。もし捕まれば、今さっき暴行事件を起こしたばかりなのだから必ず現行犯で逮捕される。しかも自分が殺った訳ではないにせよ三人も人が死んでいるのだから、取調も簡単に済む筈がない。おまけに菫青は義務教育を全うできず、未成年にして違法な商売をしているのだ。
(絶対に、ここで捕まるわけにはいかない!!)
朦朧としていた意識が、緊張感によって再び覚醒される。それは同時にあの激痛が戻ってくる事も意味していた。
(痛い! 苦しい!)
菫青はいっそ殺してくれと叫びそうになった。もし御影がいなかったら……その命はとうに尽きていただろう。彼が今日まで何とか生き長らえてきたのはすべて御影の存在があったからであり、彼女の為を想ってである。その想いはたとえ身体が引き裂かれようと菫青の足を止める事は無い。それは彼自身の生きる目的であり、理由でもあったのだ。
ドアを叩く音と警察の怒号が聞こえてくる。もう猶予は残されていない。そういえば、志垣は何故とどめを刺さないのだろう。
「天河菫青、聞こえているか?!」
突然の大声に後ろを振り返るが、そこに志垣の姿は無い。
「その通路の奥まで行けば裏口に出られる、そこから逃げろ!」
(何を云って――――)
「絶対に生き延びてみせろ!!」
その言葉が届いた瞬間、菫青の中に稲妻のようなものが走った。全身の痛みから解放され、身体が軽くなる。気付いた時には、全速力で廊下を駆け抜けていた。一寸先は闇。それでも自然と進むべき道は見えていた。まるで誰かに導かれているかのように。
角を曲がると、緑色の光を放つ非常口のランプが目に飛び込んでくる。その距離約二十メートル。一気に走り抜け、体当たりしながらドアを開け放つ。幸い、警官はまだ裏口まで回って来ていない。
菫青は後ろ髪を引かれる思いがした。なぜなら、暗い廊下の向こうから聞こえてくる怒号が、確実に大きくなっていたからである。
志垣の雄叫び、銃声、誰のものか分からない悲鳴。五分前まで菫青の敵だった志垣は、今や複数の警察官と戦っている。それも恐らく、菫青が逃げる時間を稼ぐ為に足止めをしている。
(なぜ……?)
頭の中に浮かんできた疑問を無理やり振り払い、菫青は夜寒の街に飛び出した。一刻も早くあの場を離れるように、冷たい空気の中をひたすら走り抜けた。
……***……
人目を避けながら走り続ける事数分、菫青は漸く深夜の繁華街を抜けた事に気が付き、足を止めた。周りに人がいない事を確認し、崩れ落ちるようにその場に座り込む。
(助かった……何とか助かったんだ!)
全身から力が抜けていくのを感じた。服は破れ、全身血まみれ。左手の出血もまだ続いている。それでも、命だけは助かったのだ。
「あとは家に帰るだけ……って云っても、これじゃあ地下鉄にも乗れないな。あ、でもどっちみち終電ないか」
菫青は力なくハハハ……と笑った。ポケットに手を突っ込んでみると、なんとスマホが無事ではないか。いや、そんなに無事でもなかった。画面の中央、上から下まで真っ直ぐにひびが入っている。多少見辛くはなったものの、ちゃんと動いてくれれば問題ない。
現在時刻午前十二時過ぎ。菫青は立ち上がり、再び歩き始める。
「ここから歩いたら何時間かかるんだろう……二時間くらいか?」
自問自答して痛みを紛らわそうと試みる。最初は夜風が傷口を舐めるたびに痛みがぶり返していたが、身体が冷えていくにつれて次第にその感覚すら無くなっていった。それどころか、激しい睡魔にすら襲われ始めた。
(ああ……俺はここで死んでしまうのか)
志垣と殺し合いを演じていた時はあれほど死ねないと思っていたのに、今は自然と死を受け入れている自分がいた。雪山で遭難した人は最初は寒さに苦しむが、段々感覚が無くなっていき、最後は心地よく感じながら死んでいくと聞いた事がある。まさにそういう感覚なのだろうか。菫青の心の中には「よくやった」という達成感と、御影に申し訳ないと思う罪悪感と、二つの相反する感情が入り混じっていた。
思い出すのは楽しかった日々。家族みんなが揃って、リビングにいる光景が浮かんでくる。父親の声、母親の声、御影の声。人間というのは不思議なもので、三年も聞かないと家族の声でさえ忘れそうになってしまう。
両親の声はもう永遠に聞く事が出来ない。でも、御影の声だけは聞く事が出来る筈だったのだ。自分がこんなところで諦めなければ――――
「――せい!」
(……こえ?)
「――んせい!」
(誰かの声……声が……聞こえる?)
聞き慣れた声が自分を呼んでいるような気がした。
(もしかして、父さんと母さんが迎えに来たのか?)
「菫青!」
ハッ、と現実に引き戻される。目の前にいるのは両親ではなく、榴輝だった。
「菫青! 大丈夫か!?」
たった一人しかいない親友。その目からは今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「あぁ……何でお前が……。ここはどこだ?」
「よかった! 本当によかった!!」
榴輝はそう云うと、血が固まって所々黒くなった菫青の身体を思いっきり抱き締めた。
「痛ッ!」
菫青と同様に身体を鍛えている榴輝の力は馬鹿にならない。あまりの強さに傷口が悲鳴を上げ、全身がバラバラになるかと思った。興奮した榴輝が菫青の悲鳴を聞いて我に返り、自分がした事の大変さに気付くと、慌てて「ああ、ごめんよ!」と云いながら彼を解放した。
周囲を見回してみると、そこは見覚えのない路地だった。両側を壁に挟まれた、幅二メートルくらいの狭い空間。どうやら家を目指して歩いていたが途中で力尽き、意識を失っていたらしい。まだ日は昇っていないからそんなに時間は経っていない筈だ。
「おい、榴輝」
菫青は目を擦っている親友の方を見た。
「よく俺を見つけたな」
ニヤリと笑い、かくれんぼで鬼に見つかった子供のようなセリフを吐いた。
「ああ、ずっと探し回ってようやく見つけたんだ」
榴輝は鼻水をすすりながら応える。
「何で俺を探そうと思ったんだ?」
榴輝は急に黙りこくって何も云わなくなってしまった。それを見て、菫青は小さく嘆息した。榴輝には後でたっぷり尋問しないといけないようだ。だが今は、今だけは、発見してくれた事に感謝しなければ。
「とりあえず、肩貸してくれるか?」
「も、もちろんだよ。あ、その前にこれを」
榴輝は自分の上着を脱いで菫青に羽織らせた。
「寒いだろ? それに……その血を見られないようにね」
「助かる」
菫青は再び、いや三度歩き始めた。然し、今度は一人ではない。冷え切った身体は隣から伝わってくる体温によって徐々に血の気を取り戻していく。
榴輝はスマホを取り出すと、誰かに電話を掛け始めた。
「翠、今起きてた?」
電話口の向こうから翠の眠そうな声が聞こえてくる。
『な~に~? 今何時だと思ってんのよ~』
「そりゃあさすがの翠でもこんな時間には寝ているだろうさ」
菫青が横槍を入れると榴輝は苦笑した。
「今すぐ菫青の家に来てくれないか? 大至急」
『はぁ~、何でよ?』
「菫青が、その……大怪我したんだ」
『大怪我? どのくらいの?』
「かなり酷い」
『も~、何やってんのよ~』
真夜中に突然叩き起こされた事に対しての怒りなのか、菫青が怪我をした事に対しての怒りなのか、はたまたその両方なのか。とにかく翠はぶつくさ文句を云いながらも外出する支度をし始めたらしい。
『菫青そこにいるの? いるんならちょっと代わって!』
わざわざ代わらなくてもよ~く聞こえている。菫青は榴輝からスマホを受け取ると、コホンと咳払いしてから耳に当てる。
「モシモシ、ミドリサン? ゴメンナサイネ、コンナジカンニヨビダシテ」
『あんた何やってんのよ! 馬鹿なの!?』
「ソウダヨ。ボクガバカダヨ」
「ふざけないで!!」
「悪い。ちょっとしくじった」
『悪い、じゃないわよ! 何があったのかちゃんと説明して!!』
これではまるで、母親に叱られる子供ではないか。
「今それどころじゃないんだよ。指を二、三本失くしちゃってさ」
『…………冗談でしょ?』
「いや、ホントに」
『…………………」
翠が絶句してしまった。
「死にはしねーから大丈夫だって。心配すんな」
菫青はそれだけ云うと榴輝にスマホを突き返した。
「とにかく急いで来てね。あ、そうだ! 包帯とか消毒する物とか、近くのコンビニで買ってきてくれると助かるよ。じゃ!」
榴輝も云うだけ云ってこちらから電話を切ってしまった。二人は互いに顔を見合わせ、思わず吹き出した。
「こりゃあ二人とも殺されるんじゃねえか?」
「かもしれないね」
何度死の淵を彷徨ったか分からない――――でも、今度こそ助かる。
そんな確信と安心感を、頼もしい幼馴染たちは与えてくれた。