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(……あれ?)
リーシャにはこれがすぐに夢だとわかった。何故なら彼女は身体に纏わりつくようなこの感覚を今日まで何度も味わってきて、最早慣れてしまったからだ。
ただ、その夢はいつも見る薄暗くて恐ろしい夢とは違った。
(外だ……)
――リーシャは、澄みきった青空の下、風によって波を描く広大な草原にいた。
遠く向こうには、巨大な山々が、竜の背を思わせるかのように連なって立っている。
リーシャはここがマンティコールではない異国の地であることを直感する。
(ここは何処だろう)
雪がまだ多く残る険しい山々と、空の抜けるような青の対比の美しさに見とれていたリーシャであったが、突如目を覆いたくなるような突風が山の方から吹いてきた。リーシャは思わずそれに背を向ける。
そして――
(わぁっ)
リーシャは、自分が小高い丘の上に立っていたことと、そこから見下ろせる形で巨大な城塞都市が広がっていることを、驚きと共に認識した。そこはグリフスの街並みとは明らかに違い、どこか古風で、そして都市を囲む城壁の武装の具合などに堅牢さと武骨さを印象づける作りがあった。
リーシャはこんな巨大な城塞都市を見たことがなかった。
(どこかの王都かな)
リーシャがそう思考した瞬間――
「――ここは、グリムワル連邦帝国の首都であり、その最大の王都、シヴァナだ」
聞き覚えのある声が、空から、あるいは地面から、あるいは風から、空間から、何処からともなく響いてくる。リーシャはどういうわけか、その声に驚くことも恐れることもなく、その声が聞こえることが当然だと認識していた。何故受け入れることができているのか、それはリーシャ自身、まるで理解できていない現象であった。
(グリムワル……)
聞き覚えのある言葉だったために無意識に繰り返すリーシャ。
直後、それが以前聞いたビルギットの故郷の名であることを思い出す。
「――そう、ここはアリアの故郷であり、そして、全てが始まった地」
(『アリア』?)
山からの強い風が、再びリーシャの視界を奪う。
――再び目を開くと、そこは、都市を見下ろす草原とは全く違う風景になっていた。
(……どこかのお屋敷?)
マンティコールとは違う、建物全体の色味が薄く、柱や扉に質実で力強い意匠が窺える大きな屋敷を囲む庭らしき場所にリーシャは立っていた。見回すと、庭に立つ大きな木の下に誰かがいる。
(あっ)
金色の髪に、綺麗な蒼い瞳をした、小柄で可愛らしい7、8歳程の少女。
リーシャは、その少女の面影から彼女が幼い頃のビルギットであることが、すぐにわかった。
ビルギットは、白を基調とした動きやすそうな服装に身を包み、小さな槍のようなものを構えて、じっと木陰で中空を見つめている。やがて、すぅと息を吸うと共に――
「せやぁーッ!」
年端もいかぬ少女が放ったものとは思えない雄叫びと共に、鋭い突きが繰り出され、続けざま、上段、下段、中段と連続して突きが放たれる。空を切る音と共に繰り出される一撃一撃は、万人に少女の武の才能を直感させるほどの美しさと力強さがあった。
一切の呼吸を挟まずにビルギットの突きが続いていく。やがて、一際大きく踏み込むと共に、それまでで最も強烈な突きを見えない相手に放つ。そして突きを放った姿勢のまま静止し、間を置いて、ゆっくりと構えを最初の形に戻す。
リーシャは19歳のビルギットの動きを知っている。その人間離れした身体能力と、そこから繰り出される疾風迅雷を体現した技を間近で見ている。当然、この幼いビルギットの動きはそれには遠く及ばないものであった。だが既に、見た目の幼さからは想像できない、武器を振るうことの躊躇いの無さをリーシャは感じ取っていた。
「――ねえさま、すごい!」
その無邪気な声はリーシャの背後から響いた。
振り向くと、そこには金髪で蒼い瞳の、ビルギットよりも更に幼い少年が、拍手をしながら立っていた。少年は、ビルギットと見た目は非常に似ているが、彼女より温和で争い事と結びつけがたい雰囲気を宿していた。
(ビルギットさんの、弟さんかな……)
少年がビルギットの方に駆け寄ってきたので、ビルギットは構えを解いて槍を地面に置き、少年を迎える。
「クレイグ、見てたの?」
クレイグと呼ばれた少年が、頷く。
「ねえさまの修行、かっこいいから、見たかった!」
瞳を輝かせるクレイグを見て、笑顔を返すビルギット。
「ありがとう、クレイグ。でも、お父様に怒られちゃうから、はやく戻りな」
クレイグの頭を撫でて優しく言うと、彼は「えー」と不満を露わにする。
「ぼくもねえさまと一緒に修行したい!」
「だーめ。クレイグは男の子なんだから、お父様と一緒に鍛錬場に行きなさい」
「お父様とはやだ。ねえさまとがいい」
「こらこら」
ビルギットがクレイグの頭をさっきよりも強く撫でると、クレイグはくすぐったくなったのかきゃっきゃと声を上げて笑う。その様子を見てリーシャも暖かな気持ちになる。
「――クレイグ、ここにいたのか」
そう言って、庭に一人の黒髪の男が姿を現す。するとビルギット達が途端に姿勢を改めて男に向き直る。
男は、長身で、左目の近くに縦に斬られた傷跡があり、黒地に金の刺繍が映える位の高さをさり気なく強調した衣服に身を包んでいた。腰には、柄尻に装飾が施された剣を帯びている。年齢は壮年といったところであり、その背筋の良さや、衣服の上からでもわかる屈強な身体つき、身に纏う静かな力強さ――それは探宮者ビルギットが纏うそれと似たもの――から、名のある武人であることがリーシャにもすぐわかった。
「アリアの邪魔をするなと言っているだろう」
「……ごめんなさい、お父様」
クレイグが俯いて小さな声で謝罪する。今にも泣きそうな表情だ。
「お父様、私は今ちょうど休憩していた所だから、クレイグは邪魔なんてしてないわ」
そう言うと、ビルギットの父は少し厳しい目をビルギットに向ける。
「アリア、お前は弟に甘すぎる」
ビルギットがアリアと呼ばれていることで、少しリーシャは混乱していた。
(……ビルギットさんの本名? それとも、この子は別人?)
でも、さっき私が聞いた声は――
リーシャがそう思考を巡らせている内に、クレイグが父親に手を引かれ、庭から去ろうとしていた。その時、父親が一度立ち止まり――
「アリア。お前の才能は、間違いなく【天と地の境を創りし竜】の寵愛を受けるべきものだ。弟のことなど気にせず、鍛錬に励め。お前はグリューネヴァルト家のみならず、この国の至宝たりうるということを忘れるな」
父のその言葉を受けて、アリアと呼ばれた少女は無言で頷く。父はそのアリアの態度を見てから、再び歩き始める。
アリアの表情は、少女が宿すにはどこか鎮痛で、そして静かな覚悟が秘められた、複雑なものであった。
「帰ったら組手をするぞ。それまでに整えておけ」
「はい」
と、その時手を引かれていたクレイグがアリアの方を振り向く。アリアがその瞬間、弟に向けてにっこりと微笑んだ。それを見たクレイグの表情に明るさが戻る。
二人を見送ってからアリアは再び槍を手に取る。その瞳に、強い意志の光が宿る。その輝きにリーシャは、自分のよく知るビルギットの瞳の光を見出し、やはりこのアリアという少女は、自分の知るビルギットの幼い姿なのだということを確信する。
その時であった。
またあの風が吹いて、力強くリーシャの身体を撫で、その両目を瞑らされる。
「――アリアは幼少の頃から特別な存在であった」
「――彼女は、グリムワルの地に根付く退魔の一族に生まれ、そして」
「その歴史の中で最も優れた才能を持つ者として畏れられた――」
――彼女は謳われた。
太古にグリムワルの地に降臨した【天と地の境を創りし竜】の力を受ける者だと。
【約束の時】を前にした彼の地を救う、救国主たりえる存在だと。
それほどまでに、彼女の内に眠る力の受け皿は、圧倒的で、強大だったのだ。
(力の、受け皿……?)
故に王達は、理術師達は、騎士達は、望んだのだ。
死にゆく【天と地の境を創りし竜】より生まれ、その屍肉を喰むことで、竜の力を得て、闇を斬り裂き、この世に新たな夜明けを齎すとされた、不滅にして、永久に清浄なる存在――
【金獅子】の誕生を。
(【金獅子】……)
(どこかで……)
(私はどこかで、その言葉を――)
――次の瞬間、リーシャはまたグリムワルを見下ろせるあの小高い丘の上にいた。
だが、そこに広がる景色は、先程見たものとはあまりにも違っていた。
――漆黒の空に、巨大な金色の環が輝いている。
その下で、あの広大な城塞都市が、何か、巨大な闇色の何かに飲み込まれている。
地の底から響く唸り声のような地鳴りと、金色の環から時折放たれる異様な、歌声のような音。
街から聞こえてくる人々の死の声。
呪詛と、聖歌と、悲鳴の、凄まじい不協和音が彼の地を包んでいる。
(なに、これ)
この世の終わり。
脳裏に走る言葉は、今正に光景となってリーシャの瞳に焼き付いていく。
そして、空で輝いていた金色の環から何か、光の柱のようなものがいくつも闇色の何かに降り注ぎ――
リーシャの意識は、光と闇が入り交じるその瞬間に途絶えた。




