2
礼拝堂の大樹像が、傾き始めた陽光を受けて、まるで木漏れ日のような光を放っている。それは、月光を受けた時とはまた違う神秘的なものであった。
大樹像の下に座るシヴルカーナは、あの夜と同じ服装であっても、雰囲気が別物のようにビルギットには感じられた。今目の前のシヴルカーナには、皇女として放つ威圧感のようなものがない。逆に、ビルギットが怒りを抑えきれずに殺気に近いものを纏っていた。
「――再会を祝すとしましょうか。またここで会えて嬉しいわ、ビルギット」
シヴルカーナがそう言って、ぱち、ぱち、ぱち。と三回ほど拍手をする。ビルギットはその拍手にタンジムの乾いた拍手を重ねてしまう。
「……ふざけたことに加担させやがって」
ビルギットはそう悪態をついてから、何かをシヴルカーナの足元に投げた。
それは、あの夜この礼拝堂でシヴルカーナからビルギットに渡された、マンティコール皇家との信頼関係を証明する短剣であった。
「そいつは返す。用件はそれだけだ。二度と私に関わろうとするな」
刺すような殺気を前にしても、シヴルカーナは微笑みを絶やさない。
「あなた、何か勘違いしていない?」
「――なんだと?」
「……あなたはどうやら私を『敵』だと見做しているようね。そして戦う覚悟でここに来た。だからそんな剥き出しのままでいる……。ただね、私に殺意があると思っているのならば、それは大きな間違いよ」
ビルギットは困惑した。それは、彼女は、リーシャを救いタンジムを間接的に殺害したことから、シヴルカーナと敵対関係になったと考えていたからだ。だからこそビルギットは、どうしてもシヴルカーナに対し何らかの決着をつけなければならないと感じ、話をつけにきたのだ。たとえリーシャを助けることができても、自分が皇女と手来している限り、リーシャは自由に生きることなどできない。故に最悪ここで戦うつもりでいた。が――
「まず誤解を訂正……いや、全ての真実を話すと言ったほうが正しいわね。そこから始めましょう」
ビルギットからすればそれはあまりにも白々しく聞こえるものであった。
「――何が真実だ! お前達はリーシャを利用して【魔人】を作ろうとした! そのために私を利用した! それが全てのはずだ!」
「それは一つの真実にしか過ぎないわ。嘘がいくつもあるように、真実も一つではないのよ」
「――――」
絶句するビルギット。
「あなたが知らないもう一つの真実。それは、私がタンジムの暴走を止めたいと考えていたこと」
「な――」
何を、とまで口にすることが、ビルギットはできなかった。
「【魔人】の実現は、確かに私も望んでいたわ。理術よりもはるかに高度な干渉を可能とする魔術が、仮に迷宮以外の場所で、人間の意思で、自由に使えるようになれば、それはいずれ【玄界】の未来に必要なものとなる。確かに、そういう認識を私はしていた。その点に関しては、あなたもタンジムから聞かされたのでしょう? 否定はしないわ。けれど私は、今の技術で完全な【魔人】を実現できるとは、正直思っていなかったの。でもタンジムはその無理を通そうとして、暴走し始めていた。だから――どこかで対処する必要があったということよ」
ここにきて何かが、大きく変わろうとしている。その気配をビルギットは感じてしまった。
「……どういう、ことだ」
「タンジムは優秀な理術師であったけれど、私に対する忠誠心と、愛国心が、あまりにも強すぎたわ。【魔人】計画は当初は長期的なものであったのに、タンジムはここ数年のマンティコールの情勢を見て、早急に圧倒的な軍事力が私に必要だと認識し、この計画を急進させた。その頃から彼は魔術に関しても独自で研究をするようになった。私は彼のその動きに少しばかり警戒していたわ。何せ、魔術は何も知らない民と皇家からすれば、忌み嫌うべき不浄の業でしかない。彼の計画が失敗し、事が公になることがあっては、今後の椅子取りに差し支えるのは明白だった。それでも――【魔人】の力が興味深いことは事実だったわ」
その瞬間、シヴルカーナが明確に冷酷さを笑みに宿す。
皇女の色の違う両目が、困惑するビルギットを捉えている。
「もしタンジムの計画が成功するのであれば、それはそれで、非常に大きな力になることは否定出来ない。故に、伸るか反るかの見極めが非常に難しかったわ。だからね、私は試すことにしたのよ。どちらに転ぶか……二つの流れを敢えて残し、生き残った方を選ぶことにしたの」
「……『試す』だと?」
「ええ。一つは、タンジムが【魔人】の計画を成功させ、私にその成果を与えること。もう一つはタンジムが失敗し【魔人】の成果は得られなくなるも、タンジムを消すちょうどいい口実が得られること」
こいつは――
ビルギットは、目の前の皇女が、本当に人間であるのかを疑ってしまう。
「リーシャとあなたを選んだのは、そのためなのよ」
そう言って皇女が右手を上げる。
すると、彼女の隣の空間に、突然ひびが入り――
直後、空間が裂けたかと思うと、いつの間にかそこに一人の白髪の老人が立っていた。
老人は漆黒の術士然とした法衣に身を包み、柔らかな笑顔を見せている。その法衣はタンジムの着ていたものと似ているが、施されている装飾の刺繍は、明らかにより細やかなものであった。
「――紹介するわ。彼は我がマンティコールの至高の術士。そして、私が信頼するただ一人の存在。東方を司る宮廷理術師のサウードよ」
サウードがゆっくりとビルギットに礼をし、柔らかな笑みを見せる。一見すると気の良さそうな老人であったが、ビルギットはその笑顔を受けて背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「はじめまして、探宮者ビルギット」
サウードの表情は温和なそれであったが、ビルギットからすれば瞳の奥に何を秘めているかまるでわからない不気味さがあり、この雰囲気は皇女と似ているように感じられた。いや、むしろ皇女以上の危険な何かをビルギットは感じ取っていた。
「もしかしたらリーシャから聞いていたかもしれないわね。彼は、私の教育係でもあり、リーシャをディムロンド城に引き入れた張本人。彼がいなかったら今回の出来事は成立しなかったわ」
「黒幕とでも言いたいのか」
「ふふっ、確かにそういう言い方もできるわね。事実、サウードがいなければリーシャを適切な人材として見繕うこともできなかったし、あなたが何者であるかを知ることもできなかった」
ビルギットが不快感を露わにする。
「……色々と聞きたそうな顔をしているわね。順に話しましょうか。まずは、何故リーシャが選ばれたのか。これに関しては実に単純よ。答えはリーシャしかいなかったから。タンジムは【魔人】の素材をいくつか見繕ってはいたけれど、どれもリーシャの魔力許容量と比べれば大したことは無かった。サウードは彼女を最適な人材としてタンジムに紹介したというわけ」
「――ふざけるな。それならば、お前が【魔人】を創りだそうとした事実は変わらない」
その静かな激昂に対し、皇女が首を傾げる。
「そうよ? 言ったじゃない。私は【魔人】の力にも興味があり、成功すればそれはそれで使えると考えていたと。でも、失敗した時に彼を消すための装置が必要だった。ここまで言えばあなたならわかるでしょう」
これまでの言葉が、ビルギットの中で目まぐるしく巡る。そして、それらが一つの所に集約し始めたとき、馬鹿な、と。ビルギットは皇女の言わんとしていることを察し、最早驚愕を隠しきれなくなっていた。
「私を、そのために、選んだのか」
「そう。あなたは【魔人】の計画を進めるために必要な存在であり、同時に、失敗の際にタンジムを始末しうる存在でもあった。あなたの【魔殺し】の力と、その探宮者としては珍しいお人好しな部分が、正に適切だったというわけ。二つの流れを成功に導く存在が正にあなただった。そしてあなたは見事私の目論見通り、答えを示した。タンジムは死ぬべきであり、リーシャは生き残るべきだった。あなたがその境を創ったのよ。【金獅子】」
響く声。
直後、礼拝堂に若干の沈黙が生じる。そして――
「――お前は本当に正気なのか?」
それはビルギットの紛うことなき本音であった。
「正気よ。だから今、リーシャが死なずにすんでとても喜んでいるし、タンジムの暴走を最小限で抑えられたことを有意義に感じているわ。【魔人】に関しては残念だけれど、総取りというわけにはいかない。今回はこうなったということよ」
ビルギットは愕然とした。これほどまでに理解できない――矛盾する欲求を同時に達成しようとする――思考を持つ人間を、初めて見た。同じ人間に恐怖に近いものをこれほど感じたのも、初めてであった。
「リーシャがどんな気持ちで、どんなに苦しんだか、お前はわかっているのか!」
「わかっているつもりよ。彼女は大切な友人だもの。だからこそ良い機会だと思ったのよ。彼女は私の近くにいるにはあまりにも優しすぎる。彼女の幸せを願うのならば、私とは離れさせた方がいいと、ね。彼女に嘘をつく形になったことは、認めましょう」
拳を握りしめるビルギットの表情は重い。そこには、皇女の言う通り、リーシャが彼女と離れることになったのを少しばかり良く思う自分がいたからだ。しかし同時に、それは狂気的な結果論でしかないことを、ビルギットは絶対に見失わないようにしていた。
やがて、ビルギットは最後の疑問の答えを求め、サウードに視線を移す。
「彼女が今求めている答えに関しては、私が話そう」
そうサウードが口にするとシヴルカーナは黙って頷く。
「――タンジムや姫が君のことをよく知っていたのは、私がいたからだよ。ビルギット」
サウードは現れた時と変わらない表情のままそう口にする。
「……お前は何故、私のことを知っている」
サウードは両目を閉じ――
「――――私が、君達の言う、【魔王】だからだ」
――真紅の両目を、ビルギットに晒す。
ビルギットはそれを見て咄嗟に背負っていた長柄斧槍を構えたが、あまりにもサウードに敵意が無く、自ら飛び出して攻撃することができなかった。
サウードの両目の光は、明らかに人間のそれではなく、だというのにその姿形はどう見ても人間であり、黒煌宮で見た【魔人】の姿よりもはるかにビルギットを困惑させるものであった。
「お前、一体――」
「私は太古よりこの地――マンティコールに根付く者であり、そして、シヴルカーナと契約を結び受肉した者だ」
「馬鹿な」
「事実よ」
皇女とサウードを交互に見やるビルギット。何も知らない者が見ればそこには二人の人間がいるようにしか見えない。ビルギットはサウードの気配を探ったが、真紅の両目から僅かに漏れるもの以外魔力のようなものを感じなかった。
逆に言えば、彼の両目から感じられるものは、紛うことなき真魔のそれであった。
「ビルギット。君の目ならば私が本物の――所謂【真魔】であることがわかるだろう?」
「……迷宮の外に、真魔がいられるわけがない」
「それは君達が作り上げた固定観念だ。『竜は【宙界】でしかいられない』という一般的な認識が間違っていることを、君は身を以て知っているはずだが」
サウードの言葉にはっとさせられるビルギット。
確かに彼女には、レフターという、固定観念を破壊する存在が身近にいた。
「結論を述べれば、この地表で私以上に【真魔】について知る存在はいない。私は【真魔】そのものであり、永い時を【異界】で生きていた。迷宮でしか生きられないような自存能力の低い真魔とは、そもそもの力の質が違う。故に、【魔王】と呼ばれたこともあったわけだが――今はどうでもいい話だ。とにかく私は、こうした存在であるが故に、彼らが何を求めどのように行動するか、それを人間よりもはるかに良く理解している。だからこそ、グリムワルの地で起きたことと、それによって何が生じたかを全て把握している」
それは、ビルギットの想定をゆうに越えてしまった、最悪の解答であった。
「【真魔】は獣ではない。人間以上に思考し、人間以上に長命な種族だ。そして、彼等には確かな社会性があり、【異界】においては、人間のそれをはるかに越える文明も存在する。【玄界】への侵攻を望む者もいれば、【玄界】との友好関係を望む者もいる。私はその中間の立ち位置だと思ってくれればいい」
「それを、信用しろと?」
「無理に信用しろとは言わない。君からすれば突飛な話だろうからな。我々としては、シヴルカーナと私の関係、そしてそれがあってこそ今回の一件が成立したという点、そして、君が思うよりもはるかに世界は複雑であるということを一先ず理解してもらえればいい」
ビルギットは、事実を飲み込むために、少し間を置いて、ようやく口を開く。
「……シヴルカーナ。お前は、なんでこんな、真魔と契約するような真似をしている」
「世界を安定させるためよ」
シヴルカーナはそう断言した。
「今日まで人間の文明が【玄界】で生き残ってこられたのは、ただの幸運の積み重ねにしかすぎない。グリムワルの大迷宮化のような事態はいつ起きてもおかしくないのよ。故にこの世界は、早急に統一されなければならない。私はそれを導く者となるために、このサウードと契約をした。あなたが【魔殺し】となる契約を竜と交わしたように、ね」
皇女の笑みが、柔らかいものに変わる。
「私はあなたに不思議な感情を覚えているの。自分と同一の存在を前にした……親愛の情に近いものをね」
ビルギットは、耐え切れず、長柄斧槍の石突で礼拝堂の床を叩いた。
その音が反響し、自分達以外に誰もいないことをビルギットに伝える。
「お前が【魔王】と契約しているのならば、お前が全て行えば良かったはずだ。【魔人】を創ることも、タンジムを殺すことも、両方できた」
「できていれば、ここにあなたはいないわ。サウードは確かに【魔王】ではあるけれど、彼は人間と接するために極限まで力を抑えている。私を介さなければ魔術を【玄界】で行使することができず、しかもその干渉は、微々たるものでしかない。あなたが契約を結んだ竜が、この世界で行使できる力が限られているのと同じというわけ。それに……【魔人】の技術は人の手で生み出す必要があるものよ。同時に、タンジムはその件の暴走がなければ、非常に優秀な存在だった。どちらに対しても、サウードが自ら早急に行動する必要がなかったのよ」
ビルギットが僅かに俯く。
まるで言い訳を探すかのように、ビルギットは一つ一つ問うていた。しかしそれら全てに納得がいってしまう答えが出ることが、いつしか彼女の怒りを、悲哀のようなものに変えてしまっていた。
その悲哀は、世界の根本にある惨たらしい何かを見てしまったかのような――後悔のそれに近いものであった。
「……そうまでしてお前が人間の世界にいる理由はなんだ」
サウードに対する敵意を失いつつある状態で、ビルギットは問う。
「シヴルカーナと同じだ。世界には安定が必要であるという結論に、私は【真魔】の目線から行き着いた。故に私は、この非凡な人間の女と契約を結んでいるわけだ。それに、私は人間という種族を決して侮っていない。私という存在が全ての力を発揮しても、この【玄界】には私を殺すことができる人間が必ずいる。その内の一端には君もいるのだ。見たところ君は、人であり竜であり、そして魔でもある――極めて特異な存在になったようだな。そんなものを敵に回せばどうなるか、考えるまでもない」
ビルギットは、自分の足元を見る。
そして、かつては見えなかったもの――この地表にも存在する、微弱な魔素の流れ――が見えてしまう今の自分を、実感する。
礼拝堂を、再び沈黙が包んだ。
「――そろそろわかってくれたかしら、ビルギット。私達はあなたを敵にするつもりは無い。殺すなんてことも当然しない。あなたが今回達成してくれたことを、正当に評価し、感謝している。私達は今後も良好な関係を続けるべきだと考えているわ。だから……」
シヴルカーナは立ち上がり、自分の足元に投げられた短剣を手に取る。
「あなたには是非、これを依頼の報酬として受け取って欲しい。グリムワルへの道筋は必ず私が用意するわ」
ビルギットの脳裏に、かつての光景が蘇る。今日までの戦いの記憶が、鮮明に、過る。
そして、ようやく守ることができた存在の笑顔を思い出す。
「――断る」
彼女は自分自身気づかない内にそう口にしていた。
シヴルカーナは、その返答に対し、少しだけ表情に驚きを示す。
「私は……お前とは違う。お前のように、誰かを切捨てて、嘘をつくようなことはしない。したくもない。お前に頼ることは、これまでの私に嘘をつくことと同じだ。私はお前のやり方を許さない。お前達の力には、二度とならない」
まるで自分自身に確認するかのように、ビルギットは一つ一つゆっくりと口にする。
シヴルカーナは、それに対し――
「あなたらしい答えなのかもしれないわね」
その短剣をサウードに預け、微笑む。
ビルギットはシヴルカーナに背を向け、礼拝堂から出ようと歩き始める。一切振り向くことなく扉を開けたビルギットを見つめつつ、シヴルカーナは――
「――私達は必ずまた出会う。その時を、楽しみにしているわ。ビルギット」
扉を閉める重い音が、響いた。




