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湯気が、窓の外へと流れていく。
沸かされたばかりの風呂に浸かりながら、ビルギットは窓の向こうの夜空を眺めていた。外から聞こえてくる宴会の音は、そう遠くない場所であるはずなのに、ビルギットには別の世界の音のように聞こえていた。
『たてがみ亭』でガフと別れた後、ビルギットがターバルで拠点にしていた宿に戻ると、彼女の活躍を聞いて、宿の主がすぐに風呂を沸かしてくれた。しかもそれは火ではなく理術光石を使ってのものであり、先の葡萄酒といい、これも役得かとビルギットはありがたくその厚意に甘えることにした。
湯船に浸かるビルギットの身体は、探宮者のそれとは思えないほどに傷が少なく、若く張りのある白い肌を保持していた。しかしながら、全身の筋肉は凄まじく鍛えあげられており、その柔肌の下には戦士の肉体が確かに存在している。控え目に存在する胸部の女性的な膨らみがなければ、男性に間違えられても何らおかしくない身体つきと言える。
「……レフターはどう思う?」
夜空を見ながらビルギットが呟くと、浴槽の縁に、何処からともなくレフターが姿を現す。
「どう思う、とは?」
「さっきの封書の内容とか、そこらへんについて」
ビルギットは、風呂に入る前に、既にマンティコール皇家からの封書の中身を確認していた。
中には、一枚の地図と「地図に示す場所に行き、ここに記述された暗号によって身分を証明せよ」という旨が書かれた文章があるのみで、差出人に関しての情報は一切無かった。その代わり、機密保持のための何らかの術式が封書の包み紙にびっしりと書き込まれていることを確認することで、ビルギットは封書の信憑性を改めて感じ取った。
「まず、先程封書を開けた時にも言ったことだが……あの術式は、封書を追跡するためのものだ。人間が構築したものとしてはかなり高度なものだろう。恐らく、封書を開封した時点で、我々の位置は向こうに知れたと考えていい。そして、正しき人物……つまり、アリアが開封したということも向こうは確認しただろう」
レフターは淡々と事実を告げる。その中で現れた『アリア』という名は、レフターがビルギットとしかいないときにのみ用いる特別な呼び方であった。
「高度な術式っていうのは、実際、どれほどの術士を想定して言っているの?」
「宮廷理術士以上で間違いない」
宮廷理術士。
それはつまり、国家の支配者に仕え、その国家の理術に関する全てに携わる存在であり、実質、公的な理術士としての最上位に該当する。レフターの見立てでは、それほどの能力を持つ理術士がこの封書の一件に関わっているというのだ。
「ってことは、本当の本当に皇家が関わっているってわけね……」
ビルギットがため息をつく。
その理由は、彼女の相棒であるレフターが、こと理術と魔術に対して人間をはるかに越えた知識量を有する存在だからである。ビルギットにとって、理術に対するレフターの意見は、事実そのものでしかない。つまり、彼が言うからには、この封書に確実に宮廷理術士並の術士が関わっているということであり、それは、先程からちらついている皇家の存在感が、最早疑いようのないものになったということでもある。
「迷宮公社を介さなかったことに関しては、どう思う?」
「迷宮公社を介したくなかったから、としか言えないな」
「……そんなの、私にだってわかるわよ」
むっとした表情を見せるビルギット。レフターは淡々と続ける。
「ただ、こう考えることはできる。迷宮公社を介したくなかったのは、迷宮公社に知られたくなかったということでもある、と」
「んん? わかるような……わからないような」
「つまり、送り主は、マンティコール皇家であることをアリアには知ってもらいたかった。一方で迷宮公社には知られたくなかった。だから面倒を承知で探宮者組合を介した、という意味だ」
「なるほど……でも待って。それじゃあ何故向こうは迷宮公社に知られたくないって考えたの?」
「それは私にもわからん」
あっさりと返すレフターに、そりゃそうかとビルギットも納得せざるを得なかった。彼女はわざと湯船により深く身体を浸からせる。
「行くのか? グリフスに」
レフターが問う。彼が口にしたグリフスとは、マンティコール皇国の首都の名であり、そして、封書内の地図でビルギットに指定されたのは、グリフスのとある場所であった。
「……何が何だかさっぱりわからないけど、無視なんかできない。明日すぐにここを出るわ。そして、グリフスで全部確かめる」
「了解した」
「よし。そうと決まったら、寝るわよ! 今日はもう疲れた!」
浴槽から立ち上がり、窓から差し込む月光にその身体を晒すビルギット。彼女の金色の髪が、その光をわずかに反射する。レフターは、人目がないと思って恥ずかし気も無く振る舞うビルギットに対し、彼女に聞こえない程度に「やれやれ」と口にした。