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どこから言及すべきか。ビルギットは今正に思案していた。このリーシャという女性のことも、皇女の提案のことも、どれもビルギットには見過ごせない部分であった。
皇女はビルギットの様子を察したのか、先に口を開く。
「リーシャ。あなたの背中を、ビルギットに見せてあげて」
「はい」
命じられるままにリーシャが衣服をはだけさせたので、何事かとビルギットは面食らったが、すぐにその意図を理解した。
リーシャの背中には、その全てを覆うようにして、奇怪な黒い紋様が広がっていたのだ。よく見るとその紋様は、まるで生きているかのように僅かに脈動している。
「確かに、魔力によるものを感じる」
外套の内側に隠れていたレフターがビルギットにしか聞こえないように囁く。
「これでわかってもらえたかしら」
皇女がそう言うと、リーシャが服を整え始める。
「彼女の身体は――」
「見ての通り、深刻よ。リーシャの紋様は少しずつ広がりを見せている。そして、徐々に彼女の身体の霊脈が弱まっていることも確認されているわ。これが広がりきった時、彼女は体内の霊素を全て失ってしまうでしょうね」
そのときリーシャが小さく震えるのを、ビルギットは見逃さなかった。
「私に、彼女を連れて魔王討伐にいけと?」
「そう。それこそが私からの依頼の正式な内容よ」
ビルギットが、明確に怒りを示す。
「説明が必要だ。【魔王】の討伐を私に依頼する理由まではわかる。だけど、彼女を連れて行く必要性はどこにもない。見届け人などなくても、私が依頼を達成すれば彼女は助かるはずだ」
ビルギットの語気に皇女は怯むこと無く返す。
「当然、リーシャがただの被害者であればそうしていたでしょうね。けれど――」
「私じゃなきゃだめなんです!」
皇女の言葉を遮って、リーシャが叫ぶ。ビルギットどころか、皇女までそれに驚かされたようだ。若干の沈黙が生まれ、直後、リーシャは自分がしでかしたことに気づき、顔を真っ赤にする。
「ひ、姫様! 申し訳ありません! 私、出すぎた真似を……」
深く頭を下げるリーシャに、笑い声を漏らす皇女。
「いいのよ、リーシャ。あなたが説明した方が、確かに早いわね。ビルギットにあなたのことを説明してあげて」
「は、はい!」
リーシャがビルギットに真っ直ぐに瞳を向ける。
「私、見えるんです。感じるんです! カシナにいる【魔王】のことを!」
両の拳を握り、力強く言葉を発するリーシャ。
「【魔王】が、見える?」
「はい! この紋様が現れてから、私は夢を見るようになったんです。暗くて、薄気味悪い場所を漂って、最後には大きな紫の光に飲み込まれそうになる夢なんですが……姫様からカシナの話をきいて、その場所が黒煌宮であることがわかったんです。私なら、ビルギット様を【魔王】の所へ連れて行くことができます!」
確かに、ビルギット聞いた所では奇病は悪夢を見させるという話であった。しかし、リーシャの話を素直に受け入れて彼女を同行させることは、ビルギットにはどうしても躊躇われた。
「カシナ黒煌宮は、国の管理下におき封鎖した弊害で探宮者が入れず、低層以外はほとんどが未開の部分になっているわ。あなたとて、何の情報もない迷宮に入って行くことはできないでしょう」
皇女のその言い分は確かに正しい。仮に【魔王】との戦いを視野に入れるのであれば、迷宮に関する手がかりは一つでも欲しいのがビルギットの本音である。だが、それでもだ。
ビルギットには、迷宮に全くの素人を連れて行くことができなかった。それは彼女が探宮者として生きる内に自然と自分に課したものであった。
しかし――
「――お願いです、ビルギット様」
突如、リーシャが両手でビルギットの手を握る。
「どうか私に、姫様の依頼の手助けをさせてください。私は、姫様と、マンティコールの人達の助けになりたいんです」
先程見た震えが嘘のような、強い意志の光を宿した眼差しであった。虚勢ではない、炎のような感情。ビルギットは、リーシャのその瞳に、ただの小間使いではない何かの片鱗を感じ取る。
「――あなたは、噂通り優しいのね」
皇女の声が、リーシャの瞳を探っていたビルギットの気を戻す。
「リーシャのことを気にかけてくれるのは嬉しいけれど、私と彼女の利害は一致しているということを、忘れないでもらいたいわ。【魔王】を討伐することは、私とリーシャのどちらにとっても必要なこと。そのための最善として、リーシャをあなたに同行させることにしたの。ビルギット、私は最初から何一つ無駄などしていないわ。全てが最善手だと考えている」
それでもあなたが躊躇うのであれば、と皇女が続ける。
「あなたの利害もここに乗せて考えてみなさい。私はまだあなたへの報酬の話をしていない」
「私の望む報酬を、与えてくれると?」
「ええ。言ったでしょう? 私はあなたのことを良く知っている、と。今日ここにあなたが来た理由は、私という存在を利用するためのはず。いいじゃないの、お互いに利用し合いましょう。あなたが自分に課した縛りを捨てるほどの、あなたが望む最上の報酬を私はあなたに与えることができる」
ビルギットは、リーシャの手をそっと解いた。リーシャはそれに不安そうな表情を見せたが、ビルギットの瞳が皇女に向けられることに気づき、出かけた言葉を飲み込む。
「教えて欲しい。あなたは私に、どんな報酬を提示する」
「もし、リーシャを連れて、見事【魔王】の討伐を果たしたのならば、私はあなたに、グリムワル大迷宮の攻略権を正式に与えるわ」
皇女の声が礼拝堂に響き渡る。
彼女が提示した報酬――グリムワル大迷宮の攻略権。それを聞いて自分の鼓動が高鳴っていることに、ビルギットは遅れて気づく。それは、長年求めていたものをついに見つけた、ある種の興奮に近かった。
「どうやって、私にそれを与える」
ビルギットは問う。出来る限り平静さを保ちながら、ゆっくりと。
「グリムワル大迷宮は【国家連盟】の管理下にあり、探宮者組合と【国家連盟】の推薦した存在しか大迷宮には入ることができない。現状でその資格があるのは組合の抱える最高の探宮者達である【鎖宮】の面々のみ。あなたのような一流の探宮者ですら入ることが許されない。こんな現状は、あなたが一番よく知っているでしょう。だからこそ、あなたは困っていた。祖国の解放のためには、大迷宮に入り、彼の地を支配する者を倒さなければならないというのに、それすらできないから。けど、私なら与えられる。この大陸で最も強い力を持つ私であれば、あなたの望む、大迷宮へ入る権利を与えることができる」
皇女はそう言ってから、手に持っている鈴を再び鳴らす。すると、大樹像の両脇にある皇女の側に近い扉から、一人の男が礼拝堂に入ってきた。
男は中老ほどの年齢で、長い黒髪を後ろで束ねた、やや痩せた身体つきであり、暗緑色の術士風の長衣に身を包んでいる。首周りには術士としての位と所属を示す独特の刺繍が施されている。ビルギットはそれによって男が、ゴーラ派の相当な位の理術士であることを察した。
「ビルギット。彼は、我がマンティコールで北方を司る宮廷理術師のタンジムと言うわ」
皇女がそう言ってからタンジムに視線を向ける。
「――タンジム、例のものを彼女に」
「かしこまりました、姫様」
タンジムは皇女に礼をしてから、起動言語らしきものを口にする。直後、彼が右手に持っていた何かが泡のような光に包まれ、宙に浮遊し、ビルギットの方へ糸で引かれているかのように飛来していく。泡の光の前にビルギットが手を差し出すと、光は音もなく弾け、中から何かがビルギットの手に落ちる。
それは、マンティコール皇家の刻印が鞘と柄になされた、非常に細かい装飾が施された短剣であった。ビルギットは、その短剣の作りから、一目でとてつもない価値を秘めるものであることを理解する。
「その短剣は、代々皇家が信頼する国や個人に渡すものであり、【国家連盟】に対しても大きな影響を与えるものよ。私は、あなたとの契約の前に、まずその短剣を誠意として差出しましょう。そして、依頼の達成後は、私の持つ力の全てを使い、あなたの攻略権を確立させましょう。その時はその短剣が攻略権の証明となるようにするわ。ああ、あとは勿論お金に関しても、用意しましょう。あなたが依頼を正式に受託してくれるのであれば、今から準備金も含めて十分な前金を出すわ。もっとも、その短剣に関しては私からの誠意として、依頼を受けずとも渡すつもりなのだけれどね」
さぁ、どうする、と。皇女はあえてそれを口にせず、無言によってビルギットの返答を促す。
ビルギットは、渡された短剣を見つめ、マンティコール皇家の印を睨み、ビルギットを見つめているリーシャに視線を移し、返答を待つ皇女を窺い、その両目を閉じ、瞼の裏に、故郷の姿を思い浮かべ――
短剣を握りしめるビルギット。
いくつもの想いが目まぐるしく動く中で、彼女は、唯一つの、自分が絶対に嘘をつけない使命だけを掴み上げ、両目を開く。
「――皇女シヴルカーナ。あなたの依頼は、確かにこのビルギットが引き受けた」
ビルギットは、淀み無い力強い語気で、そう宣誓した。
その彼女の宣誓を対し、シヴルカーナは――
「契約、成立ね」
ただ静かに、それでいて満足気に、微笑んでみせた。