首縊りのブナの木
梅雨明け前の妙義山に登ることになった。
本当は梅雨が明けた夏が良かったんだけど、仕事の休みが取れなくてこんな時期になってしまった。
せめて、梅雨の合間の太陽が出てればと思ったけど、ふもとの民宿を出る時には厚い雲が広がっていて、空気もじっとりと肌にまとわりついてきたので、登り始めたら雨が降り出すだろうなと思ったんだ。ガイドの鏑木さんと待ち合わせをしていた登山口に着いたときには、雨がぱらつき始めていた。
妙義山は、緑が濃くて、空気がしけっているからか、色合いが重くて、木々が覆いかぶさってくるような圧迫を受けて、山に登る前から息が上がったみたいだった。まるで急斜面を上るときのように自然と息が早く、鼓動も早くなっていて、息を吸っても肺まで空気が届かないような、息苦しさを感じさせていた。
ガイドの鏑木さんは、僕が着いた時には、もう登山口に立っていたんだ。
「この山では自殺が多いんだ」
かすれた聞き取りづらい声で鏑木さんが最初に言った言葉。
鏑木さんは髪が白髪だけど顔にはしわがなく、目は窪んで落ち込んでいるけど、眼光が鋭くて、若いのか年を取っているのかよくわからない人だった。
鏑木さんは挨拶もそこそこに歩き始めた、僕も慌てて歩き出した。鏑木さんの足取りは思いのほかゆっくりで、息苦しかった僕は助かったと思いながら、後に続いていったんだ。
「そこで首をくくった女がいた」
鏑木さんは唐突に1本のブナの木を指さしたんだ。
「えっ」僕は何を言われたかわからず、聞き返した。
「だから、そこのブナの木で、女がロープをかけて首をくくったんだ。それからこのブナは首縊りのブナの木と呼ばれている」
ブナの木は周りの木とくらべても緑が濃くて、暗くて黒に近い色にみえたんだ。
確かにここで選ぶならこの木にするだろうなと思わせるような暗さがあった。
「その女は男に騙されて金も盗られて、何もかも失って、首をくくったんだ」
ガイドはいろんな話を知っているんだ、くらいにしか思わなかった僕は適当に相槌を打って、後につづいた。
「その女はお腹に子供もいたんだ、首をくくった時に腹が裂けて子供が腹から飛び出してきて、最初は生きていたんだが長くは持たなかった」
この頃になると鏑木さんはなんでそんなに詳しく知っているのか気になってきた。
「ずいぶん詳しいんですね」
僕の問いかけに鏑木さんは聞こえないふりをしたのか、無言でまた歩き始めたんだ。
少し坂道を上り、見通しのいい高台に出ると、そこには真っ赤な曼珠沙華が咲いていたんだ。
「ここで一休みしよう」
鏑木さんはバックパックをおろして、大きな岩に腰かけた。
僕も習って隣に腰をおろす。
「あの女は東京の大きな川が流れる○○市に住んでいたんだ」
鏑木さんの話し方がやけに胸に迫ってきて、僕の呼吸が早くなっていくんだ。
鏑木さんは何を話しているんだろう。
かすれたぼそぼそとしたしゃべり方がうっそうとした木の中でどんどん増幅されて僕の心に突き刺さってくる。
もう聞きたくないのに心では話の続きを求めていたんだ。
僕は恐る恐る「それで、どうなったんですか」話に水を向けてしまっていた。
「そこで男と出会ったんだ、最初は優しかったのかもしれないな、それがだんだんと女の優しさに付け込むようになり、金をせびり、嫌なことがあれば暴力を振るった」
「ずいぶん酷いことをする男ですね」
僕はこの話を続けたくなかった、いや鏑木さんの声を聴きたくなったのに会話を続けてしまっていた。
「それでも女は男を愛していたんだ、朝も昼も夜も働きづめで男に金を渡した」
鏑木さんの手が震えていた、その手はしわだらけで、やせ細っていて、まるで干からびたミイラみたいだった。
「男はその金でほかの女と遊んでいたんだ、女はそのことに気づいていたがそれでも男に金を渡し続けた」
雨脚が強くなり、ただでさえ聞き取りづらい鏑木さんの声が一層聞こえにくくなった。
「女の人は別れなかったんですか」
僕は本当は会話を切り上げ山頂を目指したかった。
いやもう登山なんかやめて帰りたかったのかもしれない、だけど鏑木さんとの話を切り上げることはしなかった。
「別れようと思ったのかもしれないな、だけど、もう女の腹にはその男の子供がいたんだ」
風が強く吹き、曼珠沙華が大きく揺れた。まるで命の灯が大きく揺れるように。
「男は子供がいると知ると、家にあった、女が必死にためたお金を持って、家を出て行ってしまったんだ」
雨が強くなり周りの視界がかすんでぼやけてきた。霧のせいでここがどこなのか、自分がどこにいるのかよくわからなくなった。
夢の出来事なのではないか、まだ宿で寝ているんじゃないかと思ったけど、曼珠沙華がくっきりと見え、ここが妙義山の登山道だと気付かされた。
「女は男を止めようとした、足にすがって出ていかないでくれと懇願したんだ、だが男は払いのけ、妊娠したらもう働けないだろ、金づるじゃないお前はいらないと言って、ほかの女のところに行ってしまった」
霧のせいで何も見えないはずなのに、首縊りのブナの木だけがはっきりと見えたんだ。
そして、そこになにかがぶら下がっているのも見えた。それは決して見てはいけないものだったのに、見えてしまった以上は目をそらすことが出来なかった。
それはぶらぶらゆれていて、木の根元でなにかが動いている。
それは少しづつこちらに近づいてきたのか、だんだんと大きくなってきたんだ。
「女はあきらめてしまった、すべてをあきらめて生まれ故郷に帰ってきたんだ」
鏑木さんにはあのブナの木にぶら下がってぶらぶら揺れているものが見えていないんだろうか。
あの動いてこっちに近づいてくるものも見えないんだろうか。
「女にとってあの男のいない世界は耐えられなかったんだろうな」
木の根元から動いてくるものが何かわかった。
あれは赤ん坊だ。
信じられないが赤ん坊が這ってこっちにやってきている。
僕は怖かった、ぶらぶら揺れているものよりも、赤ん坊よりも、鏑木さんのかすれ声が怖かった。
あの声を聴いているとゾワゾワとして、心がやすりをかけらたようになる。
「女にはあの男がすべてだった、田舎からでてきた女に優しくし仕事を教え、都会の孤独を癒してくれたあの男が、女のすべてだったんだ」
鏑木さんの声がなぜ怖いのかわかった。
声は鏑木さんから発せられているんじゃなかった、赤ん坊から聴こえてくるんだ。僕は動けなかった、本当はここから逃げ出すべきだったのにできなかった。
もう赤ん坊は目の前に来ている。
僕にできることは一つだけだった。
「ごめんなさい結菜、僕が悪かった。あの時、僕はどうかしていたんだ」
結菜は相変わらず木の下でぶらぶら揺れている。
そしてなぜか僕の手にはさっきまで風で大きく揺れていた曼珠沙華が握られていた。
その後、ブナの木が急に横向きになり、赤ん坊が立ち上がったんだ。視界が急に真っ赤になった。
木が横向きなったり、赤ん坊が立ちあがったんじゃなかったんだ、僕の首が切り落とされて横向きに落ちたんだ。
後ろには鏑木さんが血の付いたなたを持って立っていた。
結菜の苗字は鏑木だったんだ。
そのことに、今気が付いた。