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グリフスまでの旅路は順調そのものであった。これには、ターバルで得た莫大な報酬によるものが大きい。
真魔殺しとしてではなく、そもそもの探宮者として優秀であったビルギットは、常に十分な量の路銀を保有しており、それで流れ者としての生活を保っていた。ここ最近は、仕事も多く物価も安い国境付近の迷宮街を転々としつつ、自身のある目的のために活動をしていたビルギットであったが、そんな彼女でも、いきなり国境から首都へ向かうとなるとさすがに旅費が嵩むことは逃れられなかった。そんな折に得たターバルでの報酬は、一つ所に留まれば数年は楽をして生きていける程の額だったため、グリフスへの旅費に回すのに丁度良かったのだ。
ビルギットは、休泊のために立ち寄る街全てで、マンティコール皇国内外の情勢を把握することに努めた。宿で、店で、通りで、詩人の歌で、公示で、あらゆる場所や媒体から情報を読み取ろうとした。国境周辺にいたおかげで、現地の生々しい外交的な緊張状態は常に把握できていたが、一つの国を中心に据えた際の情勢は、全く把握できていなかったのだ。迷宮の管理に今や国家という存在は欠かせない。探宮者は、迷宮だけでなく、国家というものに関しても一定の視野を持たなければならない。
「迷宮しか見えていない探宮者は、いつか迷宮以外の場所で死ぬ」
それはビルギットが探宮者になってすぐに教わった言葉であった。
国境が見える場所とそうでない場所では、物の見方がまるで変わってくる。それは、各々の優先順位の違いに拠るものだとビルギットは理解している。最近まで聞いていた国境付近の情勢と、マンティコール内地で聞く話を摺り合わせ、『現在のマンティコール』の姿を具体化させておくことを、ビルギットはグリフスに到着するまでに行うつもりでいた。それは、これから会う存在のことを考えれば必須であろうという認識によるものであった。
そうして得た情報の中で、ビルギットはある二つの話題に注目する。
一つは、高齢のマンティコール皇帝の体調がいよいよ良くないらしいということ。つまりそれは、7人の皇女と9人の皇子による次期皇帝を巡る争いが激化しつつあるということを示していた。皇子達はそれぞれ外交や内政に積極的に干渉し、より大きな国益を上げることで現皇帝からの信頼を得ようと躍起になっている。その中でも、稀代の美貌と多才を誇る第三皇女、武の才に恵まれ圧倒的な指導力を以て軍事と海洋政策に強い影響力を持つ第一皇子、庶民派として慕われ市政にも積極的に関わる第二皇子が広く国民から人気を得ていることをビルギットは把握した。ビルギット自身も、この三人が浮かび上がっていることに納得があった。というのも、旅先でこの三人を謳う詩人がやたらと多いことから、既にその知名度を理解していたのだ。特に、第三皇女に関しては、絶世の美女として国内外で広く人気があることをビルギットは嫌というほど知っていた。あのガフがうるさくその美貌について語ったことを今でも彼女は覚えている。
恐らく国民の多くは、この三人の内の誰かが次期皇帝になれば安定の方向になると考えているのだろう。しかし、皇帝になるのはあくまでただ一人である。どんなに国民の意識が似たような箇所に傾いていても、一人が決まるまでは水面下での勢力争いは終わらない。そしてその争いは、探宮者であるビルギットの生きる流れ者の世界には、露骨に影響が出るものなのだ。
もう一つビルギットが注目した話題は、グリフスに近づくにつれて増えてきた『奇病』の噂である。
何でも、ある日突然身体に奇妙な紋様が浮かび上がり、良くない夢を見るようになるというのだが、ビルギットは道中で結局その『奇病』の実例を見ることはできなかった。しかし、こうも様々な場所で同じような話を聞かされると、無視はし難い。というのも、凄まじい力を持つ真魔――俗に言う、【魔王】――が迷宮に現れると、その近隣の地域に必ずよくない影響が現れるのだ。本来迷宮の内と外は隔絶された領域であるはずなのに、迷宮の中からそれほどの影響を与える存在がいることをビルギットはよく知っている。嫌というほど、知っている。だからこの『奇病』も、彼女は記憶に留めておくべき情報だと判断した。
首都グリフスは、マンティコール黎明期に完全な城塞都市として成立してから、かなりの年月が経ち、今や城壁で包む範囲の三倍以上の領域にまで都市を広げている。仮の門のようなものを一応外縁部に設けているが、上流市民や騎士がいる上級街区までは、基本的に通り抜けは自由である。こうした下流街区の風通しの良さが、物と人をよく動かし、グリフスをここまで発展させたのだと昔ビルギットは聞かされたことがあった。
大規模な商団の後にひっそりと続くように、ビルギットはグリフスへと入っていく。そして、聳えるようにして立つマンティコール皇家達の住まう王城、ディムロンド城を見つめる。グリフスの中央で圧倒的な巨大さを誇るそれは、グリフス内どころか街の外からも見えてしまうほどに大きい。「山より高き王城よ」とマンティコールの童歌にあるのも頷けるほどであった。あれだけ高ければ大砲で良い的になるに違いないのだが、ここまで攻めることができるものはこの世にいないという皇家の絶対の自信の現れなのだろうとビルギットは感じていた。
封書で事前に指定された場所は、グリフスの上級街区の周辺部に位置していた。ビルギットは、一先ずその周辺で宿を得るつもりでいた。それは、グリフスが他の都市とは比べ物にならないほど大きいために、上級街区に行くのにも相当時間がかかることを考慮してのものだ。今は朝だが、指定の場所に行くまでには夕方か夜になるだろうとビルギットは予想する。
馬を引きながら歩くにつれ、ビルギットは街の活気に目が行くようになっていた。通りにある店はどれも景気が良さそうで、歩く市民の雰囲気にも廃れたものはあまり感じられない。ビルギットが今歩いている街区は、グリフスの最も外側である故に地方から入ってきた人間が多く居住しており、経済的な状況もかなりばらつきがあるという話であったが、国境付近の小さな町の貧困とはそもそもの基準が違うようだった。そりゃあ「貧民は這ってでも都市に行く」なんて言われるわけだ、とビルギットは苦笑する。
結局、ビルギットが適当な馬宿を見つけたのは、彼女が予想していた通り日が傾き始める頃であった。上流街区に近いせいか、やたらと高額の宿しかなかったが、今のビルギットであればそれは特に問題にならない。ただ、これだけ高いならもう少し綺麗な宿にしてほしいものだと文句を漏らしたことをレフターは聞き逃さなかった。
ビルギットが食事と少しの休息を挟んでから宿を出る頃には、空は夕闇に彩られていた。ディムロンド城が、はるか彼方にあるのであろう夕日の光をわずかに反射している。
ビルギットは足早に目的地に向かった。夜間になるとこの街区では武装禁令が出てしまうためだ。長柄斧槍は革製の覆いで包み、短剣は外套で隠している。一見少女にしか見えないビルギットであれば、このように武器を隠せば武装しているとは思われないのだが、人気が少なくなるとさすがに誤魔化しきれない。かといって日を改めるわけにはいかないのだ。何故なら、その場所に訪れることのできる時間は予め封書で指定されていたからだ。
ビルギットが宿の連立する地域から商店街の方に出ると、夜の街の喧騒が急激に耳に飛び込んでくる。内側の街区でこれなのだから、外縁部の街区は、それはもう騒がしいのだろう。ビルギットは、仕事を終えて家路に着く者や、酒屋に入っていこうとする者を器用にかわしつつ通りを素早く進んでいく。
やがて、ビルギットの足がとある店の前で止まる。そこは、大通りから外れた小路にある、妙に目立たない、小さな酒場だった。探宮者と関わりを持つ紹介酒場ではなく、普通の市民を相手に開かれた店ではあったが、予め場所を知らなければ、こんな所に店があるとは気づきにくい一軒だった。
ビルギットが店に入ると、まばらに存在し思い思いに飲んでいた客が、一様にビルギットに視線を向けるが、彼女が全く物怖じしていない様子を見て、視線を元に戻す。
「いらっしゃい」
カウンターに立つ男がビルギットに声をかける。ビルギットは、そのままカウンターの席に座り、男の方を見ながら――
「――『竜の涙』っていうお酒ある? おすすめされたんだけど」
と、口にした。
その瞬間、カウンターの男の瞳孔がわずかに開かれたのをビルギットは見逃さなかった。
「……お客さん、何度も来てる人? 俺も最近歳でね、物覚えが悪い」
「初めてよ。この店に来るのも、そのお酒を飲むのも」
「そりゃ失礼した。でもよかったよ。こんな美人を忘れるようじゃ商売できないところだった。いれるのに時間がかかるから、ちょっと待っててくれ」
男はそう言いながら、カウンターの奥の部屋へと消えていった。どうやら合言葉は通じたようだとビルギットは少し安心する。
しばらくして男が、何も手に持たないまま戻ってくる。
「お客さん、悪いんだけど今『竜の涙』は丁度切らしているんだ。だが、あんたは運がいい。もう少し待ってもらえれば、ここにものが届く」
それは明らかに別の意味を宿す言葉の羅列であった。
「それってどれぐらい?」
「2ロット(約2時間)ってところかね」
「結構待たせてくれるわね」
「だが、待ってくれるだろう?」
微笑んでそう言う男だったが、両の目は全くそのような感情を宿していなかった。それをビルギットも悟ったからこそ、不敵な笑みを返す。
「いいわ。代わりのお酒があればね」
「可愛い顔して、なかなか度胸のある」
そういって男は、棚から酒瓶を一つ取り出し、それを盃に注いでビルギットに出した。透き通った、一見水のような酒だ。
さてどんな安酒が出されたかと口にするビルギットであったが、直後、彼女の想像をはるかに越えた芳醇な味わいが口の中で広がる。
「――俺はね、美人の客には悪い酒は出さない主義なんだよ」
男の両目は、今度は確かに笑みを宿していた。