1
天に、金色の環が輝いている。
地に、闇の眷属達が蠢いている。
ただそこに在ったというだけで、貪り、弄ばれる命。
じょじょに創り出されていく魔の巣窟。
地獄。
人々の嘆きが、地の震えの唸りと重なる。
黒い空に輝く神々しき光景と、闇が渦を成す地表は、絶望的なまでの差異を生じさせている。
その天と地の境たる場所に、リーシャはいた。
まるで翼を持つかのように浮遊しながら、彼女は、グリムワルという国が終焉を迎えたその日を眺めていた。
(――どうして私、こんな場所に……)
リーシャは思い出す。以前にもこの光景を見たことを。
ただし、あれは夢だったはずだ。何故見たかもわからない、覚えていることすらできない、幻のような、夢であった。
なのに、どうしてまた同じ夢を見ているのか。
何故、知るはずもないグリムワルの終わりを見ているのか。
(――そう、夢だった)
リーシャの脳裏に、ビルギットの笑顔が浮かぶ。彼女と過ごした短い日々が、それこそ夢のように浮かび上がる。
そして、タンジムから明かされた真実も思い出し――
(どうして)
リーシャはあらゆるものから逃避するように、自分の頭を抱え、思考を停止しようとした。
その直後――
リーシャは、天地の境から、巨大な黒い塔の頂上――闇の中心、その現象の根源に聳え立つもの――に、いつの間にか立っていた。黒い塔の頂上は平らで円形に広がっており、その端からグリムワルの首都シヴァナが地の底へと飲み込まれていく様子が嫌というほど見渡せた。
「――どうして」
そう呟いたのは、リーシャではない。
リーシャが声の方を振り向くと、頂上の中心――円の中点にあたる位置――に、幼い頃のビルギット――アリアが、異様に伸びた金色の髪を地に広げ、呆然と、一糸纏わぬ姿で立ち尽くしていた。その姿は一見すると、天から地獄に舞い降りた調律神の使いのように神秘的なものであったが、その蒼の両目からこぼれ落ちた涙が、リーシャに彼女がただの少女であることを思い知らせる。
リーシャは、シヴルカーナ皇女やタンジムが口にしたビルギットの過去に触れた言葉を思い出し、そして、これが正にそのときの光景であることを悟った。
「――お父様……陛下……クレイグ……」
弱々しい足取りで、断崖となっている端まで歩くアリア。伝う雫が、地に落ち、伸びすぎた金色の髪に撫でられ、乾いていく。
「みんな……どこ……」
そして、塔の端に辿り着いたアリアは、そこから、闇に飲み込まれていくシヴァナと、食いちぎられ貪られ嬲られる人々の慟哭と悲鳴を残す様を、目の当たりにする。
「あ、ぁ……っああ……」
崩れ落ちるアリア。
リーシャはそれを抱きしめようとした。しかし、彼女の両腕は、アリアに触れることができず、ただ幻のようにすり抜けていくのみであった。
アリアは、地に伏し、声にならぬ嗚咽を漏らしながら、ただただその怨嗟を耳にすることしかできず、この圧倒的な理不尽に絶望する。
リーシャはそれを見ていることしかできず、胸の内に引き裂かれるような痛みを覚える。
誰か――
誰でもいい。誰か。神よ。人よ。誰か。
どうか、彼女を救って下さい。
リーシャは祈る。
目の前にいる少女の救いを、ただひたすらに――
「――これが、全ての始まりの日だ」
その声は、リーシャの頭上――天の環の向こう――から響いた。
リーシャがはっとして空を見上げた瞬間、天の環から、歌声のような――奇妙で、それでいて神秘的な――音が響き始める。
やがて、環から眩い光が黒い塔に降り注ぎ――
「――アリアは、竜の力の一部を得て、【金獅子】となったのだ」
リーシャは目を見開いた。
黒い塔の真上に、巨大な、20ラーク(約200メートル)以上もある、蒼く神秘的な輝きを宿す竜が、翼を広げいつの間にか浮遊していたのだ。
蒼竜は、深い蒼がゆっくりと渦巻いている美しい瞳で、リーシャを見下ろしている。リーシャは、声の主がこの蒼竜であることをすぐに理解した。そして、うずくまっているアリアの方を見たが、彼女はこの蒼竜の声を全く認識できていないようだった。
「貴方は……」
「――ここは、私がアリアの……君にわかりやすく言うのであれば、ビルギットの記憶を元に作り出した世界だ」
蒼竜が発した言葉の意味を、リーシャはすぐには理解できずにいた。しかし「記憶を元に」という部分で、徐々に彼女は、やはりこれが過去の出来事であることを察し始めた。
「そう。君が気づいた通り、これは過去の光景だ。既に起きてしまった、最早変えることのできない、ビルギットの根幹を成すものを、君は体感している」
リーシャは蒼竜の言葉に促されるように、再びこのグリムワルに起きてしまった災厄を眺める。このような光景が、この世界に体現してしまったという、信じられない過去を両目に焼き付ける。
「貴方は一体……何者なんですか? どうして私は、ここにいるんですか?」
リーシャの問いに対し、蒼竜は少し間を置いて答える。
「私が何者であるかは、聡い君ならば既に感付いているはずだ」
その答えで、否、正確には声色で、リーシャは理解した。
「――レフターさん、なんですか?」
リーシャが恐る恐る口にすると、蒼竜は静止していた身体を僅かに震わせて肯定の意を示す。
「レフターさんが、私に、ビルギットさんの記憶を見せているんですね?」
「そうだ。私は君に知ってもらいたかったんだ。アリアのことを」
と、そこで蒼竜が新たに強い輝きを宿し始め、直後、リーシャの視界を奪う。
――眩さの後にゆっくりとリーシャが目を開けると、蒼竜の姿はそこには無く、リーシャのよく知る両目のない黒い蜥蜴のような姿をしたレフターが、彼女の前方で、淡い光に包まれて浮遊していた。
「アリアは、その凄まじき才能により、このグリムワルの権力者に、竜の力を宿す器として選ばれた」
レフターがそう口にした瞬間、リーシャの周囲の風景が再び激変し始める。世界が明滅し、違った時間、過去を映し出していく。
気づけばリーシャは、レフターと共に、ある巨大な空間に立っていた。
そこは、独特な――グリムワルの広がるユーグリッド大陸北方特有の、色味の薄い、力強く荘厳な――意匠が至る所に散りばめられた、一目で何らかの祭儀を催す場所であることがわかる、半球状の空間であった。天蓋には、恐らくは神話を題材にしたものであろう、竜と人間が巨大な何かに立ち向かう様子が、空間全体の色味の薄さに反し、圧倒的な色彩で描かれている。
リーシャはその空間の中心に、黒地に金色の刺繍が施された――以前に見たビルギットの父親が着ていた物と同じ――衣服に身を包み帯刀する十数人の人間と、まるで槍のように鋭利な笏を持ち王冠をかぶる大柄な白髪の老人がいることに気づく。王冠の老人が数歩前に立ち、帯刀した者達がその後ろで横一列に並んでいる。よく見ると黒服の中にはビルギットの父親らしき人物も窺えた。
彼等の視線は一様に前に向けられており、その先には、幼いビルギットが、装飾の施された剣と共に、白い衣装のようなものに身を包み、恐らくは祈りのそれなのであろう――膝をついて、剣を頭上に仰ぎ、両目を瞑って静止していた。
リーシャには、ビルギットの服がまるで花嫁が着飾る時のそれのように見えた。
「――古来よりグリムワルには、【玄界】の根幹と繋がりを持つ【天と地の境を創りし竜】の神話が受け継がれていた」
レフターが語る中、瞑想するビルギットの下に、どこからともなく白い法衣のようなものに包んだ術士然とした者達が現れ始める。
「このグリムワルという地は、悠遠の昔、【玄界】における【竜の巣】の一つであり、【天と地の境を創りし竜】の子らによって、世界の流れを観測するための要となる場所だった。しかし、いつしか【異界】より溢れ出た闇によって【竜の巣】は飲み込まれ、失われてしまった」
神話の絵画が、その瞬間動いたようにリーシャには見えた。
「――その後、長い時を経て、人間が【玄界】に生まれ、闇と戦いつつも蔓延るようになり、この地にもその闇を切り開かんとする戦士達が現れた。彼等は巣から追いやられ魂のみとなった竜と契約を結び、その力を借りることで、長き戦いの末にこの地の闇を払うに至った。彼等は、その後も闇からこの地を守り続ける役目を担うことで、人間の国をこの地に作ることを竜から許された。それがグリムワル連邦帝国の祖とされるものだ」
ビルギットを囲み、術士達は何かの術式を施し始める。それにより、儀式の場である空間全体が、展開された形成陣によって蒼く照らされ始める。
「グリムワルの民は、竜の長たる【天と地の境を創りし竜】の力の残滓を竜達から分け与えられることで、厳しき土地でも豊かな生活を送ることができていた。しかし、その力も残滓にすぎない。やがては消えるものだ。グリムワル帝によって脈々と受け継がれてきた力は、アリアが生を得た代には、完全に失われる寸前であった。契約が失われる【約束の時】が間もなく訪れようとしていた」
だからアリアは選ばれたのだ。
その言葉は、リーシャにしか聞こえない。
「――しかしグリムワル帝は【約束の時】の訪れを避けることを画策した。彼は国力の粋を秘密裏に集結させ、儀式の場を整えた。その儀式とは、竜神達の眠る、【玄界】や【異界】とも違う世界――【宙界】を開くものであり、グリムワル帝は【宙界】から【天と地の境を創りし竜】の力を賜わろうとしたのだ」
『力の受け皿』という単語を思い出し、リーシャは無意識に口を開く。
「ビルギットさんは、その力の受け皿に選ばれた……」
レフターはそれに対し、無言を以て肯定する。
やがて、儀式の場を包んでいた蒼い光が、突然、暴力的なまでに生々しい真紅の光に変わる。
その場にいた全員の表情に一斉に困惑の色が浮かび上がるが、真紅の光は急速に輝きを増し、瞬く間に全てを紅く染めてしまう。
そして――
何か、目に見えないものが断ち切られてしまったかのような――歪な音が響いた。
直後、紅い光の向こうから、どす黒い濁流のようなものがこの世界に入り込み、広がり、根底から全てを塗り替え始める。儀式の場を瞬く間に包み、その外へと侵食し、グリムワルの王城を飲み込み、首都シヴァナ全域へと、一気に闇が拡散していく。リーシャはその災厄の光景を、瞬間毎に場所を変えて見せられていた。
リーシャは、この黒こそがかつてグリムワルの地を侵していた『闇』であることがすぐにわかった。
シヴァナに広がりきった闇に対する鏡のように、空の色も星一つない漆黒のそれへと変貌していく。そして、王都の中心――かつて王城があった場所に、かの黒い塔が、肉の切れるような気味の悪い音を響かせて、地の底から姿を現す。
……時間は再び入り乱れる。
リーシャは、泣き崩れるビルギットの側に戻っていた。
黒い塔の頂上から地獄を見渡せる位置に立っていた。
再び、蒼竜が、リーシャを見下ろす。
「――結論から言えば、グリムワルは【宙界】を開くことに失敗した。彼等の行った干渉により、グリムワルは、【玄界】【異界】【宙界】の三つの世界の境界が曖昧なものとなったのだ。【異界】から溢れ出た闇は一瞬でグリムワルを滅ぼすに至った」
これは人間自身が招いた行為でもある。
蒼竜――レフターの言葉に、リーシャは、自身が当事者でないというのに、辛く苦しいものを感じてしまっていた。
「だが、【宙界】の門も開いたことで、アリアは契約の機会を得た」
「……契約?」
――その瞬間、天の金色の環から音が響く。
否。実際は先程からずっと、一定の感覚を置いて金色の環から歌声のような音が響いていた。しかしそれが、リーシャの意識に合わせるかのように、彼女にとって明瞭に聞こえ始めたのだ。
――金の環から、光の柱が、地の闇へと伸びる。
漆黒のグリムワルに、無数の光の柱が立つ。歌声のような音は、それと共に大きさを増していき、この地の全てを微かに揺らす。
また何か、新たな干渉が行われていることを、リーシャは直感的に悟った。
そして、光の柱がリーシャ達のいる黒い塔にも降り――
――リーシャは、白に包まれていた。
淡く、透明な、白の何かに身体が包まれている。自分自身の境界がわからない。先程まで認識できていた自分自身がわからない。
ただ意識だけは存在している。その意識が、リーシャに、白の世界を映し出す。
――金色の光がわずかに見えた。
それは、胎児のように蹲り両目を瞑った、白い世界に浮遊しているビルギットであった。
彼女の髪は、この白い世界において金色の花のように広がっている。
――次に、蒼い光が見えた。
それは、ビルギットを温めるかのように包む、あの蒼竜であった。
「――アリアは望んだ。この間違いを――理不尽を正すことを」
「――【天と地の境を創りし竜】は望んだ。再び三界の境を結ぶことを」
「――契約はそれにより成立した」
蒼竜がその全身を淡い光に変える。それは、ビルギットの身体の全てを包み、やがて、彼女の中に浸透していく。そして光が全てビルギットの中に飲み込まれた瞬間、鼓動と共に、彼女の胸元から、それは現れた。
黒い、両目のない蜥蜴のような――リーシャのよく知るレフターが、眠るビルギットの右肩にそっと寄り添う。
「――【異界】に侵食されたグリムワルであったが、極小の【宙界】の門は確実に開かれていた。これにより、アリアは、三界の安定を求める【天と地の境を創りし竜】の意志に触れることができた。彼女は【天と地の境を創りし竜】と契約を結び、魔を以て魔を殺す、【魔殺し】の力を得る。その代償に、彼女は人間と竜の間のような存在になった」
(そんな――)
リーシャの意志が、白い世界に波紋となって伝わる。
「私という存在、レフターという装置が誕生したのはこの瞬間だ。私は、アリアが契約を果たすのを見届ける者。アリアがビルギットという名を背負ったことの証明者。そして、彼女の力の調整を担う、装置」
白い世界に、唐突にひびが入る。
「アリアは、かつてグリムワルの闇を払うために戦った最初の竜の契約者――すなわち『ビルギット』の名を冠した。それが契約の証明であり、彼女の覚悟と怒りの体現だ」
(――どうして)
リーシャの中に二つの疑問が、当然のように浮かび上がる。
一つは、何故アリアがビルギットとならなければならないのか。その運命のあまりの唐突さと理不尽さ。
そしてもう一つは――
(――どうしてレフターさんは、私に、教えてくれるんですか)
言の葉の波紋が反響し、それによって白の世界が震え、そのひびを広げる。
「――アリアと君を見て、そうしなければならないと、私が思っただけだ」
それはリーシャの想像していたものよりずっと単純で、そして、ずっとわかりにくい答えであった。
「アリアと君は、似ている」
(私と、ア――)
リーシャはそこでようやく気づいた。ビルギットを思い浮かべて『アリア』と口にすることができないことに。そして、それこそが代償の力であることも、すぐに察した。
(――ビルギットさん、と?)
その名は口にできる事実に、リーシャはビルギットの背負うものの重さを感じ取る。
「だからこそ、アリアは君を助けたいと思っている。君を助けることでアリアは、誰も救えなかったかつての自分と決別しようとしている。そしてそれは、私も望むことだ」
その瞬間、白い世界の崩落が始まった。それは、レフターとリーシャの意識の繋がりが一時的に絶たれることだと、リーシャは知らない。
「君には知ってもらいたかった。アリアが、どれだけ君を守りたいか。その感情の根幹にあるものを、君だけには知っておいてもらいたかった」
(レフターさん――)
「ビルギットは、理不尽に奪う存在を絶対に許さない。だから彼女は、君を絶対に守る。それをビルギットが望むのであれば、私はそれを叶える」
レフターもまた、白い世界の崩落に合わせるかのように消えていく。
「……間もなく目覚めだ、リーシャ。君とこうして、時間から解放された状態で話せるのも、限界が来ようとしている。目が覚めた時、君は依然厳しい状況にいるが――私は、君を守ることをアリアに誓っている。だから、どうか勇気を――」
静寂と共に、加速する崩壊。
リーシャの意識は、その渦に飲み込まれていき、やがて途絶えた。




