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空が微かに明るみを帯び始めても、ターバルは未だ昨夜の宴の残り香が強くあった。
ビルギットは、どこからか泥酔した人間の呻き声が聞こえる早朝の迷宮街を、頭巾付きの外套に身を包み、馬に乗って進んでいた。元々ビルギットはターバルに長居する予定ではなかったので、新たに物資を買い込む必要もなく、こうしてすぐに出発することができた。彼女はこのまま、ターバル迷宮街を静かに後にするつもりであった。
しかし、街の北門――グリフスへ続く道がある方の門――に着くと、ビルギットは、思惑通りにはいかないことに気づく。門の下に、よく知った男が立っていたからだ。
「冷てえなぁ。本当に何も言わずに出て行くつもりだったのかよ」
ガフが酒瓶を片手にビルギットに声をかける。この時間まで昨夜からずっと飲み続けていたのであろうその凄まじい酒の匂いに、ビルギットは呆れを通り越して安心感すら覚える。
「ちゃんと別れの挨拶はしたでしょ」
「あれで済ませようとするなんて、とんだ女神様だぜ」
「だから私は女神じゃないっての」
「……グリフスに行くんだろ?」
「よくわかったわね」
「王族ってのは、とかく人を呼びたがるもんだからな。自分から歩く真似なんてしねぇよ。玉座にケツがくっついて動けねぇのさ」
ビルギットが思わず噴き出す。
「確かに。現にこうして良いように歩かされているわね」
「そんな使いっ走りの女神様に、俺からの餞別だ」
ガフが馬上のビルギットに、一枚の紙を差し出す。
「グリフスに行くのは久々だろ? 色々と入用になったらここを頼れ。俺の名前を出せば何でも協力してくれるし、向こうも多分お前さんを知ってると思うぜ。組合に頼るよか、ずっと手っ取り早いぞ」
渡された紙には、グリフスのいくつかの場所が指し示されていた。ビルギットはそれをすぐに腰の道具入れにしまう。
「悪いわね、色々と。本当に助かる。ありがとう」
「いいってことよ。俺だって仕事上の相棒は大事にしたいんでな。頼むぜ、最強の真魔殺しさん」
ビルギットが笑顔を見せると、ガフもにっと笑ってみせた。
「……しばらく顔を見れねぇかもな。まぁ、死なない程度にやれよ」
「勿論。何せまた、あんたにタダ酒を飲ませてもらわないといけないしね」
「はっは! その時まで稼ぎがなくならねぇようにしておくとするか」
一頻り笑い合ってから、ビルギットが馬の手綱を握り直す。
「じゃあ、行くわね」
「おう! 気ぃつけろよ! 御身に旅の神の力強き追い風があらんことを!」
ガフがビルギットの背に風を送るように手を動かす見送りの仕草を行う。ビルギットはそれを背に受けながら馬の歩を進めさせ、ガフに手を振って応えながら門を越える。
ターバルの北門を越えてしばらく進んだ所にある高台からは、平野の中に突如1ラーク(約10メートル)以上ある巨大な岩がせり出しているような、ターバル迷宮の入り口を一望することができる。
ビルギットは、そこにいくつかの灯りを見た。恐らくそれは、ビルギットが成した仕事を引き継いで、迷宮内の再探索をこれから行う探宮者のものだろう。やがては、探宮者による採掘は狩猟、調査がかつてのように行われるに違いない。ターバル迷宮街がそうやって活気を取り戻していくことを祈りながら、ビルギットはグリフスへと再び進み始めた。