夜の王と血 1.3
「哀れだな」
志垣清介は冷たいコンクリの床にうずくまった不幸な少年を、同情の篭った目で見下ろした。今しがた大胆にも特攻を仕掛けてきた少年は、彼の手によっていとも簡単に返り討ちにされ、大事な二本の指を失った。少年はそれが最後の攻撃になるとは想像もしていなかっただろう。
(いや、そうでもないか)
全身に闘志を漲らせ、血走った目をして突進して来た少年の最後の姿を思い浮かべ、志垣は死を覚悟した人間に共通する無駄のない動きをそこに見出した。そして志垣に敗れた今でも、その覚悟は少年を突き動かしているのだった。天河菫青は指を切断された左手を身体の下に庇いながら、無事な方の手で必死に床を掴んで身体を引きずっていた。少年が通った後には全身からの出血が赤黒く後を引いている。死の覚悟が人を生かす。そこにあるのは一見して矛盾するように見える不思議な光景だった。
志垣は若い人間を殺すのが好きではなかった。特に優秀な若い人間は。彼にとって若者とは、未来の可能性そのものだった。それは彼自身の経験が証明していた。
(ましてやこの小僧は…………)
自分の若かりし頃が走馬灯のように思い起こされた。この少年と同じような年の頃、自分はこんなに真っ直ぐではなかった筈だ。いつも何かに反抗し、それでいてひたすら周囲の状況に翻弄されていた。屈折した感情に押し潰され、未来の事を考える余裕など無かった。そしてそのまま大人になっていれば、間違いなく未来は無いのだった。だが、運命は変えられる。きっかけさへあれば。
ボロボロになり血で染まった少年は、傷付いてもなお前に進もうと手を伸ばしていた。その口からは微かに、少年が助けたいという少女のものらしき名前が漏れてくる。
(何故こんなひどい目に遭って自分を見失わない? なぜ苦しんでまで人の為に生きる?)
志垣は自分が目を背けてきた疑問の答えを、今更ながら知りたくなってしまった。だがそれも、一瞬の気の迷いとして、自分の中で無意識に処理され、掻き消えていく。
『出来るだけ生け捕りにしろ。然し、抵抗するようなら殺しても構わない。それで死ぬようならその程度の力しか持っていなかったという事だ』
志垣は大きく溜息を吐いた。背に腹は代えられない。彼には返すべき恩義があった。それは目の前の将来有望な少年の命よりも重いのだった。
「お前は最後まで全力で戦った。敗北はお前のせいではない。ただ……相手が悪かったのだ」
死に物狂いでその場を離れようとする菫青に止めを刺すべく、志垣は二振りのナイフを握り直した。
「せめてもの情けだ。一瞬でけりをつけてやる」
少年が残した血糊の後を追い、壁に寄り掛かって立ち上がろうとする少年のすぐ後ろまで歩を進める。その肩に手を掛けようとした矢先――あと少しというところで、思わぬ邪魔が入った。次第に近付いてくるパトカーのサイレンの音。
「ちッ、何でこのタイミングで……」
志垣は壁伝いに奥へ向って歩き続ける菫青と、あちらこちらに転がっている男たちを見比べた。けたたましいサイレンの音は扉のすぐ向こうまで迫っていた。
第一に、倒れている連中はまず助けられない事を瞬時に理解する。こいつらは豚箱行き決定だが、それは問題ではない。所詮役立たずで、いくらでも代わりのいる下っ端どもだ。始末するにはちょうど良い。志垣は彼等を見捨てる事に何の罪悪感も感じなかった。
志垣は自分一人だけなら何とか逃げられる算段を付けた。だがそれでは、天河菫青はどうすればいいのか。この少年も自分たちほどではないにせよ、幾ばくかこっちの世界に足を突っ込んでいるのだろう。警察に捕まったらただでは済まない筈だ。かといって、あの様子ではすぐにこの場を離れる事も不可能だろう。
(一体、どうすれば?)
その時、志垣の頭の中に馬鹿げたアイデアが浮かんだ。
「ここを開けなさい。中にいるのは分かっているぞ!」
扉を激しく叩きながら、外にいる警官が叫ぶ。
「こちらは拳銃を使う用意が出来ている。もし開けないのなら、構わず発砲する!」
どうやらかなりの数がいるようだ。口々に「開けろ!」だの「撃つぞ!」だのと叫んでいるものだから、何を云っているのかよく分からん。
志垣は深呼吸し、空気を肺一杯に吸い込む。そして喚き立てる警官たちの声に負けないように、後ろの通路に逃げている筈の天河菫青に向かって大声で叫んだ。
「天河菫青、聞こえているか?! その通路の奥まで行けば裏口に出られる、そこから逃げろ! そして――――」
志垣は頬が緩むのを抑えられなかった。
「絶対に生き延びてみせろ!!」