聖女召喚されたら妖精さんと呼ばれました。王子の肩から浄化します!
最後に覚えているのは、道場の畳の匂いだった。
稽古を終えて、帯を締め直していた。それだけだ。足元がぱっと白く光ったと思ったら、次の瞬間、優希は硬い石の上に立っていた。
体が勝手に腰を落とし、膝で衝撃を逃がす。受け身が要らなかったのは幸運だった。いや、幸運というより、長年の癖が出ただけだ。
「……どこだ、ここ」
顔を上げて、優希は言葉を失った。
柱がある。やたらと太くて、やたらと高い。天井がどこにあるのかわからないくらい遠い。床には光の線で大きな円が描かれていて、自分はその真ん中に立っているらしい。体育館が丸ごと一つ入りそうな広間だった。
そして、広間のあちこちから、無数の顔がこちらを見下ろしている。
顔が。見下ろして。いる。
人間の顔だ。ただし、ひとつひとつがとにかくでかい。目玉がバスケットボールほどもある。
息を吸う。吐く。夢にしては、石の冷たさが本物すぎた。
沈黙を破ったのは、最前列にいた若い女性のつぶやきだった。
「……え? 妖精さん?」
声が降ってきて、優希の髪がふわりと揺れた。声で、髪が揺れた。
妖精って、私のことか。優希は思わず自分の体を見下ろす。身長は百七十センチ近い。女子としては大きいほうで、鍛えているぶん、肩幅だってしっかりしている。妖精と呼ばれたのは、生まれて初めてだ。
まず状況確認だ。そう思って口を開きかけたとき、広間の奥から地鳴りのような声が轟いた。
「よくぞ参られた、聖女よ!」
耳の奥でキーンと音が鳴った。反射で両耳を塞ぐ。声量というより、もはや風圧だ。前髪が後ろに持っていかれた。
「声でかいって!」
叫んでみたが、届いたかどうか怪しい。ところが、ほとんど同時に別の方向から鋭い声が飛んだ。
「全員、声を落とせ! 聖女様が驚いておられる!」
広間が、しんと静まる。
顔の列の中から、一人の青年が進み出た。彼は片膝をつき、床に手をついて、ゆっくりと顔を近づけてくる。輪郭が視界いっぱいに広がった。整った顔立ちだが、目をまん丸にして、口を半開きにして、石像のように固まっている。
「ちっ……」
ちっ?
「ちっちゃ……かわ……」
もごもごと何か言いかけて、青年は自分の口を片手で覆った。耳まで真っ赤だ。
熱でもあるのか、この人。
優希は首を傾げつつ、一歩前に出た。まずは名乗るのが筋だ。
「優希だ。ゆうき。あんたたちが、私を呼んだのか?」
青年は慌てて背筋を伸ばし、ずいぶん抑えた声で答えた。それでも、普通の人間の大声くらいの音量はある。
「は、はい。ユーキ様。私はこの国の第一王子、レオンと申します。突然お呼びしたことをお詫びいたします」
ユーキ、と聞こえた。ちょっと違う気もするが、通じるなら何でもいい。
それより、首が痛い。真上を向きっぱなしだ。
「もしよろしければ」
レオンが、そっと片手を床に置いた。広げた掌は、ちょっとした会議用のテーブルくらいある。
「こちらへ。お顔の高さで、お話しできます」
知らない相手の手に乗るのは、正直ちょっと迷った。けれど、さっきから首の限界が近い。それに、さっき広間を静めてくれたのは、この男だ。
「じゃ、借りるぞ」
掌に上がると、体温が靴底から伝わってきた。思ったよりあったかい。
「持ち上げます。揺れますので、お気をつけて」
「おう。ゆっくりな」
「はい、ゆっくり……ゆっくり……」
床が遠ざかっていく。エレベーターみたいだな、と優希は思った。レオンの指先がかすかに震えている気がしたが、気のせいだろう。
顔の高さまで来ると、周囲の様子がよく見えた。ざわめいていた人々が、今度は口々に、潜めた声で言い合っている。
「なんと美しい黒髪だ……」
「しかし、あの小ささは……」
ただの黒髪なんだけどな。優希は聞こえないふりをして、一番偉そうなローブの人物に向き直った。
神官長と名乗るその人は、ものすごく小声で、丁寧に説明してくれた。
この世界は、瘴気という黒紫の霧に蝕まれている。瘴気に触れた土地では作物が枯れ、人も家畜も弱っていく。止められるのは、異世界から召喚される聖女の浄化の力だけ。だから、あなたを呼んだ。
「ただ……聖女様がこれほど小柄でいらっしゃるとは、我々も予想外でして……」
「それは今いいや。ひとつ確認させてくれ」
優希は遮って言った。
「私がやれば、困ってる人は助かるんだな?」
「は、はい。必ず、とは申せませんが、それが唯一の道です」
「浄化のために呼ばれたんだろ? わかった。やってみる」
広間が、再び静まり返った。
「……よ、よろしいのですか? 元の世界のことや、ご事情は……」
「そりゃ、考え始めたら止まらなくなるよ」
道場のことも、家のことも、今は考えない。考えたら動けなくなりそうだから、後回しだ。
「でも、助けを待ってる人がいて、私にできることがあるんだろ。なら、やるしかないじゃん」
掌の持ち主を見上げると、レオンが信じられないものを見るような顔をして、目を潤ませていた。
やっぱり熱があるんじゃないか。優希はそう思った。
* * *
レオンは、自分の人生を「磨くもの」だと思って生きてきた。
剣も、馬術も、礼法も、歴史も、他国の言葉も。朝から晩まで一つずつ身につけて、王子として恥ずかしくない自分を作ってきた。
それが変わったのは、聖女召喚が決まった日だ。
廊下で侍従長が口にした言葉を、レオンは今でも覚えている。
「聖女様の伴侶候補として、殿下のお名前も挙がっております。ほかに三名ほど」
ありがたい話だ。名誉でもある。頷いて、礼も言った。ただ、そのあと胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた。
積み上げてきたものは、誰かに選ばれるための材料だったのか。点数をつけられる側に回るために、自分は磨いてきたのか。
そんなものを抱えたまま迎えた召喚の日、光の円の中央に、小さな人が立っていた。
夜空のような黒髪。まっすぐこちらを見上げる、黒曜石の瞳。「声でかいって!」と叫んだあの顔。
ちっちゃーい。かわいー。
あのとき、口に出しかけて止めた自分を、誰か褒めてほしい。
そして一夜明けた今、レオンはほとんど眠れないまま、客間の扉の前に立っていた。
「お、おはようございます、ユーキ様」
部屋の中央には、徹夜で仕上げさせたものが並んでいる。宝物庫の奥から引っ張り出した、昔の姫君が遊んだ精巧な人形の家具に、職人たちが寝ずに手を入れて、使える寝台と机と椅子に仕立て直した。段差を越えるための小さな階段も、卓上に架けた。
ユーキ様は、あちこちを見て回り、机を叩いて強度を確かめ、寝台に腰を下ろして、顔をしかめた。
「ありがとな、助かる。人形の家具って、サイズがちょうどいいんだな。……でもこのベッド、フリル多くないか? 寝返り打ったら絡まりそう」
「い、今すぐ外させます!」
侍女長に目で合図を送る。ユーキ様は、あっさり付け加えた。
「あと、階段の一段目がちょっと高い。もう少し低いほうが、夜中にトイレ行くとき楽」
「承知しました。そちらも調整いたします」
かわいい、と叫びそうになるのをこらえつつ、レオンは気づいた。この方は、贈り物を喜んでくれたのではない。道具を点検して、使えるように改善点を伝えてくれたのだ。仕事の相手として。
それがなぜか、ひどく嬉しかった。
「それで、今日の予定は?」
「はい。まず、瘴気の被害が出ている地域をご説明します」
卓に地図を広げる。レオンは、この二年、辺境の巡察を任されてきた。どの村で何が起きているか、頭に入っている。
「最も近いのが、ミルト村です。作物が枯れ、体調を崩す者が増えています。ただ、瘴気は風に流れる性質があり、日によって濃い場所が変わります。人手を割いて調べていますが、広がりが大きく、全体像がつかめていません」
「風で動くのか。川とか谷みたいな低いところに溜まったりする?」
「……はい。窪地に溜まりやすいと報告されています」
「なるほどな。見つけるのが一番めんどくさそうだ」
ユーキ様は地図の上に身を乗り出し、小さな指でミルト村の周辺をなぞった。
「ここまで、どれくらいかかる?」
「馬で半日です。ユーキ様は馬車か、あるいは私が……」
「お前、地図の読み方わかりやすいな。ありがとう。助かる」
顔を上げて、ユーキ様がにっと笑った。
レオンは、一秒だけ呼吸を忘れた。
この方は、かわいいだけの人ではない。まだ一日も経っていないのに、そんな予感が、胸の中で静かに膨らんでいた。
* * *
ミルト村に着いてすぐ、優希は自分の失敗を悟った。
地面に降ろしてもらったのは、準備運動のつもりだった。まず現場の感触を知りたい。そう思ったのだ。
ところが、麦の穂が、すでに木の高さだ。家は崖で、道の石は岩だ。霧が出ているのかどうか以前に、五歩先すら見通せない。
「うおっ!?」
頭上に、影が落ちた。村人の足だ。靴の裏が、軽トラの荷台くらいある。
次の瞬間、体がふわっと宙に浮いた。
「失礼します、ユーキ様!」
レオンの掌の中だった。彼は青い顔で、優希を胸の前に抱え込んでいる。
「危なかった。踏まれるところでした」
「悪い、助かった。……近い、近い、ちょっと離せって。顔見えない」
「は、はい!」
掌が少し開く。優希は大きく息を吐いた。
これは、地面を歩いていたら話にならない。村に入る前から身に染みた。巨人族の世界では、足元の人間なんて、誰も気づかない。
それに、見えない。瘴気を探すには、低すぎる。
どうすればいい。
高いところから見ればいい。周りに丘も塔もない。だが、高い場所なら、すぐ近くにあった。
「レオン」
「はい」
「ちょっと肩、借りていいか」
「…………肩」
レオンが、固まった。
「高いところから見たいんだ。この辺で一番高いの、お前の肩だろ」
「か、肩……はい。仰せのままに」
声が妙にうわずっている。人を肩に乗せるのが嫌とかだろうか。聞いてみようかと思ったが、本人が了承したので、まあいいか。
優希は、レオンのマントの袖を足がかりにした。布の織り目に指をかけ、体重を移動して、腕から肩口へ。ロープ登りよりは楽だ。バランスなら、誰にも負けない。
肩の上に立つ。足を肩幅に開き、重心を落とす。
見晴らしが一気に開けた。
「おお、よく見える」
村全体が一望できる。そして見えた。村の北側、小さな窪地のあたりに、うっすらと、黒紫色の霧がたまっている。
「……レオン、お前、石みたいになってるぞ。ちゃんと息してる? 揺れてほしくないのは確かだけど」
「し、しております。大丈夫です。ご指示を」
声がまだ裏返っている。肩に何か乗せるとか、普通ないもんな。悪いことをしたか、と思ったが、今は急ぎだ。
「あっちだ、北の窪地。行こうぜ、レオン!」
「はいっ!」
肩の上は風が気持ちよく、優希は少しだけ、愉快な気分になった。
* * *
肩の上の重みは、驚くほど軽い。
軽いのに、そこにいるとわかる。髪が頬にかすかに触れて、レオンは歩調を崩さないよう、全身の神経を使っていた。
彼女にとって、これはただの高所確保だ。それは頭ではわかっている。わかっているのに、心臓は勝手に騒ぐ。
落ち着け。今の自分には仕事がある。
窪地の手前に着くと、村人たちが遠巻きに集まっていた。黒紫の霧が、地面近くにゆらゆらと溜まっている。
「全員、風上に下がってくれ。口と鼻を濡れ布で覆うように。子供は村の南へ」
レオンが声を張ると、村人たちはすぐに動いた。巡察で顔なじみになった村長が駆け寄ってくる。
「殿下、風は西から東です。霧は東へ流れておりますが……」
「ありがとう。風下の家屋に人は?」
「二軒ほど。今、避難させております」
「手が足りなければ、私の護衛を使ってくれ」
指示を出す間にも、ユーキ様は肩から腕へ滑り降り、掌を経由して地面に立っていた。
「レオン、下ろしてくれて助かった。あとは自分で行く」
「しかし、瘴気の中は……」
「入らなきゃ浄化できないだろ。大丈夫、ヤバくなったら声出すから、拾ってくれ」
それは、信頼されているということだ。
レオンは頷いた。彼女が膝をつき、黒ずんだ土に両手を当てるのを、息を詰めて見守る。
光が、生まれた。
夜明けの色の光だった。手のひらから染み出すように広がり、霧を押し返し、土の黒ずみをほどいていく。ただ、静かに空気が澄んでいく。
やがて光が消えると、窪地には、ただ朝の草の匂いだけが残っていた。
ユーキ様は、ふらりとよろめいた。
レオンの手が、考えるより先に伸びていた。掌で受け止める。
「……ちょい、疲れた。ありがと」
「お見事でした。水を」
「おう、助かる」
その様子を、村長が目を潤ませて見ていた。
「聖女様……ありがとうございます。この村は、もう終わりかと思っておりました。お礼に何でも差し上げます」
「いや、そういうのいいって」
ユーキ様は、掌の上で首を振った。
「困ってんなら助けるだろ。当たり前じゃん。それより、風下にいた人、ちゃんと診てもらえよ。霧、吸ってるかもしれないから」
村長は絶句した。
レオンも、絶句していた。
これが、民に感謝される聖女だ。それなのに、彼女は少しも誇らない。ただ当たり前のことをして、次の心配をしている。
かっこいい、と思った。かわいいではない。かっこいい、のだ。
それからミルト村の周辺をはじめ、いくつもの村を回った。ユーキ様は肩の上から瘴気を見つけ、レオンは人と道具と段取りを整える。風の向きを読むのも、人を動かすのも、レオンの仕事だ。彼女は、それを当然のように頼ってくれた。
「お前がいてくれて助かった。ありがとな!」
そう言われるたびに、レオンの胸の中に、何かが灯る。選ばれるための点数ではなく、自分の力が誰かの役に立つ、という手応え。
そんなある朝のことだった。
宿の廊下を歩いていたレオンは、部屋の奥から、規則正しい音を聞いた。
畳んだ毛布の上で、ユーキ様が動いていた。
前に転がり、起き上がり、構えを取り、見えない相手の袖を掴んで、腰を落とし、投げる。その繰り返しだ。武芸をかじっているレオンにも、一目でわかった。数え切れないほど繰り返して、体に染み込ませた人の動きだ。
だが、最後の一回で、ユーキ様の動きが止まった。
見えない相手を投げたはずの腕を、静かに下ろす。そして、自分の両手をじっと見つめた。
その横顔を見て、レオンは、声をかけられなかった。
扉の陰で立ち尽くしていると、ユーキ様がこちらに気づいた。
「お、起きたか。おはよ、レオン」
いつもの笑顔だった。
「……おはようございます」
レオンは、自分が見たものを胸にしまった。
* * *
その日の現場は、峡谷沿いの牧場だった。
瘴気は小さな牛舎の中にたまっていた。優希が浄化に入ろうとしたとき、中で飼われていた一頭の雄牛が、霧に当てられて暴れ出した。
牛とはいえ、この世界の牛だ。体高は、レオンの肩を超えている。
目が真っ赤だった。
突進してくる。優希の頭は、驚くほど冴えていた。足元を見る。重心の向き。軸足。
右へ。
足さばきで、牛の角をかわす。紙一重だ。体はちゃんと覚えている。
そのまま、すれ違いざまに、前脚へ組みついた。投げる。この勢いなら、崩せる。
崩れなかった。
組みついた手が、次の瞬間、振り払われた。まるで虫を払うように、軽く。体が宙に浮く。
「ユーキ様!」
レオンの声がして、気づけば優希は、彼の掌の中にいた。牛は、レオンに押さえ込まれて、別の人の手で縄をかけられている。
「怪我は!」
「大丈夫。受け身は取れた」
本当に怪我はなかった。それが、余計に嫌だった。
形は間違っていなかった。足さばきも、崩しのタイミングも、全部合っていた。足りなかったのは、体重だ。ただそれだけだ。
どれだけ正しい技でも、相手が動かなければ意味がない。
優希は掌の上で座り込み、乾いた笑いをこぼした。
「あんなに鍛えてたのにな。この身体じゃ、得意の体術も使えないんだよなあ」
言ってから、はっとした。
レオンは牛の処置に追われて、背を向けている。聞こえていたかどうか、わからない。
まあ、いいか。ただの愚痴だ。
牛舎の浄化は、無事に終わった。牧場主は泣きながら礼を言い、優希は普通に笑って、普通に応えた。ちゃんと笑えていたと思う。
けれど夜、宿の石造りの出窓に一人で座っていると、昼間の感触が戻ってくる。
あの牛の力。振り払われた腕。
道場の畳の匂いを思い出した。
朝五時に起きて、走って、投げて、投げられて。何千回、何万回。国体の決勝の畳の硬さ。技が決まる直前の、ふっと世界が止まるような感覚。
あれを、積み上げてきた。
優希は、自分の両手を見つめた。
手は、何も変わっていない。腕も、足も、あの頃のままだ。変わったのは、世界のほうだ。そうわかっていても、悔しさは、理屈では止まらない。
喉の奥が、きゅっと痛くなった。
そのとき、窓の外に、ゆっくりと大きな影が落ちた。
* * *
レオンは、飾りのついた小さな銀の指ぬきを摘み持ってきた。レオンの指先を覆うサイズが、ユーキ様のためのカップとしてちょうど良い大きさだった。
夜に温かい飲み物を届けるのが、いつの間にか習慣になっていた。そして、今夜は、それだけではない。
昼間の牧場で、彼女のつぶやきを聞いていた。聞こえないふりをした。あのときは、牛を押さえるのが先だった。
けれど、夕食のあいだ中ずっと、彼女の笑顔が気になっていた。いつもの笑顔だ。完璧に、いつも通りだった。
だからこそ。
「ユーキ様、よろしいでしょうか」
窓の外から声をかけると、出窓に座っていたユーキ様が、顔を上げた。
「お、レオンか。そこ、寒くないのか?」
「大丈夫です。温かいものをお持ちしました」
掌をそっと窓枠に寄せる。ユーキ様は指ぬきを両手で受け取り、「あったけえ。ありがとな」と笑った。そのまま少し、静かになった。
レオンは、遠回しな言い方を、全部やめた。
「昼間、牛舎で言っていたことが、聞こえていました」
ユーキ様が、ぴくりと肩を震わせる。
「……あー、聞こえてたか。気にすんな、ちょっと愚痴っただけだ」
「愚痴ではないと思います」
言葉を選ぶ。選んでも、足りないかもしれない。それでも、伝えなければならない。
「ユーキ様が毎朝、毛布の上で稽古をなさっているのを、見てしまいました。申し訳ありません。覗くつもりはなかったのですが」
「……見てたのか」
「はい。私にも、武芸の心得があります。だから、わかります。あれは、数え切れないほど積み重ねてきた人の動きです」
返事はなかった。
「今日、牛の突進をかわしたユーキ様の足さばきは、見事でした。私は、あれを見て、牛がどちらへ向かうか判断できました。あなたの動きが、私を助けたのです」
「でも、投げられなかった」
「はい。投げられませんでした。それは、悔しいことだと思います」
レオンは、そこで言葉を止めた。悔しいことを、悔しくないと言い換えたくはなかった。
「あなたが積み重ねてきたものは、身体が変わっても、なくなってはいません。そうは思います。けれど、できていたことができなくなった事実は、変わらない。悔しくて当然です」
ユーキ様は、指ぬきを両手で包んだまま、うつむいていた。
「だから、今の身体で何ができるのか、私に一緒に探させてもらえませんか。あなたを守りたいのではありません。あなたの行きたい場所へ、一緒に行きたいのです」
長い沈黙が、あった。
夜風が窓枠を鳴らす。
やがて、ユーキ様が、小さな声で言った。
「……悔しかったんだよ。すげえ」
声が、少しだけ揺れていた。
「毎日やってきたんだ。何年も。それが、牛一頭にあんな……」
言葉が途切れ、ユーキ様は唇を噛んだ。涙が一粒、指ぬきの縁に落ちた。
レオンは、何も言わなかった。言えなかったのではない。何も言わずにそこにいることが、今できる一番のことだと思った。
ユーキ様は、袖で目をこすり、深く息をついた。
「ありがとな、レオン」
顔を上げて笑った。目はまだ赤いのに、昼間よりもずっと、本当の笑顔だった。
その顔を見て、レオンは悟った。
可愛いからではない。この人が、悔しいと言える人だから。泣いてもなお、前を向く人だから。
自分は、この人に惹かれているのだ。
* * *
泣いたのは、いつ以来だろう。
優希は、指ぬきの中の温かいお茶を、ちびちび飲みながら、しばらくただ黙っていた。レオンも、黙っていた。窓の外にでかい顔がじっとあるのに、不思議と気にならなかった。
悔しいと言えた。それだけで、胸のつかえが、少しだけ軽くなっている。
全部が消えたわけじゃない。道場の匂いも、畳の硬さも、まだ胸の奥にある。ただ、それを抱えたまま、考えることはできそうだった。
ふと、昔の師匠の言葉が浮かんだ。
『力で勝てない相手には、理で勝て。技ってのは形じゃない。考え方だ』
考え方、か。
今日の牛を、頭の中でもう一度再生する。あの突進の勢い。あの体重。
受け止める力は、自分にはない。でも、あの勢いを逸らすことなら。道具さえあれば。
あるいは。
優希は、自分の手のひらを見た。浄化の光は、今は直接触れないと出せない。霧の濃い場所に飛び込まなければならず、そのたびにレオンに頼っている。
もし、触れなくても光を届けられたら。もし、距離を取ったまま、何かを動かせたら。
体術が使えないなら、体術の代わりになるものを作ればいい。
頭の中で、何かがかちりと嵌まった。
優希は、ぱっと顔を上げた。
「よし。じゃあ、浄化に役立つ武器でも考えるか!」
* * *
レオンは、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
つい今しがたまで、窓辺には静かで温かい空気が流れていた。彼女は涙を拭い、自分は胸を熱くしていた。人生で一番、ロマンチックな夜だったと言っていい。
それが、武器。
「…………ぶ、武器、ですか」
「そう、武器!」
ユーキ様は、もう出窓の石の上に、指で何かを描き始めていた。目が、爛々と輝いている。
「体術が使えないなら、道具で補えばいいんだよ。こう、長い棒で、先に浄化の光を通せるやつ。霧の中に入らなくても届くだろ? あと、牛みたいなのが来たときに、勢いを逸らせるフックも欲しい」
勢いよく話す彼女を見ているうちに、レオンの口元が緩んだ。
笑ってしまった。
ああ、この人は。
悔しさを抱えたまま、泣いたその数分後に、もう次の手を考えている。自分が差し出した言葉は、ちゃんと届いていた。届いたうえで、彼女は自分の足で歩き出したのだ。
それが、ひどく誇らしくて、愛おしかった。
「わかりました。必要な職人を集めましょう」
レオンは背筋を伸ばした。
「あなたが望むものを、一緒に考えさせてください。弓の名工と、鍛冶頭。それから、人形の家具を仕立てた玩具細工師が適任でしょう。小さなものを精密に作る技は、彼らが国で一番です」
「玩具細工師! それだ、ぴったりじゃん! お前、頭いいな!」
ユーキ様が、本気で嬉しそうに笑った。
その笑顔が、胸のど真ん中に刺さった。
彼女は、レオンの気持ちに気づいていない。さっきの言葉が、どれほどの覚悟だったかも、きっと半分もわかっていない。
それでいい、と思った。
彼女の隣で、彼女のやりたいことを支えられる。それが、今の自分にとって何より嬉しいことだ。選ばれることを待っていた頃の虚しさは、もうどこにもなかった。
「なあ、レオン」
ユーキ様が、ふと首を傾げた。
「顔、赤くないか? 夜風で冷えて熱でも出たんじゃないか?」
「……ええ、少し。夜風のせいです」
「毛布、欲しいか?」
「いえ、お構いなく」
「そっか。じゃあ、明日の朝イチで職人叩き起こしに行こうぜ!」
「はい、ユーキ様。夜明け前に馬を出しましょう」
「お、乗り気じゃん!」
拳を突き出してくる小さな手に、レオンは人差し指の先をそっと合わせた。
窓の向こうでは、夜空がゆっくりと白み始めていた。二人の新しい一日が始まる。




