5
ビルギット達が黒煌宮に入ってから、丸一日が経とうとしていた。
何かに呼ばれるような感覚が徐々に強まっていくリーシャに導かれ、ビルギットはついにその場所に到達する。
「大きいな……」
ビルギットたちが足を踏み入れたその場所は、これまで黒煌宮で見てきた大部屋の中も最も広いものであった。前方も上方も左右も理術光石で照らしきれないほど広がっており、至る所に上方に伸びる大きな石柱が存在している。
「――ビルギットさん」
か細い声で名を呼んでから、リーシャがビルギットの左手を握る。
「リーシャ?」
見るとリーシャが身体を僅かに震わせて、これまでで一番悪い顔色を示している。その瞳にははっきりと恐怖の色が浮かび上がっていた。
「……います。ここがそうです。入った瞬間に、わかりました。ここだけ感じが違います」
リーシャの口にした内容は、ビルギットに緊張を走らせるのに十分であった。
「方角はわかる?」
そう聞かれ、リーシャは自分たちの前方を指差す。
「真っ直ぐです。この先に」
「……レフター」
ビルギットが今度はレフターの方を向いて問う。
「確かに前方だ。しかし、気配がかなり微弱だ」
「……わかった」
結局、レフターとリーシャの感覚はこの場においても一致することがなかった。ビルギットはその事実が気になりつつも、【魔王】かそれに匹敵する存在と戦うという圧倒的な現実に向けて、意識を集中し始める。
ビルギットは、リーシャに深呼吸をさせて落ち着かせてから、手持ちの理術光石5つを全て取り出し、最大で灯火させて進む。
やがて、前方に薄紫色のぼんやりとした光が見えてくる。それは、地面を包むようにして広がった霧状の濃密な魔素であった。これはある程度力のある真魔がいる際に見られる現象であり、ビルギットにとっては慣れたものなのだが、リーシャにとってはただひたすら不気味でしかなく、霧のように見えてもその感触は纏わりつくような薄気味悪いものであることが、彼女を再び萎縮させる。
理術光石の輝きに対し、ビルギット達の足首ぐらいまで厚みをもって広がる魔素が、時折独特な色の光をわずかに反射させる。その光景は、何も知らない人間が見れば神秘的なものを感じさせるほどに妖しく、そして美しい。
どれほどそうして魔素の中を進んだだろうか。
ふと、ビルギット達の前に、周辺より一段と高い形で盛り上がって存在する――まるで舞台のような――何かが現れる。それは、漆黒の宝石のようなものでできた巨大な土台であり、明らかに何者かの力によって作り出されたとわかるぐらいには、この空間に置いて存在感を放っていた。ビルギット達がもしその土台を上から見ることができれば、それが全く狂いの無い六角形を描いていることがわかっただろう。
――悪寒が走る。
ビルギットは咄嗟に歩みを止め、リーシャの動きを手で制す。
「離れて」
平静を保ち、ビルギットがそうリーシャに指示した瞬間、漆黒の舞台が、脈動する。
――その瞬間、リーシャの全身が急激に力を失い、本人の意志とは別に膝から崩れ落ちた。
「リーシャ!」
「――か、らだが、っ――」
弱々しい声と共にビルギットを見上げるリーシャ。その瞳の光がどこか朧気になりつつある。まるで生気が奪われてしまっているかのように。
ビルギットがリーシャを一度遠くへ運ぼうとするが、再び舞台が脈動する。それは先のものよりもはるかに大きく禍々しいもので、この空間全体に地鳴りのように響き渡り、魔素の薄紫の輝きを異様に強める。その揺れの凄まじさでビルギットは一回動きを止めざるを得なかったが、直後、無理やりリーシャを抱え、手近の石柱まで走り、彼女をそこに寄りかからせる。その頃には、リーシャもなんとか自力で立てるように最低限の意識を整え始めていた。
「ビルギット、さん……」
不安そうに見つめるリーシャに対し、ビルギットは、力強く頷く。
「行ってくる。必ず倒してくるから、ここで見ていて。私は、約束を守るよ」
ビルギットは敢えて自分がやられたときのことをリーシャに指示しなかった。それは自分が死ねばどうあってもリーシャは助からないということを察した結果であり、そして、揺るぎない覚悟でもあった。
ビルギットが漆黒の舞台の方に再び視線を移す。と――
舞台から、真紅の雷が、上空の闇に向けて迸った。
その輝きと共に、空間全体が仄かに紅く照らされる。ビルギットはそれによりようやくこの空間の広大さと、ここの造形が巨大な立方体であることを理解した。
直後、何かが這いずるような音と共に、地面に広がっていた魔素が、舞台の上に急激に集まり始める。それは中央で渦を成して、徐々に実体を形成し――
――まず、羽が広がった。
それは間違いなく、巨大な、蝙蝠のそれに近い二対の黒い羽であった。
ビルギットの視界で広がっているその羽の内側には、血管のような真紅の何かが絶えず流れているのが見える。
二対の羽の中心には、80キルト(約8メートル)程もある巨体が存在していた。蜘蛛のような四対の鋭利な脚を持つ下半身と、人間の女性に似た上半身。その頭部には真っ直ぐ天に向けて伸びる二つの紅い輝きを宿す角が生えており、口なのか何なのかわからない穴もいくつか空いている。加えて、目らしきものも窺えない。
圧倒的なまでの異形。
それが放つ気配は凄まじく濃密であり、ビルギットを一瞬粟立たせる。
リーシャは「無理だ」と思わされた。
今、初めて彼女は【真魔】を見た。そして、そのあまりの禍々しさと巨大さに、ただ絶望した。ビルギットがどんなに強い探宮者であっても、こんなのに勝てるわけがない。
これは、人間が相手していいものではない。そう思わされた。
――だがビルギットは、走り出していた。
リーシャが両目を見開いて恐怖しきっていることを知りながらも、ビルギットは気にせず、その恐怖は私には無いものだと言わんばかりに走り、長柄斧槍を強く握る。あろうことか、ビルギットはその時、その【真魔】を前にして笑みを浮かべていた。
確かに禍々しい。
確かに恐ろしい。
確かに強大で、そして、確実に力があるだろう。
だが、しかし――
「関係ない」
漆黒の舞台に駆け上がり、不敵な笑みを浮かべ長柄斧槍を【魔王】に向けるビルギット。ここまでの一瞬で彼女に何があったというのか、そこには一切の恐怖が無く、純粋な、むき出しの闘争心のみが存在していた。
――そうだ。
彼女は思い出したのだ。【魔王】だろうが、そうでなかろうが、自分には、自分の目的には「関係ない」ということに気づいたのだ。
自分がいつか倒さなければいけない存在に比べれば、どんな相手もちっぽけになる。
故にここで恐怖に負けて立ち止まるなんてことは馬鹿らしい。その思考がビルギットの闘争心を膨張させた。
「そうだ、お前が【魔王】であり、どんなに強大であっても、どうでもいい。私はいつかそれ以上の存在を倒す。そのために、お前を今倒さなければならない」
……ビルギットは、自身が発したこの言葉が、強烈な自己暗示であることに気付けていない。
この空間に【魔王】が現れた瞬間から、ビルギットは、「目の前の【真魔】が間違いなくこれまで戦ってきた中で最も強大な存在だ」ということを直感していた。そして、その圧倒的な事実を前に萎縮しないよう、探宮者としての彼女が無意識に選択したのが、この自己暗示である。
リーシャ守るために、自身の目的のために。
絶対に勝たなければならないという覚悟が、ビルギットの長柄斧槍に宿る。
「――おおぉォッ!」
咆哮と共に、ビルギットが魔王へと走る。まずは一太刀、先制を――
が。
疾走するビルギットの直下に、何の前触れもなく、一瞬で、真紅の式と幾何学模様の陣が描かれ――
――爆発。
ビルギットが脚をつけた地点で、魔術による炎が炸裂した。式と形成陣を描いてから詠唱により起動するまでの速度があまりにも一瞬すぎるため、まず間違いなく逃げられない必殺のものであった。ただしそれは、通常の探宮者に限った話である。
炸裂した爆炎を切り裂いて尚も疾走するビルギット。彼女はあの一瞬であっても動揺することなく、魔術の炸裂する場所を冷静に分析し、驚異的な体捌きでこれを回避していた。これは、真魔を殺し続け、魔術の仕組みを理解しているビルギットだからこそできる芸当であった。
魔王は、走り寄るビルギットに対し羽を広げ、直後、その巨体から想像できないほどの速度で後方へ跳躍し、ビルギットと距離を取る。
次の瞬間、中空と地面の両方に、いくつかの円の形成陣と、その周辺で蠢く式が浮かび上がり、ビルギットの視界をより真紅に染める。
(六つの術式――)
ビルギットが発動しようとする魔術の数を認識したその刹那に、魔王が歪な高音を発する。それが起動音声となって、直後、円の形成陣からビルギットに向けて巨大な黒い棘が伸びる。鋼鉄をも容易く貫くであろう四方八方から襲い来る黒い棘を、ビルギットは最小の動きで、適切に回避していく。
(形成陣と構築式の念出、起動音声の発音、それらを一瞬で、しかも並列して行えるのか)
ビルギットが冷静に分析したそれは、理術でも用いられる『術式発動の三大過程』と呼ばれるものであった。
理術と魔術は、世界に干渉するための、力そのものである言葉――真言――による『構築式』。それをある形で顕現するために門として用いる『形成陣』。それらを理力及び魔力により念出し、自身に定めた『起動音声』により発動する。
『構築式』は真言を複雑に組み合わせることでその力を増し、『形成陣』は巨大且つ緻密であればあるほど大きな干渉を現出させる。ただし強大な『構築式』と『形成陣』は、念出するためにその分理力あるいは魔力を用いる。
(この魔王は、膨大な魔力を一瞬で式と陣を念出することに割いている)
魔王が連続して成立させる魔術を、超人的な技を以て回避し迫っていくビルギットであったが、その思考の速度はむしろ身体の動き以上に俊敏で凄まじいものとなっていた。
(威力は無い。術式も読みやすい。かわせる)
遠目でビルギットの戦いを見ている内に、リーシャはようやく気づいた。
これまで迷宮内で見た、【妖魔】と相対していたときのビルギットは、まったく本気の動きをしていなかったのだということを――
ビルギットが無数の術式をかわし続け、ついにその間合いに魔王を捉える。魔王は馬上槍のように巨大で鋭い脚を以てビルギットを撃退しようとするが、それは逆にビルギットにとって好機となる。
「――せいッ!」
懐に潜り込み、脚の一つに向けて一撃を放つビルギット。
「取った」という確信が走る。が。
響いたのは、高速で金属と金属がぶつかったような、劈くような高音であった。
ビルギットの一撃は魔王の脚を斬ることができず、ただ衝突面を大きく陥没させ、脚をわずかに曲げさせることしかできなかった。
(なんだ、この硬さは!)
魔王が直上に跳び上がる。ビルギットを真下にして、上空で魔王が羽を広げる。
(――まずい)
ビルギットを立つ場所を中心に、これまでで最も大きな形成陣と式の列が描かれ始め、ビルギットを足元から紅く照らす。
ビルギットが素早くその形成陣の範囲から逃れようと走るが、その前に魔王の口から起動言語が発せられた。
――地を疾走する雷鳴。
「――っ、ガッ」
全身を内側から針で貫いたような鋭い痛みが走り、ビルギットが膝をつく。それは、ビルギット程の卓越した対魔の心得――魔術や理術の起こす現象に対し、自身の内側の霊脈を操作することでその干渉に抵抗する技術――がなければ、膝をつく程度では済まず即死するほどの強力な魔術であった。
(――こいつ、私が見てから回避できるのを知って、術の媒介を地面に変えやがった)
激痛の余韻が残る中であっても、決して動じること無く思考を続けることで、ビルギットは、魔王が自分の動きに対応して術式を変えることが可能であることを把握する。
魔王がビルギットから離れた場所に着地する。そして、再びビルギットのいる地点に巨大な形成陣を展開させる。
(奴の下半身には普通の攻撃は恐らく通らない。【魔殺し】を用いてようやくといったところか)
走る思考。ビルギットは強い意志を以て激痛の残る身体に鞭を打ち、魔王へ疾駆する。その瞬間、再び術が発動され――
その刹那、ビルギットは大きく跳躍することで、地を走る雷から逃れた。それは術の原理を先の一瞬で理解し、発動の瞬間を先読みする直感があってこその芸当だった。これでこの術もかわせる、そうビルギットが認識する。直後。
――魔王がビルギットに接近する。
その多脚により生み出される速度は、ビルギットの想像をはるか越えていた。
眼前に迫る巨体。脚の一本が振り上げられ、着地したばかりのビルギットに降ろされる。
「ッ!」
ビルギットは魔王の脚槍の軌道に長柄斧槍を沿えることで直撃を避けるが、体勢が整っていない状態での不完全な受け流しであったために、姿勢を戻すことができず、次の行動が遅れる。魔王の脚の一つが歪にねじ曲がり、ビルギットに伸びたのは正にその瞬間であった。
ビルギットは正面から襲いかかる暴威を、身体を捻ることで避けようとするが、左腕にわずかにかすらせてしまう。その凶悪な一撃は、かすっただけでもビルギットの鎧を容易く裂くものであり、同時に、彼女の頭の中で、腕の骨がわずかにいかれる音を痛々しく響かせた。
そして、先程軌道をずらすことで回避した脚が、再びビルギットを下から切り裂くように襲いかかる。ビルギットは痛みを無視し、両手で長柄斧槍を握って、後方に跳ぶような体勢でその一撃を真正面から受け止める。両腕から肩にかけて激痛が走るが、ビルギットは攻撃の勢いを利用し、そのまま後方へと大きく跳躍し、魔王と距離を取る。
明らかに不利な攻防である。
それを見つめながら、リーシャは、両の手を握り、ただ祈っていた。
自分よりも小柄な一人の探宮者が、必死に、命をかけて戦っているのに、自分は何もすることができない。その無力感に激しい憤りを感じながら、ただひたすらに、涙を流しつつ祈っていた。
「調律神よ。どうか、その大いなる神判をここに……」
そんなリーシャの祈りに気づくこと無く、ビルギットは全身から汗を噴き出しながら、魔王を見つめていた。左腕は裂傷による出血が酷く、両手の感覚も、先の防御で弱々しいものになりつつある。
(――まともにやったら、勝てない)
ビルギットはそれまでの攻防で、魔王の俊敏さと力強さ、そして魔力の強大さを十分に理解し、それに真っ向から挑んでは決して勝てないことを直感した。
(一か八か。やるしかない)
長柄斧槍を最大の間合いで振るうべく、柄尻の付近に両手を滑らせてから、ビルギットが走り出す。魔王を見据え、最短距離で、疾駆する。が――
――ビルギットの体勢が突如崩れた。
蓄積された痛みが酷使により脚部で爆ぜたのか、地に再び膝をつきかけるビルギット。魔王がその隙を見逃すわけがなく、すぐさまビルギットの足下に雷光の形成陣を展開する。
ビルギットの跳躍は間に合わず、直後、雷光が再びビルギットの身体を貫いた。
声にならない短い呻きを漏らすとともにビルギットが倒れ、リーシャが悲鳴をあげる。
魔王はすかさず新たな術式を繰りだそうと、妖艶な女の声による構築式の発声念出――すなわち、詠唱――を始める。
倒れたビルギットの直上に紅い形成陣が展開される。それは一つの巨大な陣の中に無数の細かい陣を密集させたものであり、明らかにこれまでの魔術よりも強大な規模であった。
「――ビルギットさん! 起きて! ビルギットさん!」
リーシャの必死な叫びも虚しく、魔王が起動音声を発する。
次の瞬間、漆黒の舞台の上に、音もなく巨大な紅い光の柱が立った。
目を開けられないほどの眩さを放つその現象は、高密度の魔力の塊が直接形成陣から放出されたものであり、理術であれば禁術とされる類の干渉であった。
物理的な音を生じさせない純粋な魔力による破壊の余波に、リーシャは吹き飛ばされ、地面を何度も転げまわる。
視覚と聴覚の容赦無い齟齬がリーシャの感覚をしばらく混乱させる。
やがて輝きが収まり、戦いの舞台に真紅の残滓がまるで紅い雪の如く煌めき始めた。
リーシャは霞んだ視界でそれを見て、絶望し――
蒼い炎の揺らめきに気づいた。
「――え?」
視界が徐々に元に戻るに連れて、リーシャは舞台の上の激変に気づいていく。
「っ、びっ、ビルギットさん!」
そこには、長柄斧槍を振りぬいた姿勢のまま、魔王を見つめるビルギットと。
ビルギットから、魔王へ、その先の空間へ、果てまで伸び続ける蒼い炎の線が伸び。
この蒼炎に貫かれ、身体が両断されたまま立ち尽くす魔王がいた。
リーシャの叫びが、闇に吸い込まれていく。
いつの間にか、空間を包んでいた紅い光が失われていた。
やがて、ビルギットがその両手から長柄斧槍を落とし、直後、前に力なく倒れる。
それと同時に、魔王の全身が蒼炎に一瞬で包まれて、瞬く間に散華する。
――静寂。
リーシャは、覚束ない足取りで立ち上がり、よろめきながら、途中一度転び、それでも起き上がり、ビルギットの元へと走り、舞台を駆け上る。
「ビルギットさ――」
そしてリーシャは息を飲んだ。
遠目では気付かなかったが、倒れているビルギットの近くに来て、ようやく彼女はその現象に気づくことができた。
「なに、これ……」
大怪我をしていたビルギットの左腕が、黒い鱗で包まれていた。まるで最初からそうであったかのように、彼女の左腕はそう――
竜の腕となっていた。
困惑のあまり思わず立ち止まってしまったリーシャであったが、ビルギットの呻き声で我に返り、倒れている彼女の元へ駆け寄る。
「ビルギットさん! 左腕が、怪我が、魔王は……」
聞きたいことが多すぎてつい一気に口にしてしまうリーシャ。ビルギットはうつ伏せで倒れていたが、寝返って、仰向けになり、荒い息を落ち着かせる。
そして自分の左腕を見る。
「ああ……結構、傷深かったからなぁ……」
竜の腕と化した左腕を見ても、当然というような態度を見せるビルギット。
彼女は倒れたまま魔王のいた方を見て、完全に魔王が散華しきったことを確認し、ふぅと息を吐く。
「なんとか、倒せた……」
と、リーシャがそこで我慢できなくなりビルギットにわっと泣きつく。ビルギットに発生している不可思議な現象よりも、ビルギットが生きていることの安堵が、リーシャにそうさせた。
「――私、ビルギットさんが、死んじゃうと思って」
顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、嗚咽を交えながら、自身の感じた絶望を口にするリーシャ。
ビルギットは、右手で彼女の頭を撫でる。
「……約束……守るって、言ったでしょ? まぁでも……実際、死ぬかと思ったわ。あの真魔が、こっちの誘いに乗って魔術を使ってくれたから【魔殺し】ができた」
「……【魔殺し】?」
「取って置きだよ。私だけのね」
ビルギットはゆっくりと上体を起き上がらせ、自身の左腕を見る。
リーシャは、改めてその左腕を見て、何が起きているのかわからず恐怖してしまったが、直後、鱗がビルギットの腕の中に吸収されるようにして消える。
「えっ――」
思わず声をあげるリーシャに、ビルギットが苦笑する。
「……こんなときに話すのもどうかって思うんだけど、聞いてくれる?」
ビルギットのその言葉に対し、リーシャはほとんど無意識に頷いていた。
「リーシャも以前に聞いたと思うけど、私はグリムワルの出身なの」
グリムワルという言葉を聞いて、リーシャの心臓が跳ねる。
「……はい」
「そして、大迷宮が発生した時、私はその中心にいた」
ビルギットの目は、ここではない遠くを見ていた。
「……私はあの日から、普通の人間じゃ無くなったのよ」
「それって――」
「――――そう。君は、人間ではない」
――その声は、あまりにも唐突にその場に響いた。
ビルギットは咄嗟に長柄斧槍を握り――
直後、リーシャの身体から放たれた緑色の光に、ビルギットは弾き飛ばされる。
一体、何が――
状況の急転についていけず言葉を失ったリーシャは、次の瞬間、自分の腰の道具入れにしまっておいた深緑の理術光石――シヴルカーナ皇女からあの夜授けられたもの――が激しく輝いていることに気づく。
やがてその光石から放たれる輝きが、一本の光の線へと集約され、直後凄まじい速度でその線が中空に形成陣を描く。
リーシャがそれを呆然と見る中、形成陣が描かれた中空に突如ひびが走り――
奇妙な高音――空間が術式によって裂かれる音――と共に、一人の男が現れた。
リーシャには、何故その人物がここにいるのか、どうやって現れたのか、まるでわからなかった。
「【金獅子】の力、確かに見させてもらった。期待通りの働きだ」
男は――
マンティコール皇国宮廷理術師タンジムは。
倒れながらも自身を睨むビルギットに、乾いた拍手を送った。




