夜の王と血 0.9
最初に感じたのは、煙草と酒のキツイ匂い。そう遠くない昔に何者かがここで酒を呑み、煙草の煙を燻らせていたのは確かなように思われた。その時、この店内には下品な男共の笑い声がきっと反響していたに違いない。俺は暗闇の中に、その光景を映像としてはっきりと見た。
店内には窓らしきものが一つも見当らず、外部からの僅かな光の侵入も許さなかった。唯一の光源は非常口を示す緑色の非常灯だけで、その光も真っ暗な闇に包まれた湿っぽい空間の中では、不気味な印象すら与えた。
建物の構造は外見に違わず鉄筋コンクリート造りだろう。足を一歩前に出す度に、靴の裏からはガラスの破片や砂利を踏み締めたようなギャリギャリとする不快な音が漏れてきて、その反響は内壁の硬そうな障害物に進路を阻まれた後、一層弱々しくなりながらもあらゆる方向から俺の鼓膜に届いていた。
人がいる気配は、ない。
前を歩く桐谷の背中を見ながら店内中央に進むと、そこかしこを木製の粗悪な椅子を積み上げた机が占拠していた。中には机と椅子のサンドイッチを五層くらい繰り返して、天井近くまで高くそびえ立った島もある。俺は不安定そうに見える机と椅子の塔に近付き、用心しながら一番下の机に載っている椅子の一つに膝頭を打ち付けた。してみると、その塔は案外しっかりと噛み合っているらしく、蹴った瞬間にグウッと少し鳴いただけで、後はびくともしなかった。
のっぺりした物陰や微小な物音にも神経を尖らせながら奥に進んでいくと、何十年も使われていないようなボロボロのカウンターがぼんやりと見えてきた。表面の木材は朽ち果て、所々に穴が開いている。その上をそっと指でなぞると白い埃が付いた。
「おい、本当にここであっているのか?」
違和感を覚えた俺は、カウンターの端で足を止めた桐谷に質問をぶつけた。自分の喉から発せられたはずの質問は緊張のせいか若干上ずっていて、それが自分の声ではないような気がした。目ぼしい光が届かない所、夕暮れの様な周囲の景色が不確かな所では、大きな声を出してもすべて、漆黒の闇やピントの合わない景色の中に溶けて消えてしまいそうな感じがする。それは自分の言葉がちゃんと相手に届いているのか、自信が持てなくなるせいかもしれない。
そんな俺の不安を敏感に感じ取ってか、暗闇にぼうっと霞む男の後ろ姿から、返事はなかった。
「おい――」
「ふふッ、ふッ、あーはッはッはッは!」
桐谷は突然、背中を折り、腹を抱えて笑い出した。その笑い声は、馬鹿をやらかした男子高校生が互いに顔を見合わせた後、突如込み上げてくる衝動に身を任せた時の笑い方にそっくりで、或る意味、屈託が無かった。
「……何が可笑しい?」
「いやぁ、可笑しいよ。実に可笑しい」
頭痛に苦しみながら眉間を抑える人の様な恰好でこちらを振り返る男の黒目の奥には、邪悪な炎が揺らめいていた。その目元からは抑えきれなくなった歓喜と興奮が涙滴となって溢れ出している。
「まさか、こうも簡単に引っかかるとは。さすがは清介さんの作戦だ」
俺はここにきて、とんでもない失態を犯したのだと気が付いた。踵を返して咄嗟に入り口へと駆け戻るが、鉄の扉は鍵が掛けられており、蹴破ることも到底出来そうになかった。レバーの近くのそれらしい所に指を走らせて鍵穴を探すも、溝一つすら見つからない。となると、鍵を掛けた犯人が建物外部にいることになり、敵は少なくとももう一人は増えることになる。それどころか、なぞった感じでは扉には小さな傷一つ付いておらず、この扉だけが店内の惨状に釣り合わないほどの新品のようだ。ひょっとすると、俺を閉じ込める為に周到な計画が練られ、わざわざこの重そうな鉄の扉を新調した可能性がある。敵は想像より遥かに厄介な相手であることが容易に推測された。
俺が覚悟を決めて振り返り、鉄扉に背中を押し付けながら店の奥に向き直ると、机と椅子の塔に挟まれながら、緑色の逆光に照らされた黒い影が、身体を左右に揺らしながらヌルヌルと近づいてきた。
「クソガキよぉ、さっきの借りはキッチリ返させてもらうぜぇ」
店内に捨て置かれていた(用意されていた可能性もあるが、この際どうでもいい)鉄パイプを拾うと、桐谷はジリジリと距離を詰めてくる。色々と頭の中を整理しないといけないが、とりあえずは目の前の危機に対処するのを優先すべきだろう。
俺は戦う意志が無いことを示すために、両手を肩の高さまで持ち上げて、相手に手の平を見せた。
「さっきと同じ目に合うのが落ちだぞ、やめておけ」
控えめに相手が怒り狂うようなことを言って、火に油を注ぐ。こういう時は先に冷静さを欠いた方が負ける。
「そいつぁ、おもしれぇな」
鉄パイプで脇にあった椅子を殴り飛ばし、勝ち誇った笑みを浮かべる。淡黒に鈍く、白い歯が光った。如何にもおどろおどろしげに思えるが――――桐谷創二、それは虚勢を張っているに過ぎないのだろう。
(あと三歩……)
「死ねや、クソガキが!」
桐谷が俺に一撃を加えようとしたその時、
「止めろ」
それは決して大きな声ではなかったが、えらくドスのきいた低音が鼓膜を震わせた。しかし静止する声は間に合わず、桐谷はそのまま鉄パイプをフルスイングする。俺は間一髪でそれをかわし、耳元で風を切るヒュゥッという音を聞いた。
白色蛍光灯が何度か明滅した後、部屋全体が明るくなる。店内はテニスコート三面分近い広さがありそうな、暗闇で推測された通りの薄汚れた空間だった。雰囲気としては警察署の取調室が広くなったようなものか、モロに留置場の様な感じだ。長居して気分が良くなるような場所でないことだけは確かである。
「清介さん!?」
驚きの声を上げながら、桐谷は後ろを振り返る。俺も目の前の敵に注意を払いつつ声の主を確かめた。
店の奥、更に深い暗闇の中から、十数人の凶悪な面構えをした男たちがぞろぞろと現れた。彼等全員に共通しているのは、その獣のような眼つきと喧嘩っ早そうな身のこなしだけで、衣服や髪型に統一感は無く、スーツだったり、シャツにジーパンだったりする。目につくところでは、上下ジャージ姿の背の低い男もいた。体格は成人男子らしく、皆それなりにがっしりとしていたが(でっぷりした奴もいる)、身長はデカいのから小さいのまでピンからキリだ。どう見ても、一般的に組織という言葉からイメージされるような統率された集団とは程遠い、単なる寄せ集めだった。どうやら、上の階か地下にでも潜んでいたらしい。その中に、明らかに異質な空気を放つ者がいた。
寄せ集め集団の先頭、ズボンのポケットに手を突っ込んで立つその男こそ、最恐と名高い反社会的組織『日本総連合』の幹部、志垣清助で間違いないだろう。名前の感じから、かなり年老いてあご髭を蓄えているような男をイメージしていたが、見た目だけで判断するならかなり若そうに見えた。もしかしたら四十も超えていないかもしれない。志垣は深い臙脂色のシャツに上半身を包み、濃い迷彩柄のパンツを穿いていた。身長は一八五センチといったところだろう。
「おい、創二。これはどういうことか、説明してみろ」
志垣は鋭い眼光を桐谷に向け、厳しい口調で問い質す。
「いや、これはその……こいつが礼儀知らずなもんで、このまま志垣さんに会わせるわけにはいかねぇと思いまして……」
幹部の元に駆け寄り、しどろもどろに説明する桐谷。
「ほう。そんじゃ、お前はこいつにどれだけの値打ちがあるか、知らんかったと?」
志垣は俺の方を顎で示しながらさらに詰問する。
「も、もちろん知っていましたが……」
「じゃあ何で無傷で連れてこいって言ったのが守れないんじゃ、このボケが」
幹部直々の拳が桐谷の顔面を捉えた。殴られた男は、控えめに云って二メートルは吹っ飛んだ。そして不運にも軌道上にあった机の脚に後頭部を思いきりぶつけた。しかし桐谷はここで思いもよらないガッツを見せ、すぐに立ち上がるともう一度、幹部の元に駆け寄った。
「も、もうじわけ……ありまぜん」
滴り落ちる鼻血を押さえながら、出来損ないの下っ端はただただ頭を下げた。
「もういい。引っ込んでろ」
部下へのけじめをつけ終えた志垣は、何からともなく胸のポケットから煙草を取り出すと、今度はズボンのポケットに手を突っ込んでコンビニでも買える安物のライターを取り出し、自分で火を点けてからその場で一服を始めた。
じっくりと、味わうように深く、吸ったり吐いたりを繰り返す。
その間、俺を含めて誰一人として口を利かなかった。静寂とは裏腹に、後ろに控えた男たちの注意は絶えず俺に向けられていた。その目力の強さときたら、まるでγ線を浴びせられているかのようだった。
しばらくして、志垣はゆっくりと照準をこちらに合わせると、俺の顔を一直線に捉えた。
「お前が、天河菫青で間違いないか?」
先ほどのような怒りはこもっていないが、志垣は素の声でも充分迫力があった。
「ああ、間違いない」
俺はその場を掌握するよう出来るだけ低い声で答えた。答えた後も、口の中は元より乾き切っていたのだが、唾を呑み込むのは極力避けた。
「俺は志垣清介という者だ。日本総連合は聞いたことあるか?」
「あんたの優秀な部下に教えてもらったよ」
桐谷を顎で指しながら軽口を叩くと、取り巻き連中の表情はより一層険しいものになる。しかし、志垣の氷のように冷たい眼差しは一瞬の動揺すら見せなかった。やはりこの男だけは別格だと、そう確信を持った。
「俺は日本総連合の幹部を務めている」
「それも聞いた」
全然興味が無い風を装う。志垣は「ほう」と小さく漏らすと、後ろに控えている桐谷の方にジロリと視線を向けた。その視線を受けて、桐谷は針で刺されたみたいに萎縮した。
「天河菫青、創二がお前に何処までしゃべったのか、一寸教えてくれないか?」
大した話はしていないがと前置きしながら、俺はありのままを話した。
「俺の所に来た依頼は、あんたが泣く子も黙る『日本総連合』のお偉いさんで、そのあんたから一発ふんだくってやろうって話だった……まんまと騙されたわけだが。組織内部についてなら、詳しい話は一切聞いていない」
「お前は俺が組織について知られるのがまずいと思っていると、そう、思っているんだろう」
志垣は誰に言うでもなく、独り言のような口調でそう呟いた。現にそう思っていた俺は図星を付かれて、二の句が継げなかった。
「日本総連合……」
志垣は小さく呟いた後、フッと口の端を吊り上げた。その表情からはおかしみがまるで感じられない。
「天河菫青、お前は知らないだろうが、世間的に認知されているこの看板自体、偽りと皮肉から生まれた名称に過ぎない。日本総連合という名称がどうやって付けられたか、お前に想像出来るか?」
「悪気は無いから許して欲しいんだが」と云いつつ、俺は「そんな話には、全然全く興味が無いんだ」と云った。
それを聞いた志垣は、クッくッくッと喉の奥を鳴らした。そして、「そうだろう、お前のような恵まれた者たちには、道端に転がっている犬のクソと同じくらいどうでもいいことだろうな」と云った。
「あ?」
俺は相手の「恵まれた者」という云い方に対して無性に腹が立った。
「俺が恵まれているだと?」
志垣は俺の質問を無視して更なる追い打ちをかけた。
「日本総連合というのはな、この国の惨状を顧みたある議員が、俺たちの行いは『日本国民全体の総意』だと、皮肉交じりに伝えようとして考え着いた名前だ。この意味が分かるか?」
「俺が恵まれたやつだと?!」
向こうが自分を無視するならと、こちらも相手の問いに対して答えずに、怒鳴りながらさっきと同じ質問を被せた。
「日本総連合というのは仮面に過ぎない。その下には、もっと恐ろしい顔が隠れている」
志垣はそう云うと、再びクッくッくッと喉を鳴らした。
「で、わざわざ手の込んだ準備までして、俺を騙して、こんな汚い便所みたいなところに閉じ込めて、一体何が目的なんだ?」
そう云いつつ、俺は床に唾を吐き捨てた。もうこれ以上の長話はうんざりだった。
「お前、人の心が読めるそうだな?」
過激な挑発にも一切乗らず、志垣は淡々と話を続ける。
「もし、本当に人の心が読めるなら……天河菫青、お前はうちの組織に入ってもらおう」




