夜の王と血 1.2
「お前……ちょっとやり過ぎじゃないのか?」
「やり過ぎだと? フッ、笑わせてくれる」
ナイフに付いた鮮血を机の端で拭いながら、志垣は今までと何ら変わらない口調でそう云った。
「俺は使えないやつは殺す。ただそれだけだ」
部屋全体が薄い緑色に染まり、男は特に背中でその光を浴びていた。逆光でその男の細かい表情までは分からない。白目だけがぼんやりと漂っていた。陰に入った男の目は虚ろで、何処か焦点があっていないような印象を与えた。その目の奥には、微かな光さえ感じられなかった。同情や憐れみ、罪悪感……人間なら普通に持っているものを何一つとして持っていなかった。
「あんた、やっぱイカれてるね」
そう云いつつも、志垣の言葉に親近感を覚えるもう一人の自分がいた。
『俺は自分の敵は弱者だろうが強者だろうが片っ端から潰していくだけだ』
以前、榴輝との会話で居丈高に云い放った言葉が脳裏をよぎった。その時はそれが当たり前だと思っていた。菫青は事実いつでもそうするつもりだった。自分の邪魔をする者、自分の前に立ちはだかる敵は悉く撃ち滅ぼさねばならない。それが菫青の信念だった。自分の願望を叶える事がすべてだ。それ以外は所詮道具か手段に過ぎない。
志垣と菫青のやっている事は全然違う。菫青は使えないからといって無暗に人を殺めたりなど絶対にしない。菫青はただ自分の目的の障害になり得る限りにおいて、その障害を排除するだけなのだ。だから積極的に殺人を犯す志垣とは行動原理がまるで異なっている。でも、――――本当にそうだろうか。
でも、が菫青を苦しめた。志垣はイカれている。怪物と云ってもいい。ここまでは明白だ。では、自分がイカれていないという保証は何処にあるのか。自分だけは怪物でないという証拠は何処に見出されるのか。誰がそれを証明してくれるというのか。
(いや、違う。俺は志垣とは違う。俺は御影の為に戦っているんだ)
その時、菫青の中にある恐ろしい考えが閃いた。その妄想の中で、菫青は未来の志垣を殺害していた。そして気付いた時には、自分が新たな志垣として夜の街に君臨していた。彼は使えない手下どもを次々と切り捨て、恐怖と死によって人々を支配していた。
「ところで天河菫青」
「何だ? お前と話す事なんて、もう何も無い筈だが?」
「天河菫青、お前はどんな集団が最も優れていると思う?」
「……どういう意味だ?」
志垣がナイフをかざすと、非常灯の光を反射して鈍く輝いた。
「世の中には色々な共同体があるだろう? 学校や会社、俺たちのような組織、果ては国家まで……そういう人間の集団において、どういう構成が最も優れているかと聞いているんだ」
質問の裏の意図を読みにくかったので、菫青は適当に返事を返した。
「それは……民主主義が最も優れているから、現代社会はそうなっているんだろう?」
志垣はナイフをしまって机に腰掛けると、代わりに煙草を取り出して火をつけた。ライターの火は一瞬だけ志垣の顔を照らし、死人のように蒼白い人相を浮かび上がらせた。煙草の煙はゆらゆらと立ち上り、暗闇の中に溶けていく。
「違うな、天河菫青。何故分かっているのに本当の事を云わない。お前は一体何を恐れている?」
「俺は何も恐れてなどいない!!」
自分の出した大声に、当の本人が一番驚いていた。心は落ち着いているのに、身体が勝手に反応して志垣の言葉を否定した。そんな感じだった。
「お前は知っている。この世で最も優れているのは『少数精鋭』だという事を」
――違う。
「愚かな人間が大量に集まったところで、そいつらに分配する資源が増えて浪費が増大するだけだ。それではじわじわと滅びの時が来るのを待つしかない」
――違う!
「だが優れた少数の者のみによって組織を作り、動かしたらどうだ? 一人が百人分の力を持っているのなら、一人分の資源で百人分の成果が得られる。生み出される利益は莫大なものになるだろう」
――違う!!
「天河菫青、俺と手を組め。お前のような優れた人間が弱者に手を差し伸べる必要など無い。俺とお前ならすべてを思い通りに出来る」
――違う!!!…………のか?
菫青の頭の中には幾つもの疑問が浮かんでいた。
――この男が云ってる事は真実だ。なぜ俺だけが苦しまなければならない? 周りの人間が持っていない力を持っているのに。
(御影はどうするんだ? 御影は俺が助けてやらないと一生あのままだ)
――自分の力で立ち上がれない奴なんてみんな弱者だろう? そんな奴らに存在価値なんてあるかよ。たとえ肉親だろうと同じ事だ。弱者は切り捨てられるべきなんだよ。
「…………違う」
「何?」
「違うんだよ。貴様の云う事は、何一つとして正しくない!」
今度こそは自分の意志で云えた。
「誰だって所詮は人間だ。ちょっと人の心が読めるぐらいじゃ妹一人救えない、ちっぽけな人間だ。この世には本当の強者なんて一人として存在しない。超人は永遠に生まれない」
大男が椅子に深々と突き刺したナイフを握り締める。
「だから俺は御影を助けないといけない! ただ待っていても誰も助けてくれないんだから!! 強者が救いに来ることなんて永遠にないんだから!!!」
渾身の力を込め、ナイフを引き抜こうとする。
「この、くそったれがぁぁぁぁあああ!!!」
メキメキと音を立てたかと思うと、椅子にひびが入る。最後はバキィッという快音を鳴らして、ナイフは椅子から解放された。菫青はそれを構え、目の前に立ちはだかる敵を睨みつける。
「道を開けるか? ここで死ぬか?」
志垣はまだ殆んど吸っていない煙草を捨てて立ち上がり、腰からナイフを抜き放つ。
「愚問だな」
足元に転がっている死体や気絶している男たちのずんぐりした身体を避けながら、二人はじわじわと距離を詰める。
「こうして無駄な争いによって優れた人間が死んでいく。お前もだ、天河菫青」
刃渡り三十センチはあろうかというナイフ、いや短剣と云うべきか、を構え志垣は態勢を低くする。その構えは、一気に懐に潜り込んで喉を掻っ切る為のものだった。志垣も本気だった。もう後戻りは出来ない。
「誰もが何かの為に戦うのは必然だ」
こちらも腰を落とし、敵を迎え撃つ準備をする。
「分かり合えなくて本当に残念だ、天河菫青」
志垣は最初の一歩を踏み出し、人間離れした加速で目の前に迫ってくる。
――速いッ!
ナイフを逆手に持ち替え、志垣のナイフとぶつける。そのまま体重を移動させ、全身を使って左方向に振り切り相手の攻撃を受け流す。衝突の威力で相手が得物を落してくれればよかったのだが、そう簡単にはいかない。寧ろこちらの手が痺れて危うくナイフを手放すところだった。
「遅いな」
志垣は途切れる事の無い連続攻撃を次々と繰り出した。ナイフも、骨ばった拳も、肘も、膝も、武器となるありとあらゆる道具を駆使して菫青を追い詰める。志垣にとっては己の身体さえも、敵を抹殺する為の最高の道具、最強の武器だった。そこから繰り出される攻撃は一つの例外も無く、こちらの予想を超えて遥かに速く、重く、菫青に反撃する隙を与えない。
菫青は何度目になるか分からないギリギリの攻防をやり遂げ、一旦間合いをとる。
「休んでいる暇があるのか?」
志垣は距離を取ってもすぐに接近、攻撃し、菫青の体力回復を阻害する。次第に体は重くなり、意志に反して体はついてこなくなる。
「くッ……そ」
「死ね」
ナイフが風を切り、頬を掠める。あと数センチずれていたら喉にまともな一撃を食らうところだった。両者の間には圧倒的な戦力差があった。相手は明らかに戦闘の技術に関してこちらを上回っている。このままではすぐに殺られる。
(まだだ! ここで死ぬわけにはいかない!)
菫青は一瞬の隙をついて一歩後ろに下がり、至近距離からナイフを投擲する。一直線に放たれたそれは防がれる事なく、志垣の右脇腹に突き刺さった。
「ッつ!?」
初めて、志垣の顔に歴然とした動揺が浮かんだ。
(やったか!?)
志垣は倒れなかった。脇腹に刺さったナイフを抜くとそれを自らの武器にし、二刀流の構えを取る。出血は――無い。
「あんた……化け物かよ」
菫青は一旦後退して鉄パイプを拾い上げ、再び臨戦態勢となる。
ここに来て明らかになったのは、菫青にとって最も恐れていた事態であった。志垣は普通の人間ではない。どの程度普通から離れているかはまだ分からない。でも、あのナイフが常人であれば致命傷になるレベルで深々と突き刺さった事は火を見るよりも明らかだった。手を離れてもナイフの感触は残っているのだから。
それでもなお、菫青は信じられない。否、信じたくなかった。だからこんな妄想も浮かんでくる。志垣のシャツは元々赤黒く、血が出ていても判別が難しい。もしかしたら実は深手を負っていて、本能的にそれを隠しているのではないか。
そんな期待混じりの予測が成り立たない事は、菫青自身が一番よく知っていた。
「俺が日本総連合の幹部になったのは、ただ賭博に強いからだと思っていたか? だとしたら、とんだ大馬鹿者だな」
「お前、人間じゃないのか?」
「俺は何の取り柄もない弱者だ。殺すしか能のない出来損ないだ。だがそれは“元”出来損ないだ。今の俺は……そう、『弱者の進化を実現するべく創られた実験体』といったところか」
「……意味が分からない」
「分かる必要はない」
志垣は傷を負ってもそれまでと何ら変わる事なく、むしろより研ぎ澄まされた攻撃を仕掛けてきた。まるで命の危機によって全身の力が最大限まで引き出されているかのように。
何とか一撃を決めようと今度はこちらが連続で仕掛けるが、鉄パイプはナイフほど取り回しがよくない。巧みな二刀捌きによってすべて流されるか、かわされる。結果こちらが隙を晒しただけで、今の菫青にとってそれは致命的だった。修羅と化した志垣の攻撃を回避する事は出来ず、次々と斬撃を食らう。
肩、腕、腹、足。
いずれも致命傷ではないが激痛が走り、鮮血が迸る。奥歯を食いしばり、痛みで朦朧とする意識を引き留めた。
(戦い続けないと……俺は……御影のために……)
血で滑りそうになる鉄パイプを一層強く握り締め、相打ちを覚悟で突進する。
「潰れろ!」
全身のバネを使い限界まで飛び上がった後、空中で上半身を捻り、遠心力と体重のすべてを一振りに乗せた。
鉄の塊がコンクリートの床に落下し、耳障りな金属音を立てた。
「な……んで……?」
さっきまで自分の手の中にあった筈の鉄パイプの感触が無くなっている。それもそのはず。鉄パイプはまさに、目の前に転がっているのだから――――自分の指と一緒に。恐る恐る手の平を広げてみると、左手の人差し指と中指の第二関節から先が無くなっていた。切断面からは真っ赤な肉と骨らしきものが覗いている。
傷口を意識した途端、激痛が全身を駆け上がり指先から脳天まで一気に突き抜けた。菫青は絶叫し、その場に倒れ込んだ。失われた二本の指の根本を服に包んで圧迫し、何とか出血を押さえようとする。あまりの激痛に五感が等しく騒めき、狂っていた。
「…………………………」
志垣が何か話しかけているようだが、聞き取れない。何とか上を見上げると、霞んだ視界の向こうに志垣の顔が見えた。その表情はどこか寂しく、悲哀に満ちている。菫青を憐れんでいるようにも見えた。
(逃げないと……)
菫青は這うようにしてその場を離れようとする。
「おれは……しぬ……には……」
必死に声を振り絞ってもしゃがれた、声にならない音しか出ない。
「みか……げ」
壁に寄り掛かって何とか立ち上がったが、亀にも追い抜かれてしまいそうな速度でしか前に進めない。それでも、一歩一歩地面の感触を確かめながら足を動かし続けるしかなかった。