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金獅子のビルギット  作者: 彼岸堂
序章
1/29

――――闇の中、火が灯された。


 弾けるような音を立てて燃える松明の輝きにより、露出した滑らかな岩肌が照らされる。それと共に表出する、油と、湿った地下の匂い。天井も床も、左右の壁も、全てが微かな湿り気を帯びた暗色の岩で構成されており、漂う冷気と相まって、命の気配を弱まらせる不気味な威圧感が存在していた。この空気は、人間の生活する場では極めて異質だが、ここ【迷宮】の深層においては極めて一般的なものである。故に、【迷宮】に慣れている彼女にとってこれは、なんら恐怖を抱かせるものではなかった。

 左手に松明を持ち、未だ照らしきれぬ闇を見つめる彼女は、名をビルギットと言う。

 肩にかかるぐらいの金色の髪を二つに結わえたビルギットは、透き通るような蒼い瞳が印象的な整った顔立ちと、16キルト(約160センチ)に満たない小柄な体躯故に、一見すると【迷宮】には不釣り合いな可憐な少女のように映る。だが、彼女はこれでも19歳で、れっきとした成人女性であった。加えて、彼女の右手には、その可愛らしい印象とはまるで真逆の、無骨極まりない長柄斧槍(ハルバード)が握られている。その長柄斧槍は、ビルギットの身長の八割程の全長であり、その槍頭と斧刃には、今日まで長く使い込まれたことを示す、血と油を多く吸った独特の輝きを宿している。男性が使う平均的な一振りと比べればかなり短く、実質短槍に近いそれは、ビルギットの体躯に合わせて作られたのがわかる特注の長柄斧槍だったが、それでも女性が片手で持つには余りにも重い代物であるはずだった。

 長柄斧槍以外にも、ビルギットの両肩、両腕、胸部、腰回りのそれぞれに、金属鋲を打ち込んで補強した革鎧が、彼女の体型に合うように身に付けられ、後ろ腰には鞘に収められた短剣がある。ここまで詳細に観察すれば、ビルギットがこの【迷宮】においてどのような存在であるか、則ち彼女は、ただの小柄で華奢な女性ではなく、魔と欲望の渦巻く【迷宮】を切り開くために武装をした【探宮者】であることが、誰にでも想像がついた。


「意外と早く着いたわね」


 彼女の口から出た言葉は、決して独り言ではなく、明確に彼女の背後に向けて放たれたものだ。


「勘弁してくれ!」


 今にも泣き出しそうな上ずった声でそう返したのは、二人分の荷袋を背負う髭面の男性であった。男は少し横に広いがっしりとした体つきをしており、四肢の関節部以外はほぼ全て板金鎧で身を隠し、腰には幅広の剣を身につけている。頭にも金属製の兜を身につけており、どう見てもビルギットより頑強且つ屈強な印象を与える装備をしていた。だというのに、彼は身体を微細に震えさせ、それによってかちかちと鎧同士を擦れ合わせ、更に自身の歯によるがちがちという音も加えてしまい、独特な多重奏を響かせている。


「なぁ、もうあんたが凄い奴だってことは十分わかったよ! だからここまでにしておこうぜ。俺も謝る。でもって、連中にはちゃんと証明するよ! あんたがすげぇ探宮者だってことを! 報酬の分も俺が工面するからさ!」


 大きく身体を動かしながら必死な主張をする男に対し、ビルギットは短くため息をつく。


「あのね。何度も言ってるんだけど、私はあんた達を見返すためにここまで来たわけじゃないの。依頼を達成するっていう明確な目的があってきたわけ。あんたはその『見届け人』だからここで戻られても困るわ。散々確認したことなんだから、ぎゃあぎゃあ騒がないでよ。大の男がみっともない」


 ビルギットはそう言いながら、腰に着けた道具入れのポーチに手を入れ、赤い小さな宝石を取り出す。その宝石には独特な書体の文字と奇妙な図形が細かく刻印されており、わかるものが見れば『理術光石』であることがすぐに見て取れるものであった。

 彼女がそれを松明に近づけ「灯火(カルジア)」と起動言語を口にすると、宝石は松明の炎をわずかに吸収し、やがて、自ら輝き始めた。シグオン式理術光石はこうして起動され、ビルギットの前方へとそのまま浮遊し、その行く先を照らすように光を前に放つ。その輝きは、松明の炎よりずっと眩く、そして暖かいものであった。

 ビルギットは光石の起動が安定したことを確認してから、松明を男へと手渡す。そして迷いのない足取りで前に進み始めた。男はそれを見て慌てて追いかける。


「なぁ、おい! あんただって気づいているんだろう? 明かりはここで途絶えていた。残骸も増えてきた。つまり、もうめちゃくちゃ近いってことだぞ! ここらでみんな死んだんだって!」

「でしょうね」


 どうでもいいと言わんばかりの返答をし、ビルギットは注意深く辺りを観察しながら歩を進める。やがて彼女は、進む道の左右の壁の間隔が徐々に広くなりつつあることと、所々に血肉の染みがあることに気づき始める。遅れてきた男も、辺りをせわしなく伺う内に、そのような痕跡に気付いて顔を白くさせる。


「もう限界だ! 俺はここで戻るぞ!」


 そう言って男はビルギットに背を向け逃げようとする、が。


「死にたきゃ勝手にしなさい」


 よく通る声でビルギットがそう言うと、男は足を止めてビルギットの方を振り返った。どういう意味だと目が語っていたので、ビルギットは再びため息をつく。


「よく考えてみなさいよ。この場で私から離れるのが一番危険なのは明白でしょう? 私がいたからここまで来ることができたあんたが、今更一人で外に出られるわけがないでしょうに。目の届く範囲にいる限りは、『見届け人』としてあんたを守ってあげるけど、逃げられたらそれもでき――」


 そこまでビルギットが口にした所で、唐突に、奇怪な音が【迷宮】に響き始めた。それはまるで、幾百の人間が漏らす苦悶が重なりあったかのような、重く不気味な低い音であった。男はそれを聞いて悲鳴をあげ、慌ててビルギットの方に近寄る。


「近いぞ」


 そう声を発したのは、ビルギットでも、見届け人の男でもなかった。

 果たしていつからそこにいたのだろうか。その声の主は、ビルギットの右肩に乗った、目のない漆黒の蜥蜴のような生物だった。この蜥蜴――名をレフターと言い、ビルギットの唯一の相棒――の存在は、ビルギットにしか知覚されておらず、レフターの発した声にビルギットは頷いて反応したものの、見届け人の男には全く聞こえていなかった。


「向こうも私達を探していたってこと?」

「そのようだな。敵意に満ちている」

「上等。ならさっさと行きましょう」


 まただ、と見届け人の男は震えた。彼からすると、ビルギットが独り言をいきなり始めたようにしか見えないのだ。一応そのような存在がいるとは予めビルギットから説明されていたが、見えないし聞こえないせいで全く言葉の意味がわからない。そして、彼はこの【迷宮】を彼女と共に進む間に十分に理解していた。このビルギットという女が独り言を始めると、大抵事が起こる前触れだということを。

 それを証明するかの如く、ビルギットが足早に進み始める。男は鎧をがしゃがしゃと鳴らしながらそれについていく。二人が進むに連れ、【迷宮】の闇はより強い冷気を孕み、不気味な音は一層大きくなっていく。少しずつ、巨大な生物の食道から胃袋へと導かれていくように。

 どれほど進んだだろうか。やがて、薄紫の光がふわふわと舞う大きな空間が、二人の眼前に姿を現し始めた。半球形の椀のような形をしたその大部屋に踏み込んだ瞬間、刺すような威圧感が二人を襲う。男はそれで腰を抜かしてしまった。


「やっと会えたわね」


 不敵な声でビルギットがそう言うと、大部屋の中央、薄紫の光の中心で、何が巨大なものが立ち上がった。光石の輝きが、その姿を詳細に照らす。


「ひぃぃいっ!」


 男の悲鳴が響く。

 そこに立っていたのは、70キルト(約7メートル)を優に超える異形――人々が畏怖を以て【真魔(ダァクス)】と呼ぶ存在――であった。二足で立つ影形は人に似ていなくもないが、その上半身は黒い体毛に包まれ異常に隆起した筋肉を持ち、下半身は馬の前両足と似た蹄を地につけるものであった。何よりも象徴的なのは、筋骨隆々とした身体の割に異様に長く細い蛇のような尾と、巨大な角を生やし三つ目を忙しなく動かす口のない頭部である。まさしく魔の象徴とも言えるその姿は、【真魔】の名に偽りない禍々しさを体現していた。

 真魔は、紫に光る火の玉のようなものを周囲に浮遊させながら、三つの目でビルギットと男を交互に見やる。一方のビルギットは、真魔の足元に、夥しい数の人骨と、今さっき弄ばれたばかりに違いないぼろぼろの屍体を視認した。


「……この威圧感、当たりで間違いないわね」

「ああ、それなりの階位だ」


 そうレフターと言葉を交わしてから、ビルギットは長柄斧槍を構え、視線を一瞬だけ見届け人の男へと移し、彼が腰を抜かしているのを視認すると、途端に真魔の方へと駈け出した。ビルギットは真魔の狙いを自分に向けようとしたのだ。


「離れて見ていろ!」


 ビルギットは男にそう叫んでから、全ての意識を真魔の方へ傾ける。と――

 真魔が、音もなく跳躍した。

 それがあまりにも静かな跳躍だったせいで、ビルギットは真魔が凄まじい速度で接近していることに一瞬気付かず――

 ――轟音。

 真魔が、大木のような右腕を地面に叩きつけたのだ。その破壊力は絶大で、地面が大きく陥没し、岩の破片が【迷宮】内を飛び交い、衝撃によって空気が一瞬大きく揺らぐほどであった。見届け人の男はその破壊があまりにも一瞬だったために、地面が何故吹き飛んだのかすら理解できていなかった。ただ、ビルギットが今ので「即死した」とだけは直感していた。が。


「――っせいッ!」


 響く気合の怒号。

 真魔の一撃を既に横に跳び避けていたビルギットが、身体を回転させ、その勢いを乗せて真一文字に真魔の左脚に一撃を放った。真魔はこれに素早く反応し、後方に跳ぶことで直撃を回避するが、人間離れしたビルギットの膂力による一撃は空を切って尚その勢いが残り、触れてもいないのに真魔の足に僅かに傷を与えた。

 真魔の三つ目が見開かれる。それは如何なる感情によるものか。だが、ビルギットにとってそんなことはどうでもよい。

 ビルギットは、長柄斧槍を振り切る前に自身の筋力でその攻撃を無理やり止め、直後、攻撃の勢いを前に向けんと一歩踏み込む。その踏み込みは、地面を微かに陥没させるほどの力強いものであり、次の瞬間、ビルギットは後方へと退避した真魔を追うように跳躍する。その速度はまるで、大砲から放たれた砲弾のようであった。

 雄叫びと共に振るわれるビルギットの縦一閃。真魔は、それを太く硬い左腕で受け止めようとする。

 この真魔の皮膚は並の剣なら無傷で弾くほどの硬度があった。真魔は、この強固さによって幾多もの探宮者を殺し、嬲り、弄んできたのだ。故に、人間の女の一撃など容易に受け止められる。と、判断したのかもしれない。

 だがビルギットはそんな常識が通用する人間ではなかった。

 流星のように閃いた彼女の一撃は、甲高い音を打ち鳴らし真魔の左腕に入り込むや否や、何の抵抗もないかのように斬り進み、ついにはその圧倒的な力によって、腕を骨ごと叩き斬る。

その切断面からどす黒い体液が遅れて迸ったのは、ビルギットが着地し、真魔から改めて距離を取り終えてからだった。

 真魔の頭部に空いている穴から、苦悶の叫びがおぞましく響く。


「す、すげえ」


 見届け人の男が視認できたのは、真魔の腕が斬り飛ばされたという結果までであり、その過程にあった一人と一匹の高速の攻防は、まるで見えていなかった。「恐らく、ビルギットが真魔の腕を叩き斬った」というのが理解の限界であったが、今の彼にはその事実だけで十分であった。というのも、彼は真魔を目にした瞬間、あまりの恐ろしさに失禁し、死の覚悟をしてしまっていたのだ。それが現実はどうだ。彼は、ビルギットの作り出した光景に、魅入られていた。

 一方のビルギットは、明確な手傷を与えたというのに、攻勢に出ることは無く、逆に攻める気配を殺し、長柄斧槍を構えながら真魔を観察している。先ほどの烈火のような気迫も嘘のように引いていた。

 真魔は体液を溢れさせながら唸り声をあげていたが、やがてその音量が少なくなり、ついには無音となり、身体の微動も静止する。そして次の瞬間、肉が爆ぜる生々しい音と共に、腕の切断面から剣――正確には、鋭利な骨を変形させた剣のようなもの――を突然生やした。


「やっぱり、そういうのがあるわけね」


 不敵な笑みを浮かべるビルギット。彼女は真魔の嘘泣きに気づいていたのだ。


「核は恐らく頭部と左胸部だ。その二つが濃い」


 レフターがそう言った直後、真魔が再びビルギットへと接近する。

 風を切り裂く奇妙な高音と共に、縦に振るわれる骨剣。

その猛烈な一撃を、ビルギットは驚異的な反応速度で回避する。しかし、骨剣は地面に入っても留まること無く、まるで溶けかけの牛脂を切るかの如く容易に裂いていく。そして、振り切った勢いのまま真魔の左腕が骨格を無視して風車のように回転し、再びビルギットへと振るわれる。これもビルギットは寸での所で回避するが、切り裂かれた空気が元に戻ろうして生じる捻れにわずかに巻き込まれ、その動きが若干鈍る。

 襲い来る横からの三撃目。ビルギットは目を逸らすことなく、骨剣の描く太刀筋に添えるようにして長柄斧槍を振るう。

 散る火花。

 劈くような高音と共に、【迷宮】が暴力の衝突で明滅する。ビルギットが、真魔の一撃を真正面から受けずにわずかに軌道を逸らすことで、真魔の力を無理なく受け流したのだ。

 真魔はそれでも構わずビルギットを斬り刻もうと骨剣を連続で振るう。最早かするだけで常人の肉体ならば微塵にするような威力であったが、ビルギットはこれを適切な距離でかわし、ときに長柄斧槍を以て受け流すことで、完全に対応していた。

 それは端から見れば異常な光景であった。切り結ぶ一人と一匹は、その体躯も、間合いも、何から何まで違いすぎていたのだ。真魔にとって有効な間合いは、ビルギットのそれと比べれば十倍以上のものだろう。更に、同じ一撃でも、致命傷になるか否かの要素が大きく異なっている。

 既に驚異的な身体能力を見せているビルギットであっても、この真魔の骨剣をまともに受ければ即死することは明白であり、ビルギットもそれをよく認識していた。見届け人の男も、その攻防に目が慣れていく内に、ようやく狂った天秤の存在に気が付き始め、再び絶望を思い出しつつあった。本当に勝てるのか。いや、無理に決まっている、と。男はその絶望を自覚しても、祈るように戦いを見ていることしかできない。

 そんな観戦者の絶望などをよそに、ビルギットは、真魔の留まることを知らない猛攻をさばき続けていた。防戦一方に見えるが、彼女には明確な策があり、そして、その機が訪れるのを粘り強く待っていた。ビルギットには、眼前で暴れ回る致死の刃を前にしても決して退かぬ胆力と、それを捌きながら策を練ることができる経験があったのだ。

 と、真魔の周囲を浮遊していた紫の光が、突然、真魔の身体に吸収されていく。

 その直後、剣戟の音が絶えない空間に新たな異音が付加された。それは、人ならざる者が奏でる歌であり、そして、詠唱であった。真魔が、骨剣を振るいながら何かを唱えているのだ。


「くるぞ」

「わかってる!」


 ビルギットは、自身の首筋にちりちりと凍てついた感覚が増していくのを感じていた。それは、間もなくこの戦いの最後の瞬間がくる予感でもあった。

 詠唱の高まりにつれて、空間全体に紫色の光が満ちていく。


「耳塞いで伏せろ!」


 ビルギットが見届け人の男に向けて叫び、男は慌てて言われた通りにする。

 直後――

 骨剣を振るう真魔の頭部が突然割れて、歯がびっしりと並ぶ巨大で禍々しい口が現れた。

 そこから紡ぎ出される、最後の起動音声。

 次の瞬間、ビルギットの立つ場所を中心にして、地面に赤い光が走る。それは一瞬で無数の幾何学模様と文字を地面に描き出す。真魔による魔術がここに完成したのだ。『詠唱』と『式』、そして『形成陣』の成立により、ビルギットの周囲の空間が急激に揺らぎ――

 ――爆発。

 迸る赤。雷鳴のような轟音と共に炎が走り、【迷宮】を大きく揺らす。その衝撃により、見届け人の男も後方へ大きく吹き飛ばされる。予め耳を塞いでいなかったら間違いなく鼓膜がやられていただろう。鎧が爆炎の熱や破片を防いだが、未だ彼の頭はぐらぐらと揺れていた。

 鈍い残響音を残しながら、魔術の炎の残滓が辺りにちらつき、爆発によって発生した煙も空間に広く漂っている。真魔は、自身の魔術が確かに起動し、ビルギットの直下で炸裂したことを確認し、その動きを止めた。

 刹那。

 ――爆煙を切り裂いて、蒼い流星が真魔の頭部を貫いた。

 否。

 蒼い流星の如く疾走したそれは、蒼炎を長柄斧槍に纏わせて跳躍したビルギットであった。

 彼女は、あの魔術を受けてもほとんど無傷に近く、それどころか、魔術とも理術とも違う炎を以て、真魔の頭部を粉砕したのだ。

 ビルギットの一撃により頭部が砕かれ、膝をつく真魔。不気味な音を立てて、体液を噴水のように噴出し始める。ビルギットは着地してすぐに身を翻し、未だ蒼い炎が煌めく長柄斧槍を携え真魔に疾走する。それを察知してか、頭部が無くなったというのに真魔は振り返り、ビルギットと対峙する。 そして、真魔が骨剣をビルギットに向けて振り下ろす。ビルギットはそれを敢えて紙一重で交わし、最短距離を維持したまま真魔の懐に入り込み――

 再び走る蒼炎。

 真魔の左胸を、ビルギットの突きが貫く。蒼い炎が、長柄斧槍の槍頭が侵入した箇所から真魔の身体に入り込んだ。

 一瞬の静寂。

 直後、真魔の身体が内側から膨れ上がり――

 劈くような高音と共に、蒼炎が迸った。

 真魔は、内側から木っ端微塵になり、【迷宮】は蒼の光に包まれる。それは、魔術の破滅的な炎とは違って、何者をも傷つけない暖かさがあり、それでいて、雪のような穏やかさを宿した炎であった。

 そんな幻想的な光景の中、何かが地面に落ちる音が響く。

 ビルギットが視線を向けると、そこには、紫の輝きを内に秘める不思議な宝石のようなものであった。ビルギットはそれを以て真魔を滅殺したことを確認し、ふうと一息つく。


「――お見事」


 レフターが呟く。


「ありがと」


 言葉を返す際に、ビルギットは柔らかい笑みを見せる。それがこの【迷宮】に入って初めての表情であることをレフターだけが理解していた。


「さて、と」


 ビルギットは落ちてきた紫の石を拾いながら、戦いの痕跡が色濃く残る辺りを見回す。そうして、これからすべきことの算段を立て始める。大仕事は終えたが、まだまだやらなければならないことはあるのだ。それはここまでの地図の整理や、光源の修復。屍体の処理に、その遺物の処理など――むしろこちらの方が探宮者としての本業なので、一息はつけてもため息をつくわけにはいかない。

 しかしながら、ビルギットは思った。

 一番の大仕事は、そこで朦朧として起きられないでいる見届け人の男をどうやって起こすかということではないか、と。

目覚めた時の面倒臭さを思うと、彼女は我慢していたため息をつかざるを得なかった。





 有史以前より、人の住まう世界【玄界(アーシア)】には、この世ならざる世界【異界(ヘラ)】へと続く【迷宮】が多く存在していた。

 迷宮は、山に谷に、草原に海に、空に、地の底に、突如現れては、幻のように消えゆくのを繰り返し、人の世界に常に在り続けていた。

 人間は、迷宮に蔓延る【真魔(ダァクス)】の存在を知りながらも、そこに眠るまだ見ぬ財宝や技術、あるいは世界の真理を求め、今なお迷宮と強く結びつき、歴史を紡いできた。


 天暦1312年。


「【真魔】無くして理術無く、【迷宮】無くして国家無し」


 その至言を大賢者シグオンが遺してから、およそ千年。

 国家間の水面下での闘争。

 理術の発展。

 迷宮の危険性と利益の管理。

 増大する人間の欲望。

 【精霊(ルフト)】、【妖魔(ネム)】、そして【真魔(ダァクス)】の存在。


 目まぐるしく動き、全てが絡み合い、変化しつつある世界。その中で。

 様々な目的を以て【迷宮】に挑む【探宮者】だけは、不変であった。


 その探宮者の一人である彼女、ビルギットの物語は、常にここから語られる。


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