3
タンジムは突如現れたビルギットに、その紅い目を大きく見開きながら、全身を震わせる。
「――どうやっテ、ここニ来た!」
「私と相棒は、繋がっているんだよ」
――疾走するビルギット。
一気にその間合いを詰めると、タンジムが術が発動する前に、銀刃を閃かせる。
ビルギットの突きがタンジムの右肩を容赦なく貫いた。
ビルギットは槍頭を抜くこと無く、そのまま腕力で縦に長柄斧槍を薙ぎ、肩口から槍頭を切り出すようにしてタンジムの肩を切り裂く。
「ッアぁッ!」
タンジムの痛ましい叫びが漏れると共に、周囲に展開されていた術式の形成陣が光を失う。
術者の集中が失われたことで、術式が自壊し始めたのだ。
烈火の如き勢いでビルギットが次の攻撃を放とうとするが、その刹那、ビルギットが明らかに不自然に動きを止める。タンジムはその隙に翼をはためかせビルギットと大きく距離を取ろうとするが、遅れて放たれたビルギットの横一閃が、僅かにタンジムの胸元を捉える。タンジムは人間味の薄れたどす黒い血を噴出しながら、なんとかビルギットから後退するも、膝をつき、やがてうつ伏せに倒れる。
完全な形で攻撃を放てず、追撃もできぬまま止まってしまったビルギットのその表情は、明らかに何かの苦痛に耐えているものであり、彼女の額にはびっしりと玉の汗が浮かび上がっていた。
「――限界が近い」
レフターがそう言ってリーシャの肩からビルギットの肩へと瞬時に移動する。リーシャも慌ててビルギットの元に駆け寄り、そして、彼女が見た目以上に身体に異常を来していることを察した。
「これ以上は危険だ。奴の拘束魔術を吸収した分がまだ身体に残っている」
「まだ、いける」
レフターの静止を無視し、ビルギットは一歩タンジムへと踏み出す。
「ビルギットさん!」
息も荒く、とても戦えるような状態じゃないビルギットを目にして、思わずリーシャはその名を叫んでしまう。
「今、あいつを止めないと、駄目だ。あいつは、許せない」
「やめろ、ビルギット。これ以上溢れさせた状態で激しく動けば一線を越える。本当に人間ではなくなってしまうぞ」
そのレフターの忠告にはっとして、リーシャはビルギットの両腕――すでに人間とかけ離れた形になってしまっている腕――を見る。それは【魔王】を倒した直後のものよりも、さらに酷いものであった。
「レフターさん。ビルギットさんのこの腕は――」
「……【魔殺し】の影響だ。発現した魔術を術式以前の魔素の状態まで還元し体内に吸収することで、竜の因子により魔を殺す力へと転換することができる。だがこの【魔殺し】の仕組みは、使う瞬間にビルギットの人間としての要素を著しく弱くしてしまう。いわば一時的に自身の身体を竜にしているということだ。連続で膨大な魔術を吸収し続ければ、その分ビルギットは竜に近づく。だがあくまで肉体の根幹は人間のままだ。そのまま竜になることはない」
「なら、どうなるんですか」
「もっと不明瞭な――この世に許されない存在になる」
「そんな――」
息を飲むリーシャを余所に、ビルギットが歯を食いしばりながら再び一歩進む。
「ビルギットさん! ダメです!」
「止めないで。あいつは、あの程度じゃまだ起き上がる」
「でも、それじゃあビルギットさんが人間じゃなくなってしまいます!」
「リーシャが人間じゃなくなるよか、ずっといい」
ビルギットが、リーシャの目を見て、断言する。
「どうして、そんなにまで――」
そう口にしたリーシャの目元に、ビルギットの、竜のそれと化しつつある左手が近づき、こぼれ落ちる涙を、優しく拭う。
「誰かの都合で運命をねじ曲げられる。そんなふざけたやり方を許さないために、私はこの力を得た。それを変えられないなら、今日まで私が生きた意味が無い。だから、リーシャを放っておけないの」
「でも、私は、マンティコールに……」
「恩を返したいなら、生きて、生き続けて、そうして返していけばいい。人一人の命は、そんなことのために軽々しく捨てていいものなんかじゃない」
リーシャがビルギットの左手を両手で握りしめ、その顔をくしゃくしゃに歪ませる。
「それでも、ビルギットさんがこんなになるのは、嫌です」
リーシャの溢れ出る涙の温もりが、ビルギットの手にも伝わってくる。ビルギットは、自分のために涙を流したリーシャに、今できる精一杯の笑顔を返す。
「――大丈夫。私はそんなやわじゃない。だから安心して」
「ビルギットさん……」
「ここを出よう。そして、新しい生き方を探そう。約束、したでしょ? 私も一緒に探すから。リーシャが納得できる、新しい在り方を――」
「――そんナことヲ許すと思うか?」
――ビルギットが素早く長柄斧槍を構え直す。
その視界に、再び起き上がろうとするタンジムが映るも、先のビルギットの攻撃が思いの外深傷となっているのか、息荒く膝をついたままでいた。
「許されるつもりはない。お前を叩きのめして、この迷宮を出る」
長柄斧槍を握るビルギットの手に、更に力が加わる。
「――っ、くくっ、くふっ」
それは突然の笑いであった。
これまで熱狂的な愛国を口にすることはあっても、笑う声など一切漏らさなかったタンジムが、唐突に、明らかに、身体全体を揺らして笑い始める。
その異常性が、ビルギットの今にも飛びかからんとしていた攻めの気配を削ぐ。
「何がおかしい!」
「いヤ、探宮者ビルギット。確かに貴様なラ、私を殺シ、リーシャを連れて、迷宮から出ることがでキるだろう。この部屋かラも、力づくで出られルのだろうな。だが、それは、私がお前に殺サれればの話ダ。そうだロう?」
何か――
明らかに何かを企んでいる。それは誰の目にも明らかであった。しかし、ビルギットはタンジムが次に何を仕掛けてくるかまるで予想がつかなかった。というのも、タンジムは間違いなく深傷で苦しんでおり、すぐには動けないでいるからだ。術式をこちらに向けて発動しようとすれば、それに反応するぐらいはできる。それほどの負傷を抱えているのをビルギットは、確かに見抜いていた。
やがて、タンジムの不気味な笑いが収まる。
「イいか、リーシャ。命ヲ捧げるトいうのは、こういウことだ」
その瞬間、ビルギットはようやく向こうのやろうとしていることを直感し、阻止せんと身体に鞭打ってタンジムの方へ駆ける。
が――
「――シヴルカーナ皇女に永久ノ栄光あレ!」
タンジムが右手で自分の顔面を鷲掴みにし、何かの起動音声を口にする。した。
その刹那――
――タンジムの身体が急激に膨張して、爆ぜた。
ビルギットは咄嗟にリーシャを庇う。だが、肉片は飛散したかと思うと、それらはビルギット達に触れることなく、一瞬で塵となって中空で消えた。
――あまりにも、一瞬の出来事であった。
それ故に、リーシャはおろかビルギットですら、何が起こったのか理解できずにいた。何故タンジムは自死を選んだ。本当に死んだのか。なんのためにこんな真似をした。奴の狙いは。何故、何故。何故。
ビルギットの思考がそのように乱れる中――
巨大な、地面を覆い尽くすほどの真紅の形成陣が、突然展開される。その輝きは一瞬にしてこの大部屋を、目が痛くなるほどの紅に染め上げる。
「――なんだ、これは!」
ビルギットは、タンジムが何かを仕掛けたことを確信する。奴は、自分の肉体を破壊することで、間違いなく何かの術式を起動させた。しかしそれが何かはわからない。とにかくリーシャとここから出なければ――
そう思考した直後。
リーシャが、突然その場で蹲る。
「リーシャ!」
嫌な予感を感じつつもビルギットがその手を伸ばした。
刹那――
「――――に、げ、テ」
リーシャの背中から、巨大な二対の羽が現れる。
それは、禍々しくも美しい、漆黒であった。
「――――」
絶叫が、響き渡る。
それと共に、力の奔流のようなものがリーシャの身体から放たれ、ビルギットを容赦なく吹き飛ばす。ビルギットは、言うことの聞かない身体でなんとか受け身を取り、リーシャの方に視線を戻し、そして、目を見開く。
見間違えるはずがなかった。
リーシャの背から生えた二対の翼は、蝙蝠のようでいて、巨大な――まるでビルギットが倒した黒煌宮の【真魔】のような――明らかに、完全な【真魔】のそれであった。
空間が鳴動し、リーシャの身体を覆っていた紋様が、辺りの真紅に合わせて、これまでに無いほどに紅い光を自ら放ち始める。
それは胎児の鼓動。
誕生の産声であった。
「レフター! 何が起きているの!」
「狂信者め。やってくれたな」
レフターが不快を露わにする。
リーシャが放つ力の奔流は、周囲の地面を刳り、見えない壁のようにしてビルギットの歩みを阻む。かつてないほどの強烈な圧力が、黒煌宮全体を震えさせている。ビルギットは、この迷宮に広がっていた魔素がリーシャに集約していくのを肌で感じ取っていた。
「――タンジムは【真魔】としての自己を対価に、【魔人】を作り出す術式を発動させた。アリアに真魔を殺させリーシャに吸収させたように、今度は自分を殺すことでリーシャに吸収させたのだ」
「な――」
「奴にとって重要なのはマンティコールのために尽くすことであり、自身の命すらもその手段の内に過ぎなかった。迂闊だった。奴がそこまでの狂信者として見抜くことができなかった」
リーシャの身体が、その形を変えていく。
否。
正確には、紋様から噴き出始めた肉に包まれ、新たな真魔としての鎧を構成しつつあった。
「リーシャはどうなるの!」
「このままでは間違いなく【魔人】になる。いや、もうほぼなってしまっている」
「ッ、じゃあ、助ける方法は!」
「…………」
「レフター!」
叫ぶビルギットに対し、レフターは極めて冷静なまま――
「殺すしかない」
そうビルギットに告げた。
「――は?」
鳴動に包まれた空間の中で、ビルギットだけは、沈黙の中にいた。思考が止まるほどの事実を前に、静けさを錯覚していた。
「リーシャは吸収した真魔の因子を今発現しつつある。彼女は新たに誕生する【魔人】の心臓だ。リーシャと【魔人】は完璧に同一になる。分離した存在ではない。故に、殺すしかない」
「切り離して、分離させることは、できないの?」
「魔素を構成要素としている。アーシアの物理では切り離せない。それは真魔と同じだ。消滅させるか否かしかない」
「何か、何でもいいから! 何かないの! 方法は!」
ビルギットの叫びをかき消すように、一際大きな鼓動が響く。
その鼓動は、黒煌宮全体を揺らし、直後――ビルギット達のいる空間の紅が、急激に淡いものに変わっていく。
――静寂。
リーシャのいた場所で、何かが立ち上がり、その姿をビルギットに晒す。
ビルギットは、それが真魔に類するものであると把握することが最初できずにいた。その原因は、それが人間的な要素を色濃く残す影形であったからだ。
人間のような四肢、人間のような背丈。
だが、あくまで影形だけである。巨大な羽の存在や、その表皮が、タンジムが変化したときのそれのように漆黒であること。また、その頭部には、人間であったころの面影を隠すような、真紅に輝く両の目が覗く仮面のようなものがあり、二本の牛のような角が蟀谷の辺りから伸びている。
ビルギットの、事実からの逃避を望む部分が、彼女の目を曇らせていた。
【魔人】。
未知の存在が、ビルギットを、その真紅で見つめている。
「リ――」
ビルギットが呼びかけようとした瞬間、【魔人】が動いた。
その指先に、一瞬だけ、極小の、それでいて高密度の術式が描かれたのをビルギットが視認し――
――闇。
魔人の眼前の空間から放たれた闇の奔流が、ビルギットを飲み込む。それは泥よりも重く毒よりも痛み血よりも生臭く鉄よりも硬い、生物に死を撒き散らす力の流れであった。
だがビルギットは、その中にあってもまだ無事であった。
レフターが瞬時に創り出した泡の障壁で何とか凌ぐことができたのだ。もしこの障壁がなければ、今のビルギットでは確実に即死しているところであった。
激流の中の小石のように、ビルギットは泡の中で激しく揺さぶられる。レフターは障壁が早くも崩壊しつつあることを察し、素早く障壁を鋭利な鏃のような形へと変え、闇の流れを切り裂き、外へと逃れた。
ビルギットは濁流から出るや否や、すぐさま走り出す。自身の中から溢れ出そうなものを抑えつけながら、【魔人】と大きく距離を取り、その様子を窺う。
ビルギットはまだ逡巡していた。
染み付いた戦いの経験は、身体を無意識に動かしていたが、彼女の心は未だリーシャのことを引きずっていた。
「――アリア。すまないが次はもう防げない。私の方も、先程のお前の転移でもう限界に近い」
「それはこっちも同じよ! くそっ!」
「いいか、アリア。私とてリーシャを救いたい。その意志は間違いなくお前と同じだ。だが、状況はもう決定されてしまった。冷静にならなければ、今度は私達が死ぬぞ!」
「そんなこと、言ったって!」
どうしようもない悔しさが、ビルギットの中でこみ上げてくる。長柄斧槍を握る手に血がにじむ。
――【魔人】がビルギットの方にゆっくりと身体を向けた。
「来るぞ!」
と。
【魔人】を何か黒いものが包んだかと思うとその姿が消え――
――ビルギットはほぼ無意識に翻り、そして、いつの間にか彼女の背後に移動していた【魔人】と至近距離で対面する。
ビルギットの全身に、死に近づいたときの特有の冷気が走る。
まずい。そう思った瞬間には既に身体が勝手に対応を始めていた。
【魔人】の術式が至近距離で発動する前に、その右腕に向けて、身を翻した勢いを乗せて長柄斧槍を叩き込まんとするビルギット。生存本能による身体の限界を無視した一撃は、【魔人】の右腕を確かに捉えたが、斬り落とすどころか、凄まじい激突音と共に、火花が散るのみであった。
だが、その一撃により、通常の真魔よりはるかに小さいためか、【魔人】の体勢に崩れに生じる。ビルギットはその隙を逃さず、長柄斧槍を頭部に叩き込もうとする。
だが――
リーシャの笑顔が過る。
リーシャの涙が、過る。
それが、ビルギットの攻撃を完全に静止させた。
「――アリア!」
レフターが叫ぶ。それにより、一瞬沈黙したビルギットの戦士としての感覚が急激に覚醒する。が、晒してしまった隙はあまりにも大きく――
【魔人】の術式が発動し、中空から現れた黒い宝石の槍のようなものが、ビルギットの腹部を貫いた。
「っ――」
貫かれた勢いのまま、息を全て吐かされ、苦悶を残し、大きく吹き飛ばされるビルギット。鮮血が、その軌道に赤い弧を描く。黒い槍は、ビルギットが地面に転がるときには既に霧散しており、腹部に開けられた穴を塞ぐものが無く、血が溢れ出る。
(――死ぬ)
それは、出血を前にして現れた判断ではない。殺意を持つ相手の前でこれほど決定的な隙を生み出したことが、ビルギットにとっては致命的であった。【魔殺し】の代償と、この傷。ビルギットの意識にビルギットの身体は追いつけない。
しかし――
彼女の予想に反し、【魔人】は追撃をしかけてこない。
【魔人】は、先の術式を発動した姿勢のまま、立ち尽くしている。ビルギットは倒れたままの状態から、何とか膝をついて起き上がり、その間に、レフターはビルギットの身体から溢れ出る竜の力を用い、止血を開始する。魔素を吸収しすぎて力が飽和状態にある今のビルギットであれば、時間さえあれば、その力を治癒のそれに転換し、人間離れした止血を施すことが可能であった。ただしそれはあくまで、応急処置にしかすぎない。ビルギットは、未だ自身が危機的状況であることを自覚していた。
だが、それでも【魔人】は動かずにいた。
否。正確には動いていたが、それは攻撃の類では無かった。【魔人】は、自分の頭を抱え、仮面の奥から奇怪な呻き声を発し始めたのだ。
「――どうやら急激な変化で何らかの影響が出たようだ。隙が見えてきたぞ」
レフターがそう言う中、ビルギットは全く別のことを考えていた。
僅かだが思考の時間を得たことと、死の危機に瀕したことで、彼女は冷静さを取り戻していた。
そして、目の前の状況が、一つの賭けを彼女の中で構築する。
「レフター」
ビルギットの呼びかけには、静かで、それでいて強い意志があり、レフターを思わず振り向かせる。
「リーシャを助ける方法、思いついた」
「何だと?」
ビルギットは止血されつつある自分の腹部を見る。正確には、腹部で行われている、魔素から治癒の力への転換の過程を見つめる。
「あの【魔人】を構成している魔素を、全部私が吸収すればリーシャだけ取り出せる。違う?」
「馬鹿な――」
「勿論そのまま吸収するんじゃない。吸収したのをすぐに力に転換する」
「無理だ。もうすでにお前の中の器は満たされてしまっている。そもそも、転換する余裕がない。注いだ水を別の入れ物に注ぐための、中継ぎの器が無いのだぞ」
「それは、私が人間に留まっていればの話でしょ」
ビルギットは、レフターに、どこか淋しげな――小さな笑みを見せた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
血を流しすぎたせいで青白い顔色になり、その身体は満身創痍であったが、瞳には、自身の血を沸騰させるかのような、研ぎ澄まされた意志の炎が宿っていた。
「きっと……いや、絶対に。今、リーシャがあの中で戦っているんだ。私のために、あの【真魔】を抑えてくれている。だからさっき私は死なないで済んだ」
長柄斧槍の穂先を、唸る魔人に向ける。
「私は、リーシャに応えたい。これまでの自分に応えたい。絶対に、リーシャを助けたい。約束を守りたい。この生命を賭けて、人間としての全てを捨ててでも、絶対に、助けたい」
その瞬間まで、「逃げろ」と自分に告げてくれたリーシャ。
彼女は自分のことより、他人の事ばかり考えている。
だから彼女は、自分の命の使い方で迷うことができる。
ビルギットは彼女のその優しさを知っている。
選ばれた存在などではない、どこにでもいるただ一人の人間として尊ぶべき心がリーシャにはあることを、ビルギットは知っている。
そんな、ありふれた花のような、身近過ぎて見失いがちなこの世界の美しいものを、人を、心を、命を、無慈悲に奪っていく嵐があることも同様に知っている。
かつて全てを一瞬で失った者として。そして、選ばれてしまった者として。
ビルギットは嵐に立ち向かい、その命の限り守ることを誓ったのだ。
失われた全てのもののために、これから失われようとするものを、力の限り守ると。
それが、無力であった自分への手向け。呪われた運命を背負うための覚悟。
アリアが『ビルギット』として生きていくための、原則である。
「今目の前にいる選ばれてしまった者を救えないで、何が【金獅子】だ!」
レフターには、最早反論する気などなかった。
彼は、覚悟を決めたビルギットを前に、見届ける者として、その選択に従う。
「アリア。最後の確認だ。本当にいいんだな」
「いい。構わない。だから、力を貸して」
「――了解した」
ビルギットが魔人へと駆ける。
その全身から蒼い炎が迸り、長柄斧槍の穂先まで一体となって、蒼の流星と化す。
唸り声をあげていた魔人が接近するビルギットを視認し、異常なまでに痙攣させながら右手をビルギットの方に向け、術式を展開しようとする。
が、魔人の左手が、意志に反するかのように右手の動きを制しようとする。
だが間に合わず、術式は発動され――
闇の濁流が再びビルギットを飲み込まんとする。
しかし、流星と化したビルギットは、濁流を前にして一切退くことなくその身を投じる。闇の濁流が、ビルギットの蒼炎に触れた瞬間に、爆ぜて、歪な高音と共に淡い光へと変化させられる。
ビルギットは自身の心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。それは、間違いなく人間としての自分が悲鳴をあげている証拠であった。
「知った、ことかぁぁァっ!」
咆哮し、それを前に進む力へと変え、長柄斧槍を突き出して濁流を切り裂いていく。その最中、ビルギットの金色の髪が留め金を破壊し、解き放たれる。
蒼い光の中、少しずつその長さを伸ばしていく金色の髪。
長柄斧槍を持つビルギットの両腕、それに繋がる両肩も、竜の前足のように変化し始める。
そして、ついに、濁流を切り開き、魔人の懐に入るビルギット。
彼女はよろめく魔人に対し――
「――ごめん」
すでに竜の腕が長柄斧槍と同化し、身体の一部としてしまった右腕を、魔人に突き立てる。
ビルギットを包んでいた蒼い炎が、長柄斧槍を通し、魔人の全身も包み、やがてその炎を突き破るかのように、魔人の内側から黒い何かが迸り始めた。
迸った何かは、中空に吐出されたかと思うと、ビルギット達の上空で僅かに滞留し、次の瞬間、ビルギットの身体へとそれらが一斉に流れ込み始める。
その感覚は、これまでにないほどビルギットの精神を蝕んでいく。
極限の痛みと、極限の快楽が混ざったかのような、感情の渦がビルギットを内側から飲み込み、嬲り、喰らっていく。だがビルギットは、その渦の中で一つの意志を楔に、必死に自我を保っていた。
(――リーシャ)
ビルギットの脳裏に、黒煌宮に入る直前の光景が過る。
(――私は、リーシャに嘘をつきたくない)
やがて蒼い炎ごと、放出された魔素が空間を包んでいく。
終わることのない苦痛。
消えていく、根源の何か。
ビルギットは、自身を構成する要素が闇の中で曖昧になっていくことを実感しつつも、それでも、闇を喰らうことを止めなかった。絶対にやめようとはしなかった。
そして、どれほどの時間が経っただろうか。
闇の中、ビルギットは、誰かの声を聞いた。それはレフターのものではない、自分の悲鳴でもない、もっと、何か――
(――ビルギットさん)
蝕まれても尚僅かに残るビルギットの意識が、その声がリーシャのものであることを認識する。
(もう、やめて)
(もうこれ以上、私のために、人を捨てないで)
(ビルギットさんが、ビルギットさんじゃあ、なくなっちゃう)
(お願いだから、もう――)
――ビルギットの手が、リーシャの手を掴んだ。
渦巻く闇の中。確かにその二つの意識は繋がった。
「――リーシャのためだけじゃないよ」
(――え?)
「私は、私がリーシャを守りたいから、生きていてくれたら嬉しいから、約束したから、悲しませたくないから、絶望してほしくないから、同じ旅団の仲間だから、守るんだ」
(――――)
リーシャの意識に変化が生じたことが、ビルギットに伝わってくる。
「こんなにも沢山の理由がある。リーシャのためだけじゃない。私のためでもあるんだよ」
その瞬間、ビルギットの意識が、再び力を宿す。
闇を切り裂くように、蒼の炎が爆ぜる。
「生きて、リーシャ。私のために……そして、何より、自分自身のために――」




