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ユーグリッド大陸において最大の国家であるマンティコール皇国と、その隣国であり海洋貿易において強い影響力を持つララトリアの境界には、両国の関係性の良好さが窺えるような、広大で、見張り台一つ無い平野が広がっている。その平野に、突如迷宮が発生したのはもう数十年以上前のことだ。
この迷宮を囲むように形成され、今日までその規模を少しずつ大きくしてきたターバル迷宮街は、その日、奇妙な緊張のようなものを宿していた。嵐の前の静けさとでも言うべきだろうか、どことなく、街の人々が落ち着かない様子でいるように見えるのだ。
彼等には皆、共通の関心があった。それは、「あの『依頼』は果たしてどうなったのか」というものである。迷宮街で言う『依頼』とは即ち、『探宮者』の行う仕事全般を指す言葉である。探宮者は『依頼』を背負って迷宮に入り、その成功報酬を食い扶持とするのが基本であり、何の依頼も無く迷宮に潜る人間は、武芸者か、自殺願望者か、あるいは犯罪者か、とにかくまともな人間としての勘定に含まれないのが常であった。
ターバル迷宮街は、数年前から、巨額の報酬と共に「期間無制限・受諾者無制限」と明記された、暗に達成不可であることを匂わせるある依頼が存在していた。依頼者の名義は、ターバル迷宮街の実質的な支配者である商会長と、その直下の幹部3人、加えて、マンティコール迷宮公社の連印だというのだから、分別を持つ探宮者であれば、こんな依頼はきな臭くて近寄れたものではない。この依頼を貼り出しているターバル一の紹介酒場『たてがみ亭』も、こんな重苦しい依頼の委託を請け負ってしまったせいで、街の活気が薄れたことを感じ取っていた。当然である。街の長と、迷宮公社が、互いの損得を無視し名を連ねてまで殺してほしいと依頼する化け物がいる迷宮に、誰が気安く入りたがるものか。
しかし、依頼が貼りだされた当初は、野心を秘める若い探宮者や、腕に自信のある探宮者が、この依頼を背負い、同様に巨額の報酬に魅了された『見届け人』を連れ、ターバル迷宮の深層へと下りて行くことがあった。ただそれも、彼等が一様に帰らぬ人となるにつれ、滅多に見られない光景になった。ターバル迷宮はこうして、魔素と瘴気が薄く安全が確保しやすい低層のみが機能する迷宮となってしまい、街は迷宮を鎖すかどうかの判断を必要とされる時期にまで来てしまっていた。
だが、事は三日前に起きた。街に新たにやってきたばかりの探宮者が、街の紹介屋ではなく外の探宮者組合に所属する紹介屋が認めた紹介状を持って、例の依頼を受けようとしたのだ。
もちろん、依頼を受けただけでこうも騒ぎにはならない。無謀な馬鹿が今日までで完全に消えたわけではないため、「また自殺志願者か勘違い野郎が来たのだ」程度に、紹介酒場の常連は捉えただろう。そして「まただめだった」を肴に酒を飲むのだと思ったかもしれない。その依頼を受けたのが、一見可愛らしい少女のような見た目でなければ。
ターバル迷宮街はこの日から、例の女探宮者、ビルギットの話題で完全に持ちきりになる。そして、ビルギットがターバルに現れてから三日が経ち、間もなく、彼女が提示した依頼の達成期限が近づこうとしていた。
今夜の『たてがみ亭』は数年前の活気を取り戻したかのような――いや、下手をするとそれ以上の騒ぎだった。こんなことならばもっと派手に酒を仕入れておけばよかったと店主が後悔するぐらいには、店内の酒気は凄まじいことになっている。
こうなってしまったのは、店主が達成期限を言い広めるような真似をしたからではない。むしろ彼は、紹介酒場の経営者として守秘義務を全うしていた。しかし、眼と耳と口というのは案外どこにでもあるもので、その時店でたむろしていた常連客を中心に、「もしかしたら」と期待する連中が街中に広めてしまったことで、野次馬と変わらない連中が一斉に集まってしまったのだ。
だが、原因はこれだけではなかった。もう一つに、今朝方『たてがみ亭』に現れた、ある客の存在がある。
「――おい、おぉい! 店主よ、大変だ。もう俺の分の酒がねぇ! さっきまでここにあったのにどっかにいっちまった! こいつはどういうことだ? 旅の神が俺に酒を止めろと仰せか? 勘弁してくれ。俺はこの前に調律神に『早死していいから酒に困らないようにしてくれ』と祈ったばかりだ! 俺を巡って神が争っちまっているじゃないか。店主! あんたが何とかしてくれないと、この店が創世記まで遡っちまうぞ!」
両側に遊女を侍らせながら、わざとらしい口調と身振りを交えて、周囲の客を笑わせつつ酒を要求するその男こそが、今朝方『たてがみ亭』に現れ、騒ぎをさらに増長させた人物であった。男は、長い白髪と髭が目立つが、そこらの男性より一回り身体つきが大きく、岩のような筋肉を保持していた。そして、飲んで食う量も見た目通りの凄まじさだった。
彼が実は探宮者ビルギットの紹介状を認めた『探宮者組合』の紹介屋・ガフであることは、いつの間にか店内ですっかり広まっている事実であった。紹介屋よりも探宮者である方が得心のいく身体つきの彼は、ターバルに着くや否や、ビルギットの噂で持ちきりの『たてがみ亭』に乗り込み、すでに集まっていた野次馬達と酒宴を始めてしまったのだ。どこにそんな金があるのか、一人につき麦酒一杯を奢るというガフの気前の良さが、店主の頭を抱えさるほどの騒ぎを巻き起こしたわけだが、最早酔っぱらいしかいない店で、そんな一連の流れに気づくことのできる人間はいない。
「紹介屋! あんた本気で張るつもりかい? もう街中の好きものが集まっちまった。これじゃあ大変なことになるぜ!」
ガフを囲む卓に、外から酒を持ち込んできた男達が座り込む。揃いも揃ってむせ返るような酒臭さであった。
「賭けはでかい方が良いっていうのは、大地の子らが受けた尊き教えだろ」
ガフはそう言ってから、卓にやってきた男達が持ってきた酒を、さも自分の酒のように手に取り、一気に飲み干す。こんな真似も、酒宴の中心であるガフならば許される。
そう、彼は今『たてがみ亭』の中心であった。というのも、彼は単に酒宴に混ざりこんだのではなく、ある賭け事を野次馬達に酒と共に大々的に持ちかけていたのだ。
即ち、ビルギットが依頼を成功させるか否か。
ガフのよく回る舌は、この博打を一瞬で街中の金が激動する大勝負に仕立ててしまった。
「手前の主神はえらく博打に寛容でいやがる」
「ここは海が近いからおかみの目も届きにくいのさ。海ではそう言えば全部勝負のネタにできる。まぁ俺は紛うことなき山の出身だがね」
「知ってるよ。だってあんたの腕、山鬼とそっくりだもんなぁ」
ガフ達が冗談を言い合って今日何十回目かの大笑いが起きた。その瞬間――
『たてがみ亭』の入り口が、勢いよく開かれる。
そして、鎧に身を包んだ男が、足をもつれさせながら店内に侵入した。
「――お、お、俺は! 生きて、帰ってきたぞ! 俺はやった!」
両腕を高らかにあげ、叫ぶ男は、ビルギットの依頼の見届け人であった。その男がこうして生きて戻ってきて歓喜の声をあげているということは――
「――あんたがやったんじゃなくて私がやったんでしょ」
店内の空気が爆ぜる直前に、見届け人の男の後に続く形で、ビルギットが現れる。
その瞬間、『たてがみ亭』を中心に街全体に響くほどの歓声が上がった。野次馬達が見届け人の男と、ビルギットに殺到し始める。
「ちょっ――何でこんな人がいるわけ?」
ぎゃあぎゃあと酒を片手に称賛の声をかける男達を無視し、ビルギットは人混みの隙間から店内を窺い、事態を作り出した張本人であるガフを見つけ、その腕力をもって人混みをかき分けながら突き進んでいく。野次馬達は仕方なく見届け人の男を胴上げすることにした。
「ガフ! またあんた、私をだしにしたでしょ」
ビルギットは、ガフの卓に金や宝石が積まれている様を見て、自分が賭けのネタに使われたことを既に察していた。
「おお、俺の女神! お前はいつだって富と酒を俺に齎してくれる! 最高だ! 感謝、感謝」
わざとらしく東方の言語を用いてくるガフにビルギットが露骨に苛ついてみせる。
「うっさいわよ、酒乱。私はあんたの女神じゃない」
ガフの対面に荒々しくビルギットが座り込む。彼女はまだ迷宮から帰ってきたばかりの格好であったが、誰もそれを煙たがるようなことはしない。それどころか、その生々しさが彼等に目の前の小柄な女性が、長年ターバルを苦しめていた真魔を討伐したという実感を与える。
「おい店主! 契約書と飯と酒を取っておいた奥のテーブルに持ってきてくれ! 英雄様の凱旋だぞ、待たせるなよ!」
ガフはそう注文してから、卓上の金の大半を腰につけていた大きめの革袋に入れて、飲みかけの杯を片手に持ち立ち上がる。
「さぁさ、皆悪いな。俺はこれからまたしがない紹介屋に戻らなきゃならねぇ。だが折角の夜だ。俺は今日ここにある分で店の酒を買い占めるとしよう! 皆で楽しく飲んで、明日から頑張ってくれ!」
よく響く低い声で店内を沸かせた後、ガフは卓の残りの金を飲食代として、給仕の女に回収させた。そして、いつの間に人払いをさせたのか、店の奥の誰も座っていない小さなテーブルへと進んでいく。ビルギットもその後に続き、再び向かい合うように腰掛ける。
「――で、迷宮公社には行ったのか?」
ガフがさっきまでの陽気さを鎮めた口調でビルギットに問う。
「いいえ。商会の方に顔を出したわ。報酬の受け取りはそっちでって話だから」
そう言ってビルギットは、大陸で最大の価値と信頼を誇るグリフス金貨で満ちた革袋を卓に置く。掌ほどの小袋であるが、これだけで立派な家の一つや二つは新しく建てられるほどの額である。
「ほぉ、全部金貨でくれるとは、予想以上に気前いいな」
「とりあえず、それがあんたの取り分だけど、問題ない?」
「ああ十分だ。奴さん、てっきり物で誤魔化してくるかと思ったんだが……こいつは嬉しい誤算だな。今日の稼ぎも含めりゃかなり遊べるぜ」
「ま、それだけ必死だったんでしょ。この街も公社も」
ビルギットがそう言った所で、店主と給仕の女が料理と酒を大量に持ってきた。その強烈な香りを前にして、ビルギットは自身の空腹をようやく認識する。塩漬けされた肉を葡萄酒と香草を加えて焼き上げたマンティコールの名物料理『クシュトー』と、燻製した魚に香味油と甘い果実を添えて甘酸っぱく仕立てたララトリアの漁師が好む料理『ペルセ』が並ぶのは、境界の街であるターバルならではの光景だった。
ビルギットとガフは盃になみなみと注がれた麦酒を手に取り、同じ高さに持ち上げる。
「――今宵の栄光を、旅の神に!」
探宮者達の間の決まり文句を交わしてから、二人は一気に酒を飲み干した。ビルギットはその後すぐに料理に手をつけ始める。
「店主、すまねぇがこれじゃあこの可愛い英雄様には足りねえんだ。もっと美味いものをいっぱい持ってきてくれ」
「お酒もね」
熱々の固いパンに、肉料理を彩る濃厚なソースを絡めて頬張るビルギット。口の中いっぱいに肉汁の旨味が溢れて、少しだけ彼女の表情が緩む。ビルギットのその豪快な食べっぷりを見て、店主も素直にガフの言うことに従わざるを得ないことを悟る。だが彼は、厨房に戻るその前に、ガフに頼まれていた契約書を丁重な手つきで差し出した。
「おお、悪いな。へへ、良い紙使ってやがる」
ガフは両手の油を服で拭いてから、契約の理術式がびっしりと書かれた契約書を受け取る。これで店主の用事は一先ず終わったはずであったが、給仕の女達だけを戻させるのみで、彼は卓から離れようとしなかった。それに気づき、ビルギットが不思議そうに見つめる。
「……まずは、感謝を。ビルギットさん。あんたは街の英雄だ。それを直接言いたかった」
店主は、深々と、静かに頭を下げた。それを見てビルギットは慌てて店主の方に身体を向ける。
「ちょっ、やめてよ。頭を上げて。そこまで感謝される謂われはないって」
「誰にもできなかったことだ。俺は、長くこの街にいる人間として、当然の感謝……いや、まだ全然不足していると思っているぐらいだ」
「私じゃなくたって、腕の良い連中は他にいるわ。たまたま私が早く目をつけただけの話よ」
「俺はそうは思わない。だってあんた、あの『金獅子』だろう?」
その二つ名を呼ばれ、ビルギットはやや顔を顰める。
「【真魔】殺しを専門に請け負う女探宮者の噂、本当だったんだな。『金獅子』がこの街に来てくれてよかった。あんたじゃなきゃきっと駄目だったんだよ、あの化け物は」
「わかった。わかったわよ。もういいからその名で呼ばないで。それよりお酒!」
ビルギットが勘弁してくれと言わんばかりに手を振るので、店主は再び深々と頭を下げて、店の奥に戻っていった。
「相変わらず、その呼び名は嫌いか」
くっくっと笑みを漏らしながらガフが言う。
「名が知れるようになるのは、仕事の上ではありがたいけど、あの呼び名だけは本当に勘弁して欲しいわ」
「こっちでは良い意味に使われているし、連中も悪気はないんだから、まぁ大目に見てやれよ」
「わかってるわよ、そんなこと」
そう言いながら、ビルギットは既に卓の上の食事をほとんど片付けつつあった。
「で、実際の所どうだったんだ、今回の奴は。20人は殺しているはずだぜ」
その問いは、当然、ビルギットが討伐した真魔についてであった。問いを受けたビルギットは食べる手をぴたりと止め、少し何かを思い返すように卓の中央を見つめ、やがて口を開く。
「……手強かったわよ。向こうが早めに魔術を使ってくれたからほとんど無傷で方を付けられたけど、武器みたいなものを出してきたし、あれで斬り合いが長く続いていたら、派手に怪我していたかもね」
「だがそれでも負けはしない、と」
「当然よ」
断言したビルギットの両目には、一瞬だけ、冷たい鋭さが宿っていた。
「レフターの旦那も同じ意見かい?」
ガフがそう問うと、ビルギットの右肩に、いつの間にかレフターが現れていた。
「――そうだな。今回の真魔は中の上といったところだろうが、あれぐらいであれば、もうビルギットが負ける要因はほぼ無いだろう」
そのレフターの言葉は、ガフにも確かに聞こえていた。レフターが聞こえるようにしたのだ。
「はぁ、大したものだぜ。冗談抜きで、もうお前さんは、大陸一の真魔殺しかもなぁ」
「馬鹿言わないでよ。組合お抱えの【鎖宮】がいるでしょうに。あいつらに比べたら、私一人の力なんて程度が知れるわ」
「そこで連中を比較に出せるだけで、俺は十分恐ろしいと思うがね」
「褒めたって、つまみは分けないわよ。あんた、さっきまで散々食べてたでしょ」
そうビルギットが言った直後、新しい料理と酒がやってきた。店主が気を利かせたのか、運ばれてきた葡萄酒は本場であるギリアン産のものであり、輸送の手間を考えれば貴族だって滅多に飲めるかどうかわからない豪勢な代物であった。これには流石のビルギットも、自分が依頼を引き受けて良かったと思わせる魅力があった。
ビルギットとガフは二度目の乾杯をその葡萄酒で交わす。口に含んだ瞬間の喉越しの良さと上品で深みのある味わいに「へぇ」とビルギットも感嘆の声をあげた。
「そんなお前さんだからかもしれねぇな」
ガフが口を開く。
「何が?」
ビルギットが問うと、ガフの表情が急激にこれまでにない真剣味を帯びる。
「実は、組合からある物を預かっている。お前が依頼を達成したら渡すように言われているんだが……これがまた珍妙なものでな」
「『依頼を達成したら』って……どういうこと? 回りくどい言い方しないでよ」
ビルギットにそう言われると、ガフは無言で自分の商売道具を入れている鞄に手を入れ、そこからビルギットに一通の封書を取り出して渡す。
「これは?」
「封蝋を見てみろ」
言われるままに封蝋を見て、ビルギットの中にあった僅かな酒気が一瞬で醒めた。
王冠の下に鎮座する、四つの翼を持つ雄獅子。金色の封蝋に刻印されたそれは、国を跨ぐ探宮者であれば、知らないはずがなかった。
「――マンティコール皇家」
現在のユーグリッド大陸において最大の影響力を誇る大国、マンティコール。その支配者である皇家を象徴する印が確かにそこにあった。
「これは本物なのか」と問うようにビルギットが視線をガフに向けると、ガフは頷いてから口を開く。
「別に隠していたわけじゃあないんだが……まぁ、ここでの依頼には不要な情報だから今まで黙っていた。そこの所は勘弁してくれ。で、だ。ビルギットよ。今回の依頼を持ちかけた時のことを覚えているか?」
「組合のアンカール支部で、あんたが話を取り付けて、私に斡旋してくれたのよね」
それはつまり、ターバル迷宮街に達成困難な依頼があることを、探宮者組合がガフに伝え、ガフがビルギットをターバルに紹介したという一連の流れの確認であった。
「実はな、本当の経緯は少しばかり違うんだ。複雑な話でわかり難いからよーく聞いてくれ。探宮者組合は、この封書の送り主の要求に従って、お前さんをターバルに行かせようとしたんだ。そのためにお前さんと伝がある俺に話が回ってきた」
ガフの言い回しは、確かに複雑で、ビルギットをやや混乱させる。
「えっと、つまり……ガフがターバルの話を組合で聞かされて、私に依頼を受けさせたのではなく……私に依頼を受けさせようとして、ガフに話が回ってきたってこと?」
「まぁそういうことだ」
「何のために?」
ガフが肩をすくめる。
「さっぱりわからん。ただ、確実に言えることは――その封書は、明確に、探宮者ビルギット宛であるってことと、そいつを渡すことのできる人材として、俺がたまたま選ばれたってことだろうな」
「じゃあ、『依頼を達成したら』っていうのは、どういう意味なの?」
「ん。あくまでこいつは予想だが……向こうは、お前さんの実力を試そうとしたんじゃないかね。ここターバルの問題を解決できる人材ならば、封書を受け取る資格がある、と」
ガフの言葉を頭の中で整理していくにつれ、ビルギットは薄気味悪いものを感じた。
「……この封書、追跡の術式が埋め込まれていると思う?」
「そりゃあ、絶対あるだろ。だから俺だって開けないでいたんだからよ。台無しにして後で責任追求されるなんてのは勘弁だ」
封書の怪しさがどこにあるか、その具体的な部分を把握しつつあるビルギットであったが、彼女にはまだ大きな疑問が一つあった。
「まぁ、この封書が私宛で、ターバルの依頼はそのついでみたいな感じなのもわかったわ。気にくわないけどね。ただ、まだ納得いかないことがあるわ」
「というと?」
「仮に――私にこの封書が渡ることが重要だっていうのなら、何故、探宮者組合の伝で通したわけ? 皇家が連絡に使うなら、どう考えても迷宮公社の方が手っ取り早いじゃない。ターバルの依頼は、正にそのマンティコールの迷宮公社が絡んでいる案件だったのよ?」
探宮者組合とは、迷宮を求めて国境を跨ぐ探宮者同士が、共通の利害のために結びつき、いつしか強大な組織となったものである。組合は、ユーグリッド大陸の【国家連盟】と連携することで、大陸各地に支部を作り、その超国家性を成立させ、今日まで探宮者と迷宮を結びつける役や、最終的な迷宮の処理を担ってきた。ガフの生業である『紹介屋』とは、迷宮で発生している依頼を、組合内外の探宮者に広く紹介しその仲介料を得るものであり、この探宮者組合の基板となる仕事である。
一方で迷宮公社とは、国内の迷宮を管理するために発足された国営の組織であり、大陸のほとんどの国家が、組織体系に若干の違いはあれど、同様の役割を担う組織を有している。マンティコール迷宮公社は、他国の迷宮公社に対しても非常に影響力が強いことで有名であった。
ビルギットの「封書は何故公社の方ではなく組合の方の伝で自分に辿り着いたのか」という疑問は、二つの組織の性質の違いを理解しているが故に生じたものであった。マンティコール皇家が自分に封書を渡すのに、何故直接の繋がりがある迷宮公社ではなく、探宮者組合の方を利用したのか。彼女はそこに、無駄を感じてならなかったのだ。
ガフはビルギットの考えを察したのか、両手を上げて、同様の疑問を抱えていることを態度で示してみせる。
「そこに関しては、俺にも、予想もできん程にわからん。で、実際の所、お前さんの方にこの封書が来る心当たりはあるのか?」
「全くないわ。私の王族嫌いは、あんたも知ってるでしょ?」
「だよなぁ」
やれやれとため息をつきながら、ガフは葡萄酒を呷る。
「ま、この件に関してはお前さん個人の問題だ。渡した俺にはもう関係ねぇ。封書は煮るなり焼くなり好きにしてくれや」
ガフが暗に「関わりたくない」と考えていることはビルギットにもよくわかった。そして、それは当然だと理解していた。流れ者の身分が強大すぎる権力に関われば、どのような無茶を要求されるか、二人共よく知っているのだ。
しかしそれでも――
ビルギットは、封書を端から拒むつもりはなかった。
「……怪しい匂いはぷんぷんするけど、上手く行けば私の目的に利用できるかもしれないわね」
不敵な笑みを浮かべるビルギット。
それを見て、ガフはくっと笑みを漏らす。
「なんだよ、王族嫌いはどこいった?」
「それはそれ。利用するかどうかとは別でしょ?」
ビルギットはそう言うと葡萄酒を呷り、それに更に新しく注いで、その分も一気に飲み干して、立ち上がった。卓の上の料理は、綺麗に全て平らげられている。
「おい、もう戻るのか」
「食べたらちょっと疲れが出たのよ。よく考えたら、迷宮出てそのまま来たわけだしね。お風呂にも入りたいし」
「折角のただ酒なんだがな」
「またあんたがいい話持ってきたら、そこで飲みましょ」
ビルギットはそう言って、封書を懐にしまい、手を振ってガフと別れる。その後、野次馬を避けるために、ビルギットは店主に頼んで店の裏口から外に出させてもらった。
夜風が、酔いを覚ますかの如くビルギットを撫でる。
ターバルの街は、『たてがみ亭』での宴は、まだまだ終わりそうにない。
喜びに溢れた喧騒を耳にしつつ、ビルギットは宿へと足早に向かった。