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ビルギットは、三杯目の酒を飲み終えようかというところで、店にいた客がついに自分以外誰もいなくなったたことを認識した。彼女は、自分がこの店に入ってから新しい客が入ることがなく、それどころか一定の間隔で客が出ていることに気づいていた。そして、恐らくそれが意図的であることも。
ついには店長すらもいつの間にか姿を消しており、ビルギットだけが店に一人座っている状態になっていた。そろそろ、2ロットというところだろうか。ビルギットがそう認識した瞬間――
店の入り口が開かれ、彼女の視線がそこに移る。
「……探宮者のビルギット様でいらっしゃいますか?」
そう声をかけてきた存在に、ビルギットは少し驚かされる。というのも、店の戸を開けて入ってきた人間が、何というべきか、ビルギットにはどうしても、ただの小間使いの女性にしか見えなかったからだ。
女性は、ビルギットから見て同年代であるようだった。肩まで伸ばした亜麻色の髪。白と黒を基調とし装飾を最低限に抑えた落ち着きのあるエプロンドレス。ビルギットよりやや高い身長。柔らかな印象を与えてくる面差し。女性的な曲線が服の上からでも窺えるその身体は、どう見ても荒事を基準に鍛えているそれではなった。
グリフスに来てから酒を出されるまでの流れを経て、このような素人らしい見た目の人物が現れることを想起していなかったビルギットは、思わず返事が遅れる。
「あ、あれ? 違いました?」
女性は、ビルギットが返事をせず自分のことをじっと観察しているために、少し困惑した様子を見せる。それがますますビルギットに奇妙な感覚を与えた。ビルギットは、一先ず見た目だけで判断しないように自分を仕切り直す。
「いや。私がビルギットよ」
「よかった……違うのかと思って、少しびっくりしちゃいました」
女性はほっとした様子で言ってから、慌てて「失礼しました」と言って表情を引き締める。
「我が主の命により、あなたをお迎えにあがりました。これから主の所へご案内しますので、どうかついてきて下さい」
「……嫌だって言ったら?」
「え?」
ビルギットが真顔で口にした言葉に対し、女性がまた焦りを見せる。
「そ、それは。えっと……困りますというか、その。すごく困るんですが、私がそれにとやかく言うことはできなくて、でも、主命がありまして、あの――」
「ごめん、冗談。連れて行ってちょうだい。あなたの主の所へ」
苦笑するビルギットに対し、ぽかんとする女性。
「え、あ……はい」
もしこれが演技だとしたら大したものだな、とビルギットは思ってしまう。まだ今の時点では演技なのか素なのか、判断しきれないところではあるが、迎えにこのような人物を寄越してきた意図が何なのかを知りたい欲求がビルギットの中で湧いた。
「では、こちらへ」
女性に案内され店の外に出ると、そこには黒い外套に身を包んだ大柄な男が三人待ち構えていた。年齢はバラバラだが、どの男も女性と違い、明らかに荒事向けの人間であることがビルギットには見てとれた。彼等も自分と同様に外套の内側に武器を隠し持っていることをビルギットは気配で察する。
「あ、こちらの方々は私達の護衛です。ご安心下さい」
そう言ってから女性は男達に「お願いします」と頭をさげる。それを確認し、男達が進み始める。女性がそれに続き、ビルギットも続く。
男達は、大通りに向かわず、裏通りの細かい方へと足早に歩んでいく。そこは、建物から漏れる光以外はほとんど灯りがなく、自分がどこにいるか非常にわかりにくい構造になっていた。ビルギットは、迷宮で鍛えられた方向感覚により、男達があえてまっすぐ目的に向かわず、迂回に迂回を繰り返していることを感じ取っていた。こうすることで、目的地への最短経路をわかり難くしているのだろう。
やがて、男達がとある民家の前で動きを止める。すると小間使いの女性がビルギットの方へ振り向く。
「ここからは、こちらを通って行きます」
一見するとただの民家なのだが、実際は違うのだろう。ビルギットはそれを察し、黙って女性が開けた扉の中へ入る。そして、中の様子に少しだけ驚かされる。外から見るとただの家屋であった建物の中は想像以上に暗く、家具の類は何もなく、床に、大きな穴があるのみだった。更によく見ると、穴のように見えるのは、地下に降りるための階段であった。この家屋から、グリフスの地下へと続く道が存在しているのだ。
「暗いので、足元にお気をつけ下さい」
男達が穴の近くに置かれていた吊り下げ式のランプを手に取り、それに火をつけて先を歩き始める。ビルギットと女性は、それに続いて並んで降り始める。ビルギットは暗い足元でも危なげなく階段を降りていたが、小間使いの女性は、悪路に適していない靴のためか、逆に慎重極まりない足取りであった。
階段は思ったより長く、深いものであった。ようやく降りきった所は、迷宮を思わせるような、まるで全容がうかがえない暗く複雑な作りをしており、ビルギットはその中で水の音と、やや鼻につく臭いを感じ取る。恐らくはグリフスの下水道に近いものなのだろう。これほどの複雑な迷路が地下に存在しているとはビルギットも全く知らなかった。
男達は、小間使いの女性がいつの間にか遅れていたので、彼女が階段を降り切るのを待って、再び進み始めた。そろそろ店を出て1ロット(約1時間)は経つだろうか。
「……何も聞かれないのですね」
小間使いの女性が、ビルギットに問う。どうしたものかとビルギットは考えたが、小間使いの女性が問いを発したことに対し、男達が何も咎めようとはしないので、ビルギットは一先ず応じてみることにした。
「何か聞いたほうがいいの?」
「あ、いえ。そういうわけでは! ただ、ちょっと気になって……」
「気になる? 何が」
「私はまだ、名乗ってすらいないのに、ビルギット様はそれを気にしていないことが、ほんの少しだけ……気になっています」
「マンティコール皇家であることはすでに名乗られているわ。そこさえわかっていれば、私としてはどうでもいいってだけ。それに……万が一危害を加えられそうになったとしても、どうにでもできる自信があるから」
ビルギットは語気にあえて物騒な気配を宿してみせた。すると、前を行く男達の気配にも少しばかり鋭さが増す。
「なるほど……ビルギット様は噂に聞いた通り、お強い方なんですね。だから、何も怖くないと」
小間使いの女性には、純粋な感心の声と表情しかなかった。
言葉の意味をまるで理解できていない平和ボケした態度には、さすがにビルギットも拍子抜けし、向こうの主がどういうつもりかまではわからないが、少なくともこの小間使いの女性は本物であることを察する。
「あ! 間もなく着きます」
今度は上りの階段がビルギット達の前に現れた。これも降りてきたときと同じように長い。恐らくは地表まで繋がっているのだろう。
さてどこに連れて来られたのやら。地図も何もない地下を歩かされたせいで、どこまで歩いたのか、一流の探宮者であるビルギットでも把握することが少し困難であった。ただ、歩数からしてグリフスの外には出てはいないことは彼女にもわかっていた。
やがて階段を登り切ってたどり着いた場所は、何らかの建物の、窓一つない一室であった。ここにも家具らしきものは一切ない。誘導していた男達が、階段を登り切ってすぐ目の前にある扉を押し開き、灯りを消す。小間使いの女性が、先に戸の外へ出てビルギットを誘導する。男達は、そのまま戸を閉めて建物の中に残った。
ビルギットが外に出てまず把握できたのは、ここが何らかの施設の中庭にあたる部分であるということだった。自分たちが出てきたのは、その中庭にある物置小屋のように見せかけた小さな建物のようだった。
「ここは……教会?」
ビルギットは、中庭を囲む廻廊の柱の意匠や、今いる場所からうかがえる建築物で一番高いものが鐘楼であることから、この施設が教会だと判断した。
「こちらです」
小間使いの女性が、廻廊の方へと進み、そのまま教会の中に入っていく。
一見すると人の気配が無い真夜中の教会であったが、ビルギットはこの教会の中に静かな威圧感を感じ取っていた。それは、先程まで彼女を先導していた男達が纏っていたそれと同質のものであった。
(かなりの数がいるな。全部、主とやらの護衛か?)
ビルギットは、教会の中に漂う気配から10人以上はいることを直感し、主なる人物の存在の強大さを改めて認識する。やがて、小間使いの女性が大きな両開きの扉の前で止まった。恐らくはそこは大樹像を民衆が礼拝するための礼拝堂だろう。
「こちらで、主がお待ちです。どうぞお入り下さい」
そういって小間使いの女性はビルギットに先を譲る。その際、彼女の表情に明確な緊張が浮かび上がっているのをビルギットは見逃さなかった。
(さて……何が現れるのやら)
扉を開くビルギット。
そこは彼女が予想した通り、教会の主部たる礼拝堂であった。
多彩できらびやかな硝子細工を通して、アルマ教の象徴たる大樹像に、弱々しい月光が降りている。雲に阻まれているのだろう。
50人はゆうに入るであろう規模と、理術光石を用いた現世的な灯火機能がある点から、マンティコール皇国で一般的なアルマ教タナティウム派の教会であることをビルギットは察する。
やがてビルギットは、視界の向こう、大樹像の下で椅子に何者かが腰掛けていることに気づく。その瞬間、雲が晴れたのか、月の光がその人物を照らすまで強まり――
「――ようこそ、探宮者ビルギット。あなたに会いたかった」
これは。
この人物は。
この女性は――
ビルギットは、自身の驚愕が表情に現れてしまっていることを自覚した。「よりにもよって」という言葉がビルギットの脳裏を過る。待ち構えていた人物は、それほどまでに、ビルギットもよく知る人物だったのだ。
夜の闇を天から織り込んだかのような、艷やかで気品に満ちた漆黒の髪。
神々すら嫉妬するといわれる、見るもの全てを魅了する面差し。
選ばれた存在であることを象徴するかのような、紅と蒼の、左右で色の違う瞳。
教会の修道女が切る濃紺の衣服に身を包んでいても、これらの特徴で、誰だかわかってしまう。何故なら、散々歌で聞かされていたからだ。
「――御身は、マンティコール皇国の第三皇女、シヴルカーナ=マンティコールであられますか」
ビルギットのその問いに対し、女性は、笑顔を以て肯定する。
「あなたにも知られているなんて光栄ね。探宮者ビルギット」
稀代の才女。
天に愛されし皇女。
今、大陸の次なる覇者に最も近いとされる存在。
【鉄華の姫】と謳われるシヴルカーナ=マンティコールは、月光の下で、ビルギットにもう一度微笑んでみせた。